勿忘草

「…というわけで、今あそこは新見家と藤平家が勢力争いしている真っ只中ってわけでさぁ。お側を通る時にゃ注意して下せぇ。」
 そう言いながら、背が低く全体的にこじんまりとした町人姿の男は、赤い鼻の下を人差し指で擦った。
「……旦那?」
 話を終えた男が目の前にいる若い浪人に視線を戻すと、彼は聞いているのかいないのか、ともかく視線を他所へと投げたままだった。
「……それで?」
 長い腕と長い脚を組み、物思いに耽った格好のままで彼が問う。
「はい?」
 一体何の先を促されたのか解らずに首を傾げると、その浪人は横目でちらりと男を見た。
「…都の様子とかはどうだ。」
「へぇ、都ですか? 至って平和なもんでさぁ。残念ながら旦那の出る幕はねぇでしょう。」
「そうか…。
 じゃあ…その… 大店(おおだな)街の様子とかはどうだ。」
「大店街ですか? 特にこれと言った話はありやせんが…。」
 また首を傾げられ、浪人は少し言いにくそうにしながら小声で呟く。
「そうじゃなくてだな…
 その… 例えば和巳屋とかの具体的な情報をだな…」
 途端、男は心得たとばかりにぽんと手のひらを打った。
「あぁハイハイ、和巳屋ですね。
 和巳屋は商いも順調。最近出した新商品も売り上げ好調。右肩上がりでさぁ。」
「…そうか…。」
 そう告げた途端、いつもどこか拗ねているような顔が僅かに緩んだ。
 それを見た男は、にまっとした口元を隠すように手のひらで押さえた。
「…旦那、最近和巳屋のことばかり気になさってますねぇ。
 さては、"大店小町"と名高い和巳屋のお嬢が気になってらっしゃるんでしょ?」
「ばっ…そんなんじゃねえ!」
 反射的に叫ぶと、彼は意識的に力を抜いた。
「…あそこは大きな商家だからな。何かあればそれにつけて美味い仕事にありつこうって算段をだな…」
 それに男は空いている手をパタパタと振る。
「そんなムキにならんでも。
 いやいや、隠さずともお気持ちはわかりやすよ。別嬪さんなら一度は拝んでみたい、お近づきになりたいと憧れるのが男の性でさぁ。」
「違うって言ってるだろうが!」
 珍しく顔を赤くして叫ぶその様に、男は内心楽しくなってくる。
「そうですかぃ?
 和巳屋のお嬢といえば… そういえばとっておきの情報があったことを思い出しやしたよ。
 でも違うならいいでべふ!?」
 調子に乗り始めたその頬に、じゃっと小さくも重たい巾着袋が投げつけられた。
 だが、男は痛がるより早く地に落ちたそれを拾い上げる。
「へへ…、毎度。
 …んで、その大店小町なんですがね…」
 手慣れた手つきでそれを懐に入れながら男が続ける。
「旦那は都の外れを縄張りにしている"風来衆"と名乗る荒くれ者達をご存じで?」
「……いや…。」
 浪人が首を振る。
「まぁそいつらがですね、近々大店小町を襲おうと企んでいるっちゅう噂を小耳に挟んだんですよ。」
 その言葉に、浪人の眉が微かに振れる。
「襲う?
 (かどわ)かして和巳屋に金品でもたかるつもりか?」
「さぁ… あっしもそこまでは知りやせんが… まだあくまでも噂って域の話でさぁ。
 でも、旦那にとっちゃあ絶好の機会でしょ?」
「……そうだな…。
 その情報をもとに、和巳屋に用心棒の話を持ちかけることはできるだろうが……」
 そう言いつつもあまり乗り気ではなさそうな浪人に、しかし男はまたパタパタと手を振る。
「違ぇますよ旦那。もっといい方法があるでしょ?」
「もっといい方法?」
「んも~、これだから旦那は~。」
 鸚鵡返しに問われて男はやれやれと肩を竦め、
「大店小町が襲われているところに旦那が颯爽と現れて風来衆を蹴散らせば、きっと大店小町もキャーステキーッ!!とがふぁッ!?」
 小さな体をくねらせ甲高い声を上げるその頬に、じゃっとまた巾着袋が――今度は強かに投げつけられ、男は吹っ飛んだ。
「うるさい。気色悪い。」
 見下した目で淡白に言い放つと、浪人は腰を上げた。
 男は土に背中をつけたままその様子を見上げ――次いで自分の足元に転がる巾着を見た。
「…旦那、ちぃとばかり多すぎじゃあありやせん?」
 と男が再び顔を上げると、浪人は既に歩き始めていた。
「取っておけ。」
 その一言だけを残し、彼は表通りの人混みの中へと消えていった。

