お紅がまず立ち寄ったのは、朱達御用聞きの住まう春曲邸だった。
               訪ねる振りをして然り気無く朱の所在を訊いてみたところ、昨日より姿が見えず、知り合いなどを当たって捜索しているとのことだった。
               しかし事は一刻を争う。役人任せにしてはいられない。
               市中のありとあらゆる人に話を聞いて回り、朱の情報を集めた。
               それでも、有力そうな情報を得られたのは昼を回る頃であった。
              「ここが……。」
               お紅は一軒の飲み屋の前に立っていた。
               話によると、朱はここ数日、この店に頻繁に足を運んでいたそうだ。
               朱様は確か下戸……お酒は一切嗜まれないとおっしゃっていたはず……。
               そんな朱がこのような店に通っていたとあれば、ここで事件に関わる何かしらの調査をしていたのではないかと考えられる。
              「ま、参りましょうっ!」
               お紅は自らを奮い起たせて店の戸に手を掛けた。
              「…………」
               どこからともなくする酒のにおい。充満する息苦しい空気。そこかしこから響いてくる、怒号や卑下した笑い声。
               それらが入り交じり、まだ昼間だというのに、どこか独特の陰気さが漂う。
               店に一歩入った瞬間、お紅は慣れないその雰囲気に呑まれて足を止めた。だが、囚われた朱を思い出し、再び己に喝を入れて中へと踏み出した。
              「――その人なら憶えてるよ。」
              「本当ですか!?」
               仲居の言葉に、お紅は表情を綻ばせる。
              「ああ。最近は毎日のように顔を出してたからね。」
              「いつもどなたとお越しになっていたのでございましょう。」
              「ひとりだけさ。
               …ああ、でも… この間は、他の客と何やら話していたねぇ。」
               その言葉に、胸に当てていた手のひらに力が籠る。
              「そ、それはどのような方でございましょうか。」
              「どのようなも何も…」
               仲居は小さく笑い、
              「今日も来てる。うちの常連客のひとりさ。」
               そう言って奥の席を指差した。
               お紅の瞳に希望の光が宿る。
              「あ、ありがとうございますっ!」
               深々と頭を下げると仲居は苦笑した。
              「そんなに感謝されることをした覚えはないんだけどねぇ…。まぁよくわからないが、頑張んな。」
              「はいっ!」
               身を翻して配膳に戻る彼女の背中を見送ってから、お紅も教えてもらった卓へと足を向けた。
              
              
              「――あの……」
              「…んあぁ?」
               その卓にいたのは、ひとりの中年男だった。
               結った髷はぼさぼさで、着物も薄汚れている。
               まだ昼過ぎだというのに茹で蛸のような顔ですっかり出来上がっており、男の周囲には強烈な酒気が漂う。
               彼はどこからどう見ても場違いなお紅を一瞥して口を開いた。
              「…なんでぇ、嬢ちゃんは。」
               問われてお紅は折り目正しく礼をする。
              「お寛ぎのところ申し訳ありませんが、少々お訊ねしたいことがございます。」
              「あぁ~? 訊きたいこと? 俺にかぁ?」
               男は右に左にと揺れながら、猪口を持たない方の手でお紅を招く。
              「いいぜぇ… 酌くらいはしてくれるんだろぉ?」
              「は、はい。」
               お紅は失礼しますと声を掛けながら隣に腰掛け、徳利を傾けた。
              「いいねぇいいねぇ。」
               若い娘に酒をついでもらった彼は上機嫌だ。
               お紅が徳利を置きながら何をどう切り出そうかと思案していると、急に肩に手を回される。
              「きゃ…!?」
               勢いよく体を引き寄せられ、お紅は反射的に男の着物にしがみついた。
               気づくと肩にあった男の手が腰に回ってきている。
              「ぐへへ…っ。」
               すぐそばで向けられる邪な視線に耐えながら、ひたすら次の言葉を探す。ここで彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。
