【番外編】それから 後編

「それにしても、大丈夫なのかい?お紅ちゃん。」
「? 何がですか?」
 凛の手を引きながら、紅が肩越しに振り向いた。
「寂玖だよ。
 あんなに反対してただろ。」
 ふと思ったことを口にすると、紅がびくりと身を震わせた。
「…え、ええと…
 だ、大丈夫です!
 寂玖様も理解して下さるはずですっ!」
 まるで希望を込めるかのように、弱々しく拳を握る。
「…うん、状況は理解したよ…。」
 察した凛は、これ以上その話題に触れるのをやめた。
「そ、そんなことより、人のいない今のうちに、早くここから出ましょう!」
「うん。」
 二人は気を取り直して走り始めた。
 走るといっても、踝まである裾のせいで大した速さは出ない。男に追いかけられたら、あっという間に捕まってしまうだろう。
 もし見つかったら、お紅ちゃんだけでも逃がさないと…!
 凛は拳を握る。
 助けに来てくれたのは、本当に嬉しい。
 だがやはり、これ以上巻き込むわけにはいかない。
 凛は注意深く周囲を見回す。
――!?」
 何かが視界で動いた気がして振り向くと、凛達が先程までいた部屋の前に人影が見えた。
 けれどその影は、特に凛達に気付く風でもなく、そのまま襖を開けて部屋の中へと消えていった。
「……え…? あれって……」
――凛さん?
 どうかしましたか?」
「……あ、いや……」
 足を止めて首を傾げる紅に、凛も視線を戻し――
「……なんでもない。」
 きっと見間違いだろう。あの人がここにいるはずはないのだから。
「…行こう。」
「はい。」
 二人は再び走り出した。

 それにしても、おかしい。
「……全然人気がないね。」
 そう、不気味なほどに。
 家の者はおろか、あれだけいた浪人達も、奉公人も、誰の姿も見えない。
 時折明かりの灯った部屋の前も通ったが、やはり人のいる気配はなく、難なくやり過ごすことができた。
「どこかに集まって宴でも開いているのかもしれませんね。」
 と、紅。
 なんとも前向きである。
「……そうだと嬉しいんだけど…。」
 凛は小さく呟いた。
 しかし、ここまであっさり行くと、逆に不安を煽られる。
 既に逃げ出したことが知れていて、待ち伏せされている可能性もある。
「ともかく、折角の好機です。ありがたく乗じましょう。」
「……うん…。」
 もう門も目前だ。何か仕掛けてくるのであれば、そこしかない。
 凛は警戒心を強める。
 だが、それは杞憂に終わる。
 結局、誰に会うこともないまま、二人は門を抜けた。

――で、言い訳は……ねえよな?」
 紅が取っているという宿に着いたのは、朝日もすっかり上り輝いている頃だった。
 部屋に入ろうと襖を開け――
 この場面である。
「さ… 寂玖様…。」
 戸口を塞ぐように聳え立つ――口元に微笑()みを浮かべながらも目の笑っていない彼を見上げ、紅が恐る恐る呟く。
「あの… これは……っ……」
 言葉半ばでギロリと睨まれ、彼女は力なく項垂れた。
「……勝手なことをして、申し訳ありませんでした……。」
――寂玖。」
 そんな二人の間に、凛が割って入る。
「お紅ちゃんはあたしのために危険を冒してまで来てくれたんだ。責めないでやっておくれ。」
「…………」
 それでも暫く睨んでいた寂玖であったが、鼻で息を吐くと共に表情を緩め――
「……まぁいい。この話は後でじっくりするとして……」
 凛を見る。
「…ん? なんだい?」
「凛。お前がここにいるってことは、ちゃんと自分の意思で出てきたんだな。なかなかやるじゃねえか。」
 ぽんぽんと優しく頭を撫でられ、ちょっと気恥ずかしくなる。
「ま、まぁ、元々好みじゃなかったからね、領主様。」
「そうか。
 …で、何発殴った?」
 片手のひらに片拳を打ち付け、どこか楽しげに言う。
「ちょっ…
 やだねぇ、あたしはそんな野蛮なことはしないよ!」
「……俺を殴るのは野蛮にならねえのか?」
 べしりと叩かれた腕を摩りながら、寂玖は呆れた顔でまたため息を吐いた。
「……あ、そうだ寂玖。」
「ん?」
「あの、さ… 昨日なんだけど……」
「……ん? 昨日?」
 首を傾げて、見返してくる寂玖。
「…………」
「…………?」
 寂玖は、やはり心底不思議そうに首を傾げている。
「…………いや、なんでもない…。」
「……そうか?」
 凛はふぅ、と息を吐くと、帯に手を添える。
「…それにしても… お腹空いちゃった。
 この辺に、どこかいいお店はあるかい?」
「そういえば、俺も腹減ったな。」
「では、まずは朝餉を食べに参りましょうか。」
『賛成。』
 満場一致で、一行は身を翻した。

