【番外編】それから 前編

「……はぁ……」
 湯飲みを両手で包みながら、何もない空を見つめていた。
 最近よく聞く噂がふたつある。
 ひとつは、この世の不条理を嘆いて舞い降りた天女が窮地に陥った人々を救う話。
 もうひとつは、侍の姿を借りた鬼神が悪政を敷く者達を粛清し、世直しする話。
 ありがちな眉唾話だが、今はそれにさえすがりたい気持ちだった。
「…どっちでもいいから、ここにも来てくれないかな…。」
――もし、どうされたのですか?」
 ため息が聞こえたか、隣から声が掛かる。
 見れば、同じ縁台に、この世のものとは思えない美しい娘が座っていた。
 人形のように整った顔立ち。華奢な体を包み込む、上品に着こなされた長着。控えめに差した(べに)が、美しさに更なる彩りを添えている。
 本当に天女がいるのだとしたら、きっとこんな感じに違いない。
「……あの……?」
 微笑みながらも首を傾げられ、見惚れていた彼女――凛は我に返った。
「…ああ、ごめんごめん。
 いやなに、ちょっと悩みごとがあってね。気にしないでおくれ。」
 そう笑みを作ってパタパタと手を振る。
 が、
――おい、凛。くれぐれも逃げないでくれよ。」
 更に別の所から掛けられた声に、頭の片隅に押しやろうとしていたものが蒸し返された。
「……逃げないよ。」
 凛は至極不機嫌な表情で――それでもできるだけ感情を抑えた声を絞り出した。
 睨んだ先にいたのは、諌めるような表情をこちらに向ける、この茶屋の店主だった。
「……どういうことですか?」
 一連のやり取りにただならぬものを感じ取ったのだろう。天女が心配そうに小声で訊ねてきた。
――訊いてどうする。厄介事はごめんだぜ。」
 今度は背後からの声が割り込んでくる。
 振り向けば、後ろの縁台に男がひとり腰掛けていた。
 異国人かと見紛うほどの、高くひと括りにした珍しい赤茶の髪色と、長身で精悍な体躯。まばらに伸びる無精髭。頬から首へと続く傷痕も手伝い、その呆れたような表情ひとつでも、なかなかの迫力と威圧を醸し出す。
寂玖(さびく)様…。」
 隣の天女が応える。その呟きには批難の色が混じっていた。
 どうやら天女の連れらしい。
 天女は改めて微笑むと、すぐにこちらに向き直る。
「…あの、よろしければ、お話をお聞かせ下さいな。」
「おい、お(こう)。」
 咎めるような声がまた背後から聞こえたが、天女は凛から視線を逸らさず、にこりと柔らかく微笑んだ。
 次いで背後から聞こえてきたのは、ため息だった。

 その優しい微笑()みに心解きほぐされ、気づけば身の上話をしていた。
 最近領主が変わり、この村の状況は一変した。
 つり上げられた税は暮らしを圧迫し、村民は瞬く間に貧窮。
 その頃合いを見計らったかのように、次の御触れが掲げられる。
 月に一度、若い娘を『献上』すれば、その月の税を軽減すると。
 物語によくあるような典型的な展開が、まさか自分の村で実現しようとは、村人の誰ひとりとして想像していなかったことだろう。
 勿論、凛自身もそうだ。
 そして、その栄えある供物第一号が、自分であるなどとは。
「…なるほど。それで、『逃げるな』…ですか…。」
「全く身勝手な連中だな。」
 親身になって話を聞いてくれた彼女の名は紅。うんざりと吐き捨てた男は寂玖と言うらしい。
 紅はいかにもいい所のお嬢様といった風体で、言動のひとつひとつが一々丁寧だ。
 寂玖は帯刀していることから彼女の用心棒かと思いもしたが、二人の様子を見るに、どうもそういうわけでもないらしい。
「とっとと逃げちまえ。」
 嫌気を隠そうともせず言ってくれる寂玖に、凛は苦笑する。
「…まぁ、あたしも何度もそう思ったけどね…。
 あたしが逃げたところで、また別の誰かが同じ目に遭うだけだろ?」
 すると、隣を歩く紅に「お優しいのですね」と微笑まれ、凛は照れ臭そうに視線を反らした。
「べ、別にそういうわけじゃないよ。
 家族も何もないあたしが、一番適任だったってだけさ。」
 そう言っている間に、三人は村の入口に到着していた。
「…というわけで、この村にはあまり長居しない方がいい。
 お前さん達は旅人かい?」
「はい、今は都から西へと旅をしております。」
「へぇ。
 じゃあ丁度よかった。
 ここから西に行った隣の村まではそんなに距離はないから、そこで宿を取りなよ。
 そこは領地も違うし、平和なところだから。」
――だそうだ。」
「……でも……」
 紅は心配そうに凛を見、それを見た寂玖の口から、またため息が漏れる。
「…何度も言ってるだろ。お前みたいなお嬢はなんの役にも立たねえんだよ。大人しくしてな。」
「そ、そんなことは…!
 わたくしだって、何かのお役には立てるはずです!」
「いいや、立たないね。」
 必死に訴える紅を冷たく突き放す寂玖。
 しかし紅は一生懸命食い下がる。
「た、立ちますっ!