               だが、思考を巡らせている間にも、男のもう片方の手はお紅の懐に潜り込もうとしていた。
               ――キンッ。
               鯉口を切る音がして、男の体が硬直する。
               耳元でしたその音に恐る恐る視線を送れば、鞘から僅かに覗く刃が眼前でぎらりと光り、男はひぃっと息を飲んだ。
              「その嬢ちゃんに手を出したら、腕の一、二本じゃ済まないぜ? 気をつけな。」
               いつからそこにいたのか、男の首元に添えられた刀の主――寂玖は、不敵な笑みでそう言った。
              
              
               寂玖の視線が男からお紅に移る。
               彼女は驚きの表情をしていたが、目が合うと申し訳なさそうに視線を反らした。
               寂玖は固まっている男の腕の中からお紅を引き剥がすと、そのまま店を出て裏手まで連れていった。
               そこで向かい合い、沈黙が落ちる。
               憮然と見下ろす寂玖。
               気まずげに俯くお紅。
               暫しの後、先に沈黙を破ったのは寂玖であった。
              「……一応訊いてやる。何してた。」
               低く静かな声で問われてお紅は控えめに顔を上げた。
              「…は、はい…、朱様の居所を探しておりました…。」
               目を伏せたまま言うお紅の言葉にため息が漏れる。
              「無理だということは今し方わかったはずだ。
               帰るぞ。」
               寂玖はお紅の手を引いた。
               だがお紅が足を動かさなかったため、彼女はその場に倒れ込んだ。
              「なっ…!? 馬鹿!何してる!」
               慌てて彼女の体を起こそうとするが、それを拒むようにお紅は凛とした表情を持ち上げた。
              「朱様は皆のために、日々体を張ってご尽力下さっていた方にございます。そんな朱様を見捨てることなど、どうしてできましょうや。」
               お紅の瞳の奥には確かな強い光が宿っていた。
              「朱様をお救いするまで、わたくしは戻りません!」
              「お前には無理だと言っただろうが!!!」
               一際大きく怒鳴られ、お紅は目を見開いたままびくりと身を震わせた。
              「……無理……?」
               呆然とした唇から言葉がこぼれる。
               確かに、自分は見知らぬ男から要領よく話を聞き出す技量も持ち合わせていないし、朱がこの店に通っていたという些細な情報ひとつを得るのに半日かかっている。
              「…………」
               そこでふと脳裏に引っ掛かる。
               では、この人はどのようにして、市中を走り回っていた自分を見つけたのであろうか。
              「……わたくしでは……むり……」
              「そうだ。お前には無理だ。
               …わかったんなら行くぞ。」
               うわ言のように呟くお紅の手を再び引こうとするが、それよりも早くお紅の両手が寂玖の着物を掴んだ。
              「ならば寂玖様なら可能なのでございましょうか!」
              「!?」
               唐突に話を振られ、寂玖が瞠目する。
              「寂玖様ならば朱様を見つけることができるのでございましょうか! 答えて下さいまし!寂玖様っ!!」
               着物を掴む手に力が籠る。
               だが言葉とは裏腹に、その必死な表情は確信に満ちていた。
              「…………」
               寂玖は表情を一旦緩めて長い息を吐き――次いで睨むような視線を向けた。
              「……もしそうだと言ったらなんだ? 俺に命懸けで奴さんを助けに行けとでもいうのか?」
               お紅は身を乗り出しながら首を振る。
              「いいえ! 朱様の所在の見当がつく程度の情報を得られるだけで構いません! ですから……っ!」
              「嫌だね。なんで俺が。」
               吐き捨ててお紅の手を解く。
              「俺は金をもらってお前を護衛しているだけだ。慈善でやってるわけじゃねえ。
               奴さんには悪いが、人助けは門外漢だ。」
              「そんな……っ!」
               冷たい瞳が縋るお紅を一瞥する。
              「…言ったはずだ、俺が動くのは見返りがある時だけだと。
