勿忘草 おまけ ~荒くれ者達の恋路~

 森の中に不穏な空気が漂う。
 木々の陰に紛れて息を潜める黒い影。
「…三人…四人……七人…… ざっと十人ってとこか…。」
 山道を歩きながら、寂玖(さびく)は腰の得物に静かに手を掛けた。

 木々の合間に男がひとり立っていた。
 彼は遠くに見える一軒の宿を眺めながらほくそ笑む。
「ふっふっふっ…我ながらなんという名案。
 部下にお(こう)を襲わせ、そこにオレが颯爽と助けに現れる。
 ふふっ… これでお紅の心は鷲掴み゛」
「あほか!」
 突っ込む声と同時に、森の中にゴッという景気のいい打音が響く。
 寂玖は、ふんぞり返ろうとしていたその男を反射的にそう殴っていた。
「っ… 何をする貴様!」
 男は頭を抱えながら横目で睨んでくる。
「…ったく、どいつもこいつも…。」
 対する寂玖は、心底呆れ顔でそれを見下ろした。
 やけに色鮮やかな――お世辞にも趣味がいいとは言い難い派手な着物を身に纏ったこの男が、風来衆を名乗る一団の頭領らしい。
 風来衆は喧嘩好きが徒党を組んだというような集団で、皆帯刀はしていないようだが、それは頭たるこの男も同じらしかった。
 …妙なものに目を付けられやがって…。
 寂玖は先程男が眺めていた建物に視線を送って嘆息し、再び男に視線を戻した。
「…お前が風来衆の頭・弥七だな。」
 彼の問いには答えないまま、ありったけの殺気を込めて言う。
「言っておくが、和巳屋のお嬢はそんな三文芝居じゃ靡かないぞ。無意味に罪状を増やす前にとっとと家に帰れ。」
 それに弥七はすくっと立ち上がる。
「はぁ? やなこった。」
「……そうか。ならば……」
 ゆらりと寂玖の闘志が立ち上る。
「…私怨はないが、覚悟してもらおうか。」
 そう言って拳を鳴らす寂玖に、しかし弥七は余裕の表情で口元に笑みを浮かべた。
「ほほう… さては貴様、横恋慕だな!?」
「……ああ?」
 言われて寂玖は眉間にシワを寄せる。
「この作戦でお紅がオレに夢中になるのをやっかんでいるのだろう!
 先日、店でお紅に『またお越し下さいまし』と微笑みかけられたオレが妬ましいのだろう!」
「……はあ。」
「だが残念だったな! オレとお紅はこの世に生を受けた時から小指と小指を赤い糸でむ゛」
「うるさい。」
 弥七の頭と寂玖の拳が再びゴッと景気のいい音を奏でる。
「……痛いじゃないか。」
 先程と同様に頭を抱えて踞った後、またすっくと立ち上がって弥七が抗議してきた。
 ……こいつ、結構打たれ強いな……。
 沈めるつもりで殴ったにも関わらず即座に完全復活した弥七は、腰に当て、人差し指を寂玖に向けて突きつけた。
「…何奴かわからんが、オレとお紅の仲を邪魔する奴は許さん! やれ!お前達!!」
「…………」
「…………」
 ちゅんちゅん、ちゅぴーちゅぴー。
「…………」
「…………」
 高々と放たれた号令に応えたのは、木霊と小鳥達の囀りだけだった。
「……悪いな。お仲間には先に寝ててもらった。」
「ほほう…なるほど。潜んでいた部下達全員を見つけ出してオレに気づかれないうちに叩くとは、貴様なかなかやるじゃないか。」
 弥七は寂玖の言葉にも動じずにそう言って口元に笑みを浮かべた。
 意外と冷静な反応だった。
 大物なのか、或いはただの馬鹿なのか。
 いや、後者であることは疑いようがなかったが。
「となると一騎討ちか。…フッ、まぁ男らしくていいか。お紅を娶るからにはそれくらいの試練がなくてはな!
 お前を倒し、清々しくお紅を迎えに行ってやるぜ!」
「黙れ。」
 お紅お紅と馴れ馴れしくその名を呼ぶなと。
「ぐほっ。」
 極めて不機嫌な顔で放たれた拳打が弥七の腹にめり込んだ。
「ふ、ふふっ…」
 口元を拭いながら、ゆらりと弥七が身を起こす。
「開戦には相応しい拳だったぜ…。
 では、こちらからも行くぞ!!」
 こうして、男同士、一対一の戦いの火蓋が切って落とされた。