 凛は紅達と共にそのまま一泊し、追手がないことを確認して宿を発った。
――では、わたくし達は、ここで失礼しますね。」
「…うん。
 本当に、何から何までありがとう。」
「道中お気をつけて。」
「二人もね。」
「達者でな。」
 岐路で紅達と別れた凛は、ひとり歩き出した。
――っと、今のうちに、行く先を確認しておかないとね。」
 紅は奉公先の斡旋までしてくれた。
 適当な茶屋に入り、懐に入れていた懐紙を取り出す。
 そこには、やはり綺麗な文字が流れるように記されていた。
「ええと… 都の…和巳屋…かぁ…。どんなところなのかな…。」
 丁寧に畳み直し、懐へと戻していると、向かいの縁台に座る男達の話が聞こえてきた。
――そうそう、聞いたか?あの話。」
「あん? なんでい。」
(あずま)村の話さ。」
 湯飲みを持つ手が震える。
 それは凛のいた村の名だ。
――お前も聞いたことあるだろう? あの、世直し侍の噂。」
「あぁ、鬼神だってヤツか?」
 ……世直し侍? 鬼神?
 てっきり、盗賊団が供物の村娘を拐かした話か、その娘が逃げた話が出るものだと思っていた凛は、目を瞬かせた。
――それがよ、東村にも出たんだと。
 あそこの領主が変わったのは知ってるだろ?」
「ああ。」
「でも、これがまた、ひでぇ奴でな。東村の連中はもう困り果てていたわけだ。
 そこで満を持して、鬼神が現れたってわけだ!」
「…あのなぁ、鬼神なんて、本当にいるわけないだろ。」
「いるんだよ、それが。
 その証拠に、現に東村の領主は、何者かに悪事を暴かれて、お縄になったんだからな。」
「確かに、領主は捕まったらしいけどなぁ。」
――え…!?」
 今度は思わず声が漏れる。
――村の奴等に聞いた話だと、なんでも、夜のうちに何者かが屋敷に押し入って、あっという間に領主達を懲らしめ、証拠を掴んで奉行所に叩きつけたらしいぜ。ぐるぐる巻きにされた領主を添えて、な。」
――…………」
 鬼神。
 確かに自分も、来てほしいとは願っていたが…。
「あ…」
 あの日の夜の、異常なまでの屋敷の静けさを思い出す。
 あの時、既に鬼神が来ていたというのなら、それも合点がいく。
「…じゃあ、あれは…」
 あの屋敷で、逃走中に見た唯一の人影。
 屈んで部屋に入っていく、髪を高く一括りにした浪人姿の男。
 もしあれが、見間違いでないのなら――
 次いで紅の言葉が蘇る。
『今は都から西へと旅をしております。』
「…………」
 凛はふむと小さく唸る。
 鬼神の噂も、天女の噂も、そういえば聞こえてくるのは東の方からだった。
「……なるほどね…。」
 口元に笑みが浮く。
 カラクリが、見えてきた。
――おっちゃん、ごちそうさま。」
 凛は湯飲みを置いて店を後にした。
 のんびりしてはいられなくなった。なにしろ、道中でやることができたのだから。
「…さぁて、あたしはどんな脚色を入れてやろうかねぇ。」
 楽しげに呟きながら、凛は軽い足取りを都へと向けた。