               嬢ちゃんが金子を持っているって言うなら話は別だがな。
               情報収集だけでも危険を伴う仕事だ。高くつくぞ。」
              「そ、それは……」
               お紅の顔に絶望が色濃く出る。
               彼女の父は娘を甘やかさず、彼女自身が店で働いた分に見合うだけの金子しか与えていなかった。
               何より、命を懸ける報酬の額面など、彼女には見当もつかなかった。
              「それとも――」
              「っ!?」
               口の端に笑みを浮かべた寂玖はお紅を無理矢理壁に押さえつけ、
              「さっきみたいに体使って支払うか?」
               顎に手を掛ける。
              「……!」
               お紅が呆然と寂玖を見返す。
              「命懸けるんだ、嬢ちゃんにもそれくらいしてもらわないとな。」
               お紅は目を見開いたまま、まるで凍りついたように動かない。
              「…………」
               そんな様子に息をつき、寂玖はお紅を静かに放した。
              「……わかったろう。嬢ちゃんにできることは何もねえよ。家で大人しくしてな。」
              「……わかりました。」
               お紅が呟く。
              「じゃあさっさと帰――」
              「報酬はこの身でお支払い致します。」
               自らの胸に手を当て、お紅はそう言った。
              「…はあ!?」
               寂玖の口から思わず漏れる素っ頓狂な声。
               だがその真剣な眼差しに、寂玖はすぐさま険しい顔になる。
              「自分が何言ってるかわかってんのか?」
              「わ、わかっております! この身、如何様にして戴いても構いません!
               ですから… ですから……っ!」
               そこまで言ってから、お紅は力なく顔を伏せて小さく息を吐いた。
              「……申し訳ありません……今のは…忘れて下さいまし……。」
               そう言ってゆっくりと顔を上げる。
              「寂玖様が本気で仰ったわけではないとわかっていたはずなのに……つい…戯言を申してしまいました。
               先程のことは… どうか忘れて下さいまし。」
               微笑んでいたものの、その瞳には沢山の滴が流れることを許されずに溜まっていく。
              「…わたくしは見目も良くなければ財もなく、寂玖様の仰る通り、ひとりでは何もできない無能者にございますが… どうにかして知恵を絞り、別の手段を探します故。」
               震える声色でなんとかそこまで言い切ったものの、遂に行き場を失った滴が溢れ出し、お紅は慌てて寂玖に背を向けた。
              
               何をやっているんだ? 俺は…
              
               寂玖はその光景に立ち尽くす。
               どんなに冷たく接しようと、どんなに突き放そうと、どんなに泣かせようと… お紅が諦めてくれなければ、そんなものは何の意味も成さないと言うのに。
              「…………」
               小さくも懸命なその後ろ姿を見つめ、
              「……はあ。」
               寂玖は本日幾度目かの吐息を漏らした。
              「…お紅。」
              「は、はい? なんでございましょう。」
               呼ばれてお紅は目元を押さえていた手を離し、濡れた瞳で何事もなかったように微笑みを向けてくる。
              「前払いだ。それなら手を打ってやる。」
              
              
              「お、お待たせ致しました。」
               襖の向こうで声がして、寂玖はそちらに視線を向けた。
              「入れよ。」
              「し…失礼致します…。」
               寂玖に割り当てられた離れの一室に、しずしずとお紅が入ってくる。いつもの綺麗な着物姿ではなく、寝間着一枚しか纏わぬ姿で。
               お紅は、布団の上で胡座をかきながら書を読んでいた寂玖の横に並んで腰を下ろす。
               どうにも所作がぎこちない。
              「てっきり逃げ出したのかと思ったぜ。」
              「そっ そのようなことは致しませんっ!」
               書物を床の間に抛りつつ揶揄すると、頬を染めながらもいつものように抗議される。どうやら調子を取り戻したようだった。