 船の甲板の端で、寂玖(さびく)は肘を突いて波の漂う様を眺めていた。
「…な~にが、『きゃ~かっこい~』だ…。育ちのいい大店のお嬢がそんなこと言うかっての。」
 誰にともなくそんなことを呟き、
「…………」
 いや、本当にそうだろうかと、ふと自問する。
 大店のお嬢などひとりしか知らないからだ。
 ただ、少なくとも彼の知るお嬢――和巳屋のお(こう)は、そのような性格でないことは確かだった。
 ……何してんだ、俺……。
 そう思いながら、頬を支えていた手のひらを離して見つめる。
 そこにはお紅に触れた感触が、まだ残っていた。
 それを忘れたくて、都から逃げるように西へ西へと旅してきた。
 行く先々で女も抱いた。
 だが、決してその感覚が消えることはなかった。
 異国に行けば忘れられるかもしれない。
 そう思って港街にやってきたはずだったのに。
「…なんで都行きの船なんかに乗っちまったんだ…。」
 本日何度目かも知れぬため息と共に、寂玖は頭を抱えた。

 人混みに、活気溢れる売り子の声にと、都の風景は寂玖の知る頃のそれとなんら変わらない。
「…まずは情報収集か…。」
 話を聞いてしまったからには… 来てしまったからには仕方ない。
 寂玖はそう割り切って歩き始めた。
 露店や呑み屋で話を聞きながら歩いているうちに、その足は大店街へと向いていた。
「…………」
 …ここも変わらねえな…。
 他所より一層人の多い通りを暫く眺めてから、寂玖は身を翻して宿へと向かった。
「……ふう…。」
 畳の上に刀を置き、胡座をかいて一息つく。
 そして、
「…………」
 いつの間にか、また手のひらを眺めていた。

「娘は娘の選んだ者のところに嫁がせます。
 この店は優秀な者ばかりでございますから、後継ぎの心配もしておりません。」

 お紅の許嫁の話を訊きにきた寂玖に、当時の和巳屋の主・茂がいつもの優しい瞳でそう語っていたことを思い出す。
 それに続いて、寂玖はひとりの青年のことを思い出す。
 名を嗣治(つぐはる)といい、古くからいる和巳屋の若い奉公人であった。

――失礼ですが、寂玖様でいらっしゃいますか。」
 廊下を歩いていた寂玖は、そう話し掛けられて歩みを止めた。
 声の主は寂玖よりもいくらか年下であろう若い男だった。
「そういうお前は…確か嗣治だったか。」
 寂玖がそう言うと、彼は瞠目の後に破顔した。
「まさかお見知り置きいただいていたなんて…恐縮です。」
「まあ嬢ちゃんの周囲を見守るのが俺の仕事だからな。
 それで、どうした。俺に何か用か。」
「あ、はい!」
 応えて嗣治はぴんと背筋を張る。
「此度は近江屋の旦那様からお嬢様をお護りいただき、ありがとうございました!」
 そして深々と頭を垂れる様に、寂玖は苦笑した。
「嬢ちゃんを護るのが俺の仕事なんだから礼には及ばねえよ。」
 すると、ばっと勢いよく嗣治が顔を上げる。
「いいえ、せめてお礼くらい言わせて下さい。お嬢様は私の恩人でございますから。」
 きらきらと輝く眼差しを向けられ、寂玖はまた苦笑するしかなかった。
「…正直、寂玖様の強さが羨ましいです。私は武術はからっきしでして…。」
 そう呟いて肩を落とす様子に、寂玖はははっと軽く笑う。
「お前には商才があるんだから十分じゃねえか。あまり欲張るとバチが当たるぜ?
 お前、その歳で番頭なんだろ。
 よく侍女達や他の奉公人達が、お前のこと優秀だって話してるぞ。」
「そ、そんなことは…っ! きょ、恐縮です!
 でも…
 そうですよね…。私は旦那様とお嬢様が与えて下さったこの商いで、和巳屋の役に立てるよう更に励んでいきたいと思います。」
 そう言って嗣治は微笑んだ。
 その純粋さが眩しすぎて。
 寂玖は我知らず目を細めていた。
「寂玖様、これからもお嬢様のことをよろしくお願いします。」
「…ああ。」
 また深々と頭を垂れて去っていくその後ろ姿を見送り、寂玖は離れへと歩き始めた。