「……はあ、はあ、はあ、……」
 寂玖は顎から滴る汗を手の甲で拭いながら、足元に転がるボロ雑巾を見た。
 弥七はそこそこ喧嘩が強い程度の実力だったが、何分しつこかった。
 蹴っても殴っても、お紅お紅と飛びかかってくる。
 ある意味一番タチの悪い相手だった。
 しかし、これで漸くお役目御免だと小さく息を吐く。
 が、そこで寂玖ははたと大事なことに気づいた。
「…って、これじゃあタダ働きじゃねえか…。
 まあ、そこそこ名も売れてるようだし、こいつらを役人に突き出せば、少しの謝礼くらいは――
 などと言いつつ寂玖が弥七の首根っこを掴んでずるりと持ち上げると、腫れ上がった目が僅かに開いた。
「…お、紅は…オレの…もの……だ… おまえ、なん…か……に……」
「…………」
 弥七は震える拳を弱々しく振り上げ――
 それが振り下ろされるより速く寂玖の拳が鳩尾に食い込み、今度こそ弥七の全身から力が抜けて崩れ落ちた。
 寂玖はその襟首を両手で掴んでだらんと持ち上げた。
「…………」
 今までこれでよくぞ動いていたと改めて思うほど、弥七は満身創痍だった。
「…やっと落ちたか…。ったく、手間かけさせやがって…。」
 寂玖はそう呟いて、弥七をぽいと草の上に投げ捨てた。
 …まあ、どうせこんな小物じゃあ二束三文か…。
 結局、そう理由をつけて役所に突き出すのはやめた。
 もう役所に連れていくのも馬鹿馬鹿しい気分だった。
 ふうと大きく息を吐きながら、寂玖は踵を返して歩き始めた。
 大した戦いではなかったはずなのに、精神的にはかなり疲弊していた。
 寂玖をここまで疲れさせたのだから、ある意味、弥七は大物だったのかもしれない。
 しかし… 事あるごとに女の名前を叫びやがって…。女々しすぎだろ、情けねえ。
 弥七の姿を思い出し、心の中で吐き捨てる。
「…………」
 いや、本当は弥七の言う通り、やっかみなのかもしれない。
 素直に気持ちを口にできる、その純粋さに。
 あんなになってまで想いを貫こうとする弥七に。
「……"大店小町"か……。」
 寂玖はそう呼ばれている彼女を知らない。
「…あいつにそこまでさせるほどのものなのかねえ、その"大店小町"は…。」
 そんなことを思いながら、気づけばその小町がいるという宿の前に立っていた。