              「そうか? じゃあ早速。」
               寂玖の長い両腕がお紅の華奢な体を抱き寄せる。
              「~~~~っ!」
               目に見えて緊張している様子には、思わず苦笑してしまう。
              「…そんなに構えるなって。孕ませやしねえから安心しな。」
              「えっ…」
              「ん? どうした?」
               気を利かせて言ったつもりの言葉に驚きの眼差しを向けられ、更には淋しげな表情をされ、
              「や… やはりわたくしなどではご不満ということでございましょうか…。」
               終いにはひどく落ち込まれてしまう。
              「はあ? なんだ、ややこが欲しかったのか?」
               問い返すと、お紅の顔が一気に赤く染まる。
              「と、床を共にする殿方は、生涯おひとりと心に決めております故……。」
               恥ずかしさに負けて完全に俯いてしまったお紅を見て、寂玖は苦笑と共に吹き出した。
              「俺なんかの子が欲しいとは、酔狂な嬢ちゃんもいたもんだ。」
              「わ、わたくしは真剣に…!」
               頬に触れた寂玖の手が反論を遮る。
              「…いいだろう。ただし… そうだな…、三年後だ。その時にもっと良い女になっていたら、本気で抱いてやる。」
               お紅は瞠目してから両手に握り拳を作る。
              「は、はいっ! 精進致しますっ!」
               まさかこんなに全身全霊を傾けた返事をされるとは思っておらず、寂玖は今度こそ、くっくっくっと腹を押さえて笑ってしまった。
              「さ、寂玖様!? わたくしは本当に…っ!」
              「…わかってる。」
               寂玖はもう一度強くお紅を抱き締めた。
               体を伝う温もりに、意識がどこかへ飛んでいってしまいそうになる。
               だが、お紅にはまだ伝えねばならないことがあった。
              「…あの…寂玖様…?」
              「…なんだ?」
               澄んだ声に呼ばれて腕の中を覗き込むと、お紅も顔を上げる。
               かち合った視線に頬を赤らめて視線を反らしてしまうが、それでもお紅はもう一度、ゆっくりと寂玖を見上げた。
              「実は… もうひとつお願いしたいことがございます。」
               それに寂玖は瞬きひとつ。
              「…意外と欲張りだなお紅。まあこの際だから聞いてやる。ただし、報酬は二倍だぞ。」
              「心得ております。」
               腹を括ったのだろう。お紅の瞳には確かな決意が見える。
               寂玖は小さく微笑う。
              「…いいだろう。話せよ。」
              「はい。では――」
               お紅の大きな瞳が寂玖を見つめ、凛とした口調でこう言った。
              「無事にお戻り下さいまし。それが、わたくしの二つ目のお願いにございます。」
              「……!」
               寂玖は目を瞠った。
               かつて床の上でこんなにもまっすぐな眼差しを自分に向けてくれた女がいただろうか。
              「…………。」
              「さ、寂玖様?」
               寂玖が急に立ち上がったので、お紅は首を傾げる。
              「…やはり後払いにしてもらおう。こうしている間に奴さんにおっ死なれでもしたら目覚めが悪い。」
              「もう、寂玖様… 縁起の悪いことを仰らないで下さいまし…。」
              「それに――」
               刀を差しながら、寂玖は微笑む。
              「楽しみは取っておいた方が、仕事にも精が出るってもんだ。」
               その言葉に、今度はお紅が目を瞠る。
               支度を終えた寂玖はお紅を振り返った。
              「報酬二倍、忘れるなよ。」
              「寂玖様こそ、二つ目の約束、必ずお守り下さいまし。」
               お紅もそう言って微笑むと、正座を正して綺麗な指先を揃えて頭を下げた。
              「いってらっしゃいませ。お戻りをお待ち致しております。」
              
              
               どれくらいの時が経ったのだろう。
               寂玖がここを発ったのは、確か昼の遅い時間だったはずだ。