 それからもちらりほらりと話したり働きぶりを眺めたりしていたが、嗣治は本当に優秀な男だった。それに人当たりも柔らかい。
 茂が彼を後継として見ていたことは間違いなかった。
 だから、茂急死の報を聞いても、和巳屋のことは案じてはいなかった。
 嗣治とお紅がいれば、和巳屋は安泰なはずだった。
 それなのに。
 耳に入ってくるのはお紅の嫁ぎ先の噂話ばかりで、嗣治と祝言を挙げたという話は一向に聞こえてはこなかった。
――まったく、何をモタモタやってんだ、あいつは……!」
 寂玖は見つめていた手のひらから視線を外し、どこか苛立たしげに息をついた。
 一時とはいえ、和巳屋には世話になった身だ。二人が結ばれて和巳屋の内輪が落ち着けば、懸念もなくなり、きっとこのモヤモヤした気持ちも消えるに違いない。
 寂玖はそう思っていた。

 なだらかな山道に鋭い視線を配りながら、寂玖は歩く。
「…三人…四人……七人…… ざっと十人ってとこか…。」
 そう呟いてから足を止めた。
 今、遠出から戻る途中のお紅が、このすぐ先にあるはずの宿に泊まっているらしい。それを狙って風来衆が潜んでいるのだ。
 …どうやら情報は正しかったようだな…。
 そう思いながら、寂玖は腰に帯びた刀に手を掛けた。

「…ったく…、手間かけさせやがって…。」
 寂玖は疲れた声で言うと、胸倉を掴み上げていた最後のひとりを、茂る草の上にぽいと放り投げて踵を返した。
 整備された山道を少し登ると、何件かの建物が見えてくる。
 寂玖はそのうちの一軒の宿の前で足を止めた。
「…………」
 この中に、お紅がいる。
「…………」
 自分でもよくわからない複雑な想いが胸に沸き起こるのを感じながら、寂玖は宿を見上げていた。
 だがそれでも、頭を振ると同時に宿に背を向け――
「…………」
 ――たその足元に、一匹の獣が行儀よく座って寂玖を見上げていた。
 その尾は砂埃を立てる勢いで土の上を激しく左右に行き来している。
「…………」
「ハッハッハッハッ…」
「…………」
「ハッハッハッハッ…」
「……しまった。正幸(こいつ)が犬だったの忘れてた。」
 そう口元をひきつらせた瞬間、正幸はわんわんと吠えて寂玖の周囲を跳ね回る。
「こ、こら! 鳴くな! 静かにしろ!」
 慌てる寂玖に、しかし彼は嬉しそうに吠え続ける。
「た、頼むから静かにしてくれ。な?」
 仕方なく屈んで小さな頭を――それでも寂玖の知る頃より随分大きくなったその頭を撫でてやると、漸く彼は鳴き止むが――
――正幸? そこにいるのですか?」
 声と共に気配が近づいてくる。
 寂玖はそれに全身をこわばらせた。
「ま、正幸。俺のことは内密にしてくれ。頼むぞっ。」
「くぅん?」
 首を傾ぐ正幸に構わず、寂玖は急ぎ宿の影に身を隠した。
――正幸?」
 直後、澄んだ若い娘の声が――お紅の声が聞こえると同時に戸の開く音がする。
「どうしたのですか?」
「わんわんわんっ!」
 その声に応えて正幸が吠える。
 頼むぞ、正幸…!
 お紅と正幸は不思議と心通じ合っているような節がある。
 でもまさかとは思いながらも、寂玖は必死に祈った。
「わんわんっ わんっ!」
「何か嬉しいことがあったのですか? よかったですね。」
 そんな心配を他所にお紅の声はそれだけを告げ、次いで正幸を抱き上げる気配が伝わってくる。
「…さ、そろそろご飯に致しましょう。」
「わんっ!」
 こうして戸を閉める音がした後、足音は遠ざかっていった。
「…………」
 それが完全に消えたことを確認し、寂玖ははあ…と緊張を解いた。
 だがその一方で、言い知れぬ安堵感が心に広がっていく。
 声を聞けた。それだけで。
 人伝には知っていたはずなのに。
「……そうか…息災なんだな……。」
 寂玖は我知らず表情を緩めると、静かにその場を後にした。