「う、ぅ……?」
「あ… お気づきになりましたか?」
 痛む頭を抱えながら弥七が体を起こすと、すぐ傍で澄んだ声が聞こえた。
「って、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
 その声の主を見留めた瞬間、弥七は反射的に手だけで壁際まで後退していた。
「お… おおおおお…っ」
 お紅…!?
 目の前には柔らかな微笑を湛えた娘が折り目正しく正座していた。
 黒目がちの大きな瞳。白い肌に咲く一輪の花のような可憐な唇。
 華奢な身体を包む美しい着物。
 彼女こそ、今や都内外まで"大店小町"と知れ渡る、和巳屋のお嬢・紅であった。
「お加減は如何でございましょう。」
「へ?」
 心配そうに問われて漸く、弥七は事の経緯を思い出す。
 そうだ… オレは横恋慕男を排除しようとして…
 記憶を辿りながら周囲を見渡す。
 だがここは森の中ではなかった。どうやらお紅が取っていた宿の一室のようである。
「…まだ頬の腫れが酷いですね。こちらでお冷やし下さいませ。」
 う、うわぁぁぁぁぁぁ!
 いつの間にかまた傍までやってきていたお紅に濡れた手拭いをそっと添えられ、弥七は飛び出しかけた心の臓を慌てて押さえた。
 おおおお落ち着けオレ! 落ち着けオレ!
 内心その言葉だけをひたすら繰り返して呼吸を整える。
 ただ手拭いを当てる。その仕草だけでも、そこいらを歩いている町娘とはまるで違った。
 どんな所作も美しく、気品にあふれていた。
「い、如何なさいましたか?」
 首を傾げる仕草でさえも、弥七には輝いて見えた。
 うう…、眩しいぜお紅…! まさかオレをこんなにも骨抜きにしちまうとは、恐ろしい女だぜ…!
 普段ならさらりと言える台詞も、彼女の前ではままならなかった。
「あの…、もし…?」
 少し困ったように声を掛けられ、弥七は慌てて両手を振った。
「ああああ! だ、大丈夫だ…ですっ!」
 彼女の前では何故か丁寧語を使わないといけないような気がした。
 弥七が応えると、お紅は安堵に表情を緩めた。
「それはようございました。
 犬と散歩をしておりましたら道端に倒れていらっしゃいましので、驚いて…。」
「犬?」
 言われて見れば、お紅の横には成犬が控えていた。その眉間にはこれでもかというほどにシワが寄っている。
 そういえば先程からずっとウ~ウ~と聞こえていた気がすると今更ながらに思う。
「お紅…さんの飼い犬か。いやぁ、利発そうだなっ。」
 撫でようと伸ばした手が届くよりも早く、その手にがぶりと容赦なく牙が突き立てられた。
「ま、正幸!? これ、いけません!」
「いやぁ、いい番犬になりそうだなっ! はっはっはっ。」
 既に完全に舞い上がっていた弥七であった。
「正幸、どうしたのです? その方を噛んではなりませんよ。お離しなさい。」
 お紅が必死に宥めて漸く、正幸は渋々ながらに弥七の手を放した。
 その姿でさえ、弥七には特別に見えた。
 お紅…! オレのために、そんなに懸命に…!
 じぃぃんという感動に突き動かされ、気づけばお紅の手を両手で握って叫んでいた。
「お紅っ!」
「は、はい。」
「オレの嫁になってくれ!!」
「……え?」
 唐突にそんなことを言われ、お紅はきょとんとする。同時に犬が尻に噛みついてきた気がするが、弥七は構わず彼女の白く細い指先をきゅっと握り締める。
「苦労はさせない! 幸せにする! 約束するっ!!」
 ぐぐっと迫ってくる弥七に、お紅はなおも瞠目し――
「…………」
 するりと弥七の手から離れると、居住まいを正し……静かに頭を垂れた。
「……ご好意ありがたく存じます。
 なれど……」
 そう言うと、彼女は心苦しそうに微笑む。
「……申し訳ございません。わたくしには心に決めた方がおります。」
「な…」
 呆然と呟いてから、我に返った弥七はがしっとお紅の肩を掴んだ。途端、尻に走る痛みが増すが、もともと全身のあちこちが痛む弥七には、そんなことは些細なことだった。
「ど、どこのどいつだそいつは!!
 決闘だ!!
 今すぐに果たし状を突きつけてやる!!
 そいつは今どこに!?」
 それにお紅は静かに微笑んだ。
「それは……わたくしにもわからないのです。」
「……わ、わからない……?」
 拍子抜けして鸚鵡返しに問う弥七にお紅は頷く。
「じゃ、じゃあ、そいつはいつお紅のところに戻ってくるんだ!?」
「わかりません。」
「っ!?」
 眉を顰める弥七に、お紅はまっすぐに座り直してから続ける。
「……その方は同じ場所には留まらない方。
 今いずこにおられ何をされているかすら、わたくしには皆目見当もつきません。」
「じゃ… じゃあ、その男は……」
 言葉の続かない弥七を気遣うかのように、お紅がその先を継ぐ。
「わたくしは… その方のご無事を、ただただお祈り申し上げるだけにございます。」
 そう言ってお紅はにこっと微笑んだ。
 その表情は、想い人のことを語るにしては切なすぎて。
「……っ……!」
 馬鹿な分人より優れた勘を時折発揮する弥七は、この時わかってしまった。
 彼女はその男を、一生をかけてでも待ち続ける覚悟でいることを。
 そして、自分の想いが彼女と交わることはないのだということを。
「…………。」
 弥七は知らず知らずのうちに握り締めていた拳を解いて顔を上げた。
「…そう…か…。相わかった…。」
 そう言って弥七は立ち上がろうとしたが、怪我のせいでそれさえ難儀だった。
「あっ…」
 よろめいた弥七を支えようとしたお紅を、弥七は手で制す。
「……手当て、忝ない。お陰でもう大事ない。」
 微笑んで見せたが、お紅は不安そうな顔で弥七を見上げた。
 それでも黙って見守ってくれる彼女の前で、脚を引き摺りながらなんとか襖の前まで辿り着く。
 がらりと襖を開いたところで、弥七は控えめに振り返った。
「……早くその男に会えるといいな。」
 最後にそう微笑んで、弥七は襖を閉めた。
 お紅が何か声をかけようとしたようだったが、見なかったことにしてその場を去った。

――くそっ!」
 全身に鞭を打ちながら、弥七はよろよろと森の中を歩く。
 しかし、軋む体より、心がひどく、痛い。
 何度も何度も、悲しげに微笑むお紅の顔が頭に浮かんでくる。
「一体どこのどいつだ、オレのお紅にあんな顔させやがって…!」
 ギリリと奥歯を噛み締める。
「見つけ出したら絶対ボッコボコに殴ってやる!!」
 そう誓って、弥七は固く握った拳を天高く振り上げた。

 まさかそのお紅の想い人につい先程までボッコボコに殴られていたなどとは、心にも思っていなかった弥七であった。

 夜の川辺は多くの人々で賑わっていた。
 毎年この時期になると、この場所で花火大会が催される。
 最初はただ、当時の低迷した景気を盛り上げようと企画されただけのものであったが、今年も、また今年もという要望を受けて行っているうちに、気づけば恒例行事となっていた。
 半ば義務化されたその主催者である和巳屋には、毎年一等いい席が設けられる。
 夜空に次々と咲く大輪の数々。眼下には、賑わう屋台と鑑賞を楽しむ人々の姿。
 見晴らしのいい櫓の中で、お紅はそれらを眺めながら微笑んだ。
「……この景色も、これで見納めですね……。」
「? 何か仰いましたか?お嬢様。」
 隣に座っていた若い男に首を傾げられ、今度はそちらに向けて微笑んだ。
「…いえ、なんでもありません。」
 そう微笑(わら)う彼女の背後で、また大輪が咲く。
 だがそれは、ほんの一時の輝き。
 あっという間に散り、次の花の陰で人知れずひっそりと夜の色に溶けて、消えた。