               お紅は去り行く背の残像に思いを馳せながら橙色に染まりつつある空を見上げていたが、またすぐに視線を目の前の通りに戻す。
               いくら寂玖と言えど、こんなに早く帰ってくることはないだろう。
               頭ではわかっているはずなのに、視線は行き交う人々の顔をひたすら追っている。
               寂玖と朱の顔を探して。
              「――お嬢様、そろそろ夕餉のお時間にございます。」
               侍女の一人が屋敷の前で往来を眺めているお紅を呼びにやってきた。
              「…わたくしは寂玖様がお戻りになられたら一緒に戴きます故、皆で先に食べていて下さいまし。」
              「……承知致しました。」
               何か言いたげにしながらも、侍女は一礼して屋敷へと戻っていった。
               太陽が地平線に吸い込まれようとしていた。
              「…………」
               刻一刻と過ぎる時の流れにこれほどもどかしさを感じたことがあっただろうか。
               お紅が見守る中、日没が訪れた。
               闇が深くなるにつれて星々が輝き始め、頭上が賑やかになればなるほど地上は静けさを増していく。
               往来は随分と減り、わざわざ目で追わずとも、提灯に照らされた人々の顔が容易に確認できるようになった。
               だが、彼女の見知った顔は、まだ見えない。
              「…………」
               いつの間にか、吐く息が白い。
              「お嬢様…」
               屋敷の中から再び侍女がやってくる。
              「いい加減お戻り下さい。夜はまだ冷えます。」
              「…いいえ。わたくしはここでお待ち致します。」
               最早視線さえよこすことなく人影も疎らな通りを見つめ続けるお紅に、彼女は小さく息をついた。
              「…ではこちらを。旦那様がお渡しせよと。」
               差し出された羽織に、お紅は目を細める。
              「…ありがとうございます。父上にもそう伝えて下さいまし。」
              「かしこまりました。」
               侍女が屋敷に戻る姿を見送りながら、お紅は羽織に袖を通した。
              「…………」
               凍てつく指先を擦り合わせる。
               既に黒一色となった通りには、草履の音ひとつしない。
               こんな時分には辻斬すら夢の中にいることだろう。
               遠くに視線を投げても提灯の灯ひとつ見えない。
               暗闇の中で唯一うっすらと見える自分の両手すら、気を抜くと闇に飲まれてしまいそうになる。
              「……っ!」
               首を振ってつまらない雑念を払う。
               だが一方的に孤独と不安が募る。
               お紅はそれに必死に耐えた。
              「…………」
               漸く遠くの空が明るみ始め、孤独に押し潰されそうになっていた気持ちが少しだけ和らぐ。
               だが、不安は時を刻めば刻むほど膨れ上がっていった。
               徐々に広がっていく陽光がお紅の影を伸ばす。
              「……?」
               ふと顔を上げると、地平線の小さな黒点が目に入り、お紅の瞳が大きく開く。
               人影だ。
               少しずつではあったがその影が大きくなり、こちらに近づいてきていることを示す。
               歪な形のその影が人をひとり背負っているからだとわかる頃には、お紅は我知らず駆け出していた。
              「――寂玖様…!? 寂玖様!!」
              「……お紅?」
               聞き覚えのある声に顔を上げた寂玖は一瞬瞠目したが、すぐに目尻をつり上げる。
              「お前はまた…! ひとりで屋敷から出るなとあれほど――」
              「寂玖様っ!」
               胸にお紅が飛び込んでくる。
              「寂玖様…! 寂玖様…!」
              「…………」
               蝉のようにしがみつきながら自分の名を一心に呼ぶ姿にすっかり毒気を抜かれてしまう。
              「…これは…夢や幻ではございませんよね…?」
               寂玖は苦笑する。
              「…大袈裟な奴だ…当たり前だろ? ほら、ちゃんと約束守ったぞ。」
               頭を撫でながら小さく微笑む寂玖の言葉に、お紅の顔色が変わる。
              「朱様!?」