 都に来て数日。適度に仕事をこなして懐も潤った頃。
 次の行く先を思案しながら宿で寝転んでいた寂玖のもとに、ひとりの童が訪れた。
 彼は和巳屋の丁稚だった。
 どこから寂玖のことを聞き付けてきたのか、その手には嗣治からの文が握られていた。

 寂玖は小高い丘の上から眼下を眺めていた。
 そこから先はなだらかな下り坂になっていて、更にその先には水田が続いている。
 その中心を通る、他の畦道よりいくらか幅のある道を、一台の駕籠が通っていく。
 寂玖はさらさらと吹く風に長い髪を遊ばせながら、そんな光景を眺めていた。
 嗣治の話では、あの駕籠にお紅が乗っているとのだという。
 嗣治が寂玖に提示した仕事の内容。それは、あの駕籠の中身――つまりはお紅を攫っていけというものだった。
 彼女は家を――和巳屋を出て百姓になるのだという。
 それを止めてほしいというのが嗣治の依頼であった。
「…ったく…、いつの間にか可愛いげがなくなりやがって…。」
 久し振りに会った嗣治を思い出し、苦々しく呟く。
 彼は言った。
 寂玖がこの依頼を断れば、お紅を無理矢理にでも連れ戻し、一方的に夫婦(めおと)の契りを交わすのだと。
 そして寂玖を睨み付けるようにしてこう言った。
 寂玖のことは忘れさせると。
「…………」
 結局、寂玖はその依頼を断った。
 嗣治が本気でお紅をどうこうするつもりはないとわかっていたし、彼の性分からもそれが無理なことは知っている。
 断ったのは、そんな舌先三寸で寂玖を動かそうとしたことが気にくわなかったからだ。
 それに何より、寂玖が動かなければ、必然的に嗣治が動かざるを得なくなる。
 彼がその気になれば、手籠めなどにせずとも、もっと穏便にお紅を留めることもできるはずだ。
「…上等だ。とっとと夫婦にでも何でもなればいい。」
 はっと自嘲気味に微笑(わら)いながら、寂玖は胸を掴んだ。
 妙に疼く、その場所を。
 お紅に俺のことを忘れさせる?
 そんなことせずとも、こんな浪人風情のことなどもう忘れていることだろう。
 むしろ忘れたいのはこっちの方だと寂玖は思う。
「…………」
 寂玖は苦しくて仕方がなかった胸から、その痛みを振り払うかのように勢いよく手を離す。
 寂玖が去れば、嗣治がお紅を連れ戻し、二人は今度こそ一緒になって和巳屋は安泰。
 そうすれば寂玖の憂いもなくなり、この痛みからも漸く解放されるはずである。
 風来衆を片付けた今、ここでの自分の役目は、もう終わったのだ。
「…………」
 まあ見納めにと、寂玖は今一度、丘の下へと目を向ける。
 少し小さくなった、お紅の乗った駕籠。
 その行く先には、延々と空と田畑が続くのみ。
 ……ただ、それだけだった。
 それ以外は、何もない。
 彼女を想ってくれるものも。彼女を護ってくれるものも。
 彼女の向かう先には、何もない。
「…………」
 まったく、何を思って百姓になると言い始めたのか。相変わらず大店のお嬢の――いや、お紅の考えることは理解し難い。
 思い起こせば出会った頃からあの娘はそうだった。
 止せばいいものを、寂玖の口車を真に受けて、人助けのために清らかなその身まで差し出してくるような娘なのだ。
 挙句、こんな根無し草の子を産みたいとまで言ってくる。

 三年後にもっといい女になっていたら、本気で抱いてやる。

 所帯を持つつもりも、ましてや決めた相手を作るつもりもなかった寂玖は、軽くそうはぐらかしたつもりだったのに。

 お嬢様は約束を守った。
 ならば、今度はそのお相手が、約束を守る番なのではありませんか?