 いえ、立ってみせますっ!
 えぇと…」
 紅は必死に考えを巡らせているようだった。
 その姿を見て、凛は彼女が次に思いつくだろうことが、なんとなくわかった。
「是非わたくしを、凛さんの身代わりにっ」
『却下。』
 言葉半ばで凛と寂玖の声が重なった。
 それにぱちくりと瞬く紅。
 絶妙な唱和とその表情が妙に愛らしく、
「……ふ……ふふっ…、あはははは!」
 凛は思わず吹き出していた。
「……凛さん?」
「ん? 何がどうした?」
 突然笑い始めた凛を見て、不思議そうに首を傾げる紅と寂玖。
「…いや…、ごめんごめん。
 こんな風に… しかも同じ年頃の人と話したの、久し振りでさ。
 なんかちょっと楽しくて。」
「そうか?
 まあ楽しかったならいいけどな。」
「……あの、凛さん。」
 差して気にしない風に言う寂玖の隣で、しかし真剣な表情を崩さない紅は、覚悟を決めた眼差しで口を開く。
「…やはり、わたくしがむぐっ!」
 が、寂玖の大きな手でその口を塞がれる。
「お前、男をなめてんのか?
 お前みたいな色気の欠片もない、まともに酌もできないような女には、凛の身代わりなんて勤まらねえんだよ。
 凛の面子が潰れるからやめろ。」
 同じ部屋にいるだけでも一生の自慢になるだろう娘に向かっていい放つ。
 だが、その言葉に、凛は妙に納得してしまった。
 確かに紅は美しかった。
 だが、彼女が纏う神々しさが、逆においそれと近づけない気持ちにさせるのも事実であった。
 自分が男であったなら、余程自信のある長者か美丈夫でもない限り、遠巻きから崇め拝んでいたいと思うに留まっていただろう。
 邪な気持ちなど抱こうものなら、天罰が下りそうだった。
「悔しかったら、凛くらい女を磨いてから出直してくるこった。」
 その紅を目の前にしてそんな台詞を口にする寂玖に、凛は目を丸くし――また小さく吹き出す。
「寂玖、あんたって、意外と優しいんだねぇ。」
「よくわからねえが、俺は本当に思ったことしか言わねえぞ。」
 凛はなおもコロコロと笑いながら、「そうかい、ありがとさん」と応えた。
「…というわけで、俺達は先を急ぐぞ。いいな。」
「むぐ~っ!」
 それに抗議の声を上げる紅。
 申し訳程度に眉をつり上げる表情は、普段の楚々とした雰囲気とはまた違い、年頃の娘然として見え、その怒った表情すら、見ていてどこか微笑ましくなる。
「…お紅ちゃんも、ありがとう。
 でも、その気持ちだけで十分だからさ。
 だから、この事は忘れて、旅を楽しんでおくれ。」
「取り込んでるところ邪魔して悪かったな。
 領主が好みじゃなかったら、さっさとぶん殴ってとっとと逃げてくればいい。」
「ふふっ、そうだね。」
 小さく微笑(わら)う凛に、寂玖は頷き身を翻す。
「じゃあな。」
「うん。道中気を付けて。」
「むぐ~~~~っ!」
 なおも口を塞がれたまま片腕に担がれ、強制的に連れていかれる紅。
 そんな賑やかな二人の姿を、凛は手を振って見送った。

 それから数日後。
 月が変わったその日の夕暮れ時。
 あばら屋の前に一台の駕籠がやってきた。
 それを率いてきた浪人達は、家の前で待っていた凛を取り囲み、強い力で押さえつけ、両手両足を縛って駕籠の中へと放り込んだ。
「…別に逃げやしないのに…。」
 揺れる駕籠の中で、縛られた手足を眺めつつ、ため息をつく。
 たとえ逃げたところで、自分にはもう行く当てもないのだ。
「…まるで罪人にでもなった気分…。」
 起き上がれず突っ伏したまま呟いても、誰も聞いてさえくれない。
 虚しく自分へと響くだけだった。
「……短い人生だったな……」
 親が亡くなり、それでも、ひとりで生きていく術を漸く身に付け始めた時だった。
 まだいい(ひと)にさえ、出会えていない。
 これからだと、そう思っていた矢先の出来事だった。
「…………」
 小さく息を吐き、しかしと思う。
 最後の最後に、会ったばかりの自分を気にかけてくれる人に会えた。
 自分のために怒ってくれる人に会えた。
 それだけでも、少しは救われた気がした。
「…あの二人、今頃どの辺を歩いているのかな…。」
 凛は、二人が道すがらにやんややんやと言い合いながら旅する風景を思い浮かべて微笑んだ。
 そうしているうちに、駕籠は屋敷に到着した。
 足の縄を外された凛は、言われるがまま先導の男に続く。
「…………」
 屋敷内には、そこかしこに人相の悪い浪人が立っていた。
 ある者は威圧的であり、ある者は見下すような視線を向けてくる。
 その物々しい空気に身を竦めながら、男の影に隠れるようにして足早に廊下を進んだ。
 暫く行った先の部屋に押し込められた凛は、また床に転がった。