               寂玖の背に担がれている朱を覗き込むが、少しも動く気配がない。
              「寂玖様、朱様は…!?」
              「…かなり瀬戸際だったが…まあなんとか間に合った。一応息はある。」
               肩越しにぐったりしている朱を見ながら寂玖が言うと、お紅は口に手を当てる。
              「そ、それは一大事ではございませんか…!! 先に戻って床の準備とお医者様の手配をして参ります!!」
               ぱたぱたと草履を鳴らしながら慌てて屋敷に入っていくお紅。
               そんな光景に寂玖は小さく息を吐いたが、その口元は微笑っていた。
              
              
              「――寂玖様、紅にございます。」
              「入れ。」
               お紅は言われた通りに襖を開けて部屋に入り、寂玖の前で正座する。
              「…どうだった。」
              「はい、かなりの数の打撲と骨折は負っているものの、命に別状はないそうです。」
               ほっとした表情で微笑んでから、お紅は畳に三つ指を突く。
              「寂玖様、この度は、真に――」
              「礼ならいらねえよ。」
               頭を下げようとするお紅の体を寂玖が押し倒す。
              「交換条件だからな。」
               にっと微笑う寂玖に、お紅の頬が赤く染まる。
               そうして暫く視線をさ迷わせた後、お紅は控えめに口を開いた。
              「あ、あの…… ひとつお伺いしたいことがあるのでございますが……。」
              「なんだ?この期に及んで。」
               お紅はちらりと寂玖を見てから再び顔を伏せる。
              「…あの…、寂玖様は、今後も心の健やかさを保つために遊郭に通われるのでございますよね…?」
               質問の意図がわからずに寂玖は首を捻る。
              「…ん? まあ、必要に応じてな。」
              「で、では…!」
               お紅がここぞとばかりに勢いよく顔を上げる。
              「その時はわたくしを抱いて下さいませんか!?」
               唐突な発言に、寂玖は瞠目して瞬き数回。
              「…なんでえ嬢ちゃん。『お願い』もなしに報酬をくれる気になったのか?」
               意地の悪い笑みを浮かべる寂玖に、お紅はまた俯く。
              「い、いえ… ですから……」
               両の指を交差させたりしながら、お紅の視線が窺うように寂玖を見上げる。
              「さ、寂玖様には…他の方と……その…、床を共にしないで戴きたいのです。そ、それが、此度の『お願い』にございます。」
               言われて寂玖の動きが止まる。
               その様子に、お紅は悲しそうに目を伏せた。
              「あ… や、やはりわたくしなどでは、寂玖様のお心は癒せませんよね…。」
              「…信用ならねえなあ。」
               ふいにそう言われ、お紅は弾かれたように顔を上げた。寂玖はまた意地の悪い笑みを浮かべている。
              「お紅、お前生娘だろう? 後からやっぱりもう嫌ですとか言い始めるかも知れないしな。」
              「そ、そんなこと…! 二言はございませんっ!」
               お紅は心外とばかりに必死に抗議する。
              「本当か?」
              「本当にございます!!」
               二人の視線が交錯する。
              「……わかった。」
               寂玖の静かな眼差しが真っ直ぐお紅を捕らえる。
              「女を抱きたくなったらお前を抱く。…それでいいか。」
               お紅は目を見開いてから、嬉しそうに細めた。
              「は、はいっ!」
              「じゃあ、まずは最初の報酬分からだな。」
               そう言いながら寂玖は両肌を脱ぐ。
               眼前に突然晒された精悍な上半身にお紅は慌てて顔を反らすが、寂玖の手がすぐにそれを押し戻す。
              「言ったそばから逃げ腰だぜ?」
               揶揄され、お紅の頬が更に紅く染まる。
               目のやり場に困った末、お紅は控えめに寂玖を仰ぎ見た。
              「な… 何分初めてのことにございます故、優しくして下さいまし…。」
               それに寂玖は目を瞬かせたが、すぐにまた人の悪い笑みを浮かべた。
              「…努力はしよう。」