 後ろ手に縛られているので、上手く起き上がることすらできず――最早起き上がろうとする気力も湧かず、寝転んだまま周囲を見回した。
 今この部屋の中には、誰もいないようだった。
 閉ざされた襖越しに窺うと、もう夜であるにも関わらず、外はほんのりと明るんでいた。
 そういえば、今日は満月だったと思い出す。
 ……これからどうなっちゃうんだろ……。
 一生ここに囚われたままなのだろうか。
 それとも、次の満月に新しい娘が来たら、ここすら放り出されるのだろうか。
 そうなったら、どうやって生きていくのだろうか…
 様々な想いが巡る。
 どれくらいそうしていたのだろうか。
 何気なく眺めていた襖に影が差した。
 反射的に体が強張る。
 ぼうっとしていたから時間の感覚が曖昧だったが、外から聞こえていた浪人達の話し声や奉公人達の雑踏も、今は何も聞こえなくなっていた。
 凛が思っている以上に、夜が更けているのかもしれない。
 では、あの影は――
「……っ……」
 自分の身に起こるだろうことを思い、瞳の奥が熱くなっていく。
 そんな凛に構わず、襖は開かれて――
――凛さん!」
 現れた影に呼ばれ、凛は瞠目する。
「……えっ、お紅ちゃん!?」
 月明かりの逆光で姿はよくわからなかったが、背格好――それに何より、この澄んだ声は、聞き違うはずもない。
 駆け込んできた彼女は、凛の姿を見て眉を寄せた。
「…っ…、ひどい…! どうしてこんなこと…!」
 美しい顔を怒りに歪ませ、両腕の戒めを解いてくれる。
「…あ、ありがとう、お紅ちゃん……って違うだろ!」
 ここにきて漸く、凛は冷静になる。
「なんでこんな所に来たんだい!」
「凛さんを助けるためです!!」
 迷いなくいい放たれ、思わず気圧される凛。
「こんなこと、見過ごせるわけありません!
 それに、いくら村のためとはいえ、凛さんひとりを犠牲にするなんて…!」
「……っ……」
 凛はぐっと拳を握った。
 自分だって、そう思う。
 だが――
「……言っただろ。あたしがここから逃げたら、村に迷惑がかかる。
 それに、村から出ても、行く所なんてないんだ。」
 そう。まるで、自分自身に言い聞かせるように。
「だったら、ここで男達を適当にあしらいながらタダ飯食って生活するのも、悪くなさそうだろ?」
「…………。」
 紅は、懸命に微笑()みを浮かべる凛の手を取り、そっと自分の手を重ねる。
「……大丈夫です。
 村に危害が行かず、凛さんの生活も守れるよう、ちゃんと考えて来ましたから。」
「……え……、どういうことだい……?」
 思わず訊き返すと、紅は袂から何かを取り出した。
「これを置いて、一緒に逃げましょう。」
 首を捻る凛に向かって、何かが差し出される。
 どうやら文のようだが……
「…………!」
 凛は中を改める。
 そこには、妙に綺麗な文字の、至極丁寧な文章で、犯行声明文が書き連ねてあった。
「…凛さんは、領主様に反感を抱く盗賊団に拐かされたことにします。
 盗賊団がしたことであれば、村の非にはならないでしょう。
 事前にその盗賊団の真しやかな噂も流しておきましたから、ある程度は時間も稼げると思います。」
「…盗賊団って…」
 そう呟く凛に構わず、文を置く適当な場所を探しに行ってしまう紅。
 ちなみにその『盗賊団』は、顔の下半分を白布で覆い、その上に笠を被っていた。
 どこからともなく漂う高貴な雰囲気も手伝い、盗賊どころか、最早お忍びの姫君である。
 ――などと考えていると声を掛けられ、思考が現実へと引き戻される。
「準備は整いました。
 さぁ、参りましょう。」
 差し伸べられた手に、けれど凛は首を振る。
「で、でも…」
 言い淀みながら、不思議に思う。
 さっきまであんなにも逃げ出したく思っていたはずなのに、何故頷けないのだろう。
 そう自問するも、足が、体が、鉛のように、重い。
「でも…、あたしは…っ」
 いざ逃げ出すとなると、どうしようもなく怖かった。
 もし捕まってしまったら、今より酷い仕打ちを受けるのではないか。
 村の者に見つかったら、袋叩きにされるのではないか。
 逃げ切れたとしても、やはり行く当てもなく、ひとり飢え、死んでいくだけなのではないか。
 そんな思いばかりが頭を巡る。
――凛さん。」
 呼ばれて顔を上げると、紅の柔らかな微笑みが月明かりに映り――
「信じて下さい。」
 彼女は再び、そっと凛の手を取った。
「…………うん…。」
 ゆっくりと、その手に引かれて歩き出す。
 紅の真っ直ぐな眼差しが、背を押してくれた。
 紅の手の温もりが、歩み進める力をくれた。
「…見張りは…いないようですね。
 参りましょう!」
「うん…っ!」
 こうして娘二人は部屋を飛び出した。