 嗣治が別れ際に言った言葉が脳裏にちらつく。

「…………」
 寂玖はまた駕籠を見た。先程より、より一層小さくなったその駕籠を。
 それは、今この瞬間にも、白い地平線の彼方へと消えていきそうで――

「…………。」
 寂玖はおもむろに丘を下り始めた。

 折角ここまで来たんだ。三年間の成果とやら、見せてもらおうじゃねえか。
 まあ言い出したのは俺だしなと、心中誰にともなく呟きながら、寂玖は足早に歩を進める。
 どうせ会っても俺のことなどもう忘れているだろうから、天下の大店小町を拝むくらい支障はないだろう。
 寂玖はその長い脚で駕籠が通る道を先回りした。
 どうやって彼女を拝もうかなどという細かいことは何も考えていなかった。
 ただ彼が抜き身の刀を手に道を塞ぐだけで、駕籠舁(かごかき)達は震えて駕籠を投げ出し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「…まったく、これくらいで客をほっぽり出して逃げるなんざ、駕籠屋失格だろ…。」
 寂玖は嘆息する。
 駕籠を止めなければ今にも斬りかかっていきそうな雰囲気を猛烈に醸していたことなど棚に上げて彼等の逃げていく様を見送っていると、背後でかたんと音がした。
 そちらを肩越しに振り向けば、ぽつんと残された駕籠から犬を抱えた若い娘が降りてきたところだった。

 寂玖はゆっくりと体もそちらへと向けた。
 大店小町は噂に違わず美しかった。
 更にそれを最大限に引き立てている、過美ない化粧。
 ただそこにいるだけで上品さを感じる佇まい。
 昔から美しくはあったが、幼さが抜け、艶やかさの増した容姿。
 彼女は寂玖に気づいて瞠目する。
 そして、不安と緊張を纏っていた顔を綻ばせた。
「…寂玖様…。」
 その表情は女神と見紛うほどに美しくて。
 お紅は引き寄せられるように寂玖のもとまで小走りにやってきて――ふと、遠慮がちに少しの距離を置いて足を止めた。
 彼女はどこか遠い眼差しで静かに寂玖を見上げる。
「…………」
 だが、寂玖は動けなかった。
 美しさに見とれて…ではない。
 確かにその美しさは息を飲むほどではあったが――
「…お久しゅうございます。お元気そうで何よりでございます。」
 微笑む彼女を見て、寂玖は自分の愚かさを呪った。
 本当はわかっていた。簡単に忘れるような相手に将来を誓うような浅はかな娘ではないことを。
 本当は知っていた。あの行く宛のない駕籠に彼女を乗せたのは自分なのだと。
 それなのに。
 彼女を攫う覚悟もないまま、しかし黙って去ることもできずにノコノコと姿を現してしまった自分自身の愚かさを。
 戸惑い動けずにいる自分が、彼女に最後の一歩の距離を空けさせたのだ。
「…………」
 寂玖が無言でいると、気遣うような視線が寂玖の手にある刀に移り――お紅は控えめに微笑んだ。
「…ひょっとして、どなたかのご依頼でわたくしを斬りに?」
「…………」
 いっそ斬り捨てられたらどんなに楽だったことだろう。俺の中に居座り続けていたこの娘を。
 しかし、そんな寂玖の気持ちを知らないお紅は微笑う。
「……なんて、そんなはずはありませんよね。わたくしのような小娘ひとりを斬り捨てたところで、どなたの得にもなりませんもの。」
 口ではそう言っても、寂玖を見つめるその瞳には、それでも構わなかったという想いが見て取れた。
 ああ、この娘は愚かだと寂玖は思う。
 何故この娘は流れの浪人などを選んでしまったのか。
 嗣治のような男を選んでいれば、こんな淋しい()をすることもなく、大事にされ、なんの心配もない幸せな生活が送れただろうに。
「それとも、どなたかの駕籠とお間違いに?」
「…………」
 やはり動けず黙り込んでいた寂玖を見て、お紅は「あ…」と呟き、気まずげに顔を伏せる。
「…仕事で一時関わっただけの者のことなど、もうお忘れですよね…。」
 悲しげに、だがやはり微笑って言うお紅に、寂玖は苛立ちを覚える。
 忘れるわけがない。
 忘れさせてくれなかったのはお前だ。
 それなのに、何を言い始めるのだこの娘はと思う。
 身勝手な言い分とはわかっていても、寂玖はそう思わずにはいられなかった。
「わたくしは以前、寂玖様が護衛して下さった、都の和巳屋という――
 けれど彼女はなおも寂玖が忘れているものとして初対面よろしく名乗りを上げようとまでしてくる。まるで零からでもいいと言わんばかりに。
 寂玖は拳を握り締めた。ふざけるなという気持ちだった。
 今までのことを無にされては堪ったものではない。
 あんなに、あんなに、苛まれ続けた日々を。
 だから寂玖はそれを遮り、
――お紅。」
 先に名を呼んでやった。
 すると、彼女が瞠目する。
「は、はい。」
 信じられないというように心底驚いたその表情が、更に寂玖の感情を逆撫でする。
 お前は自分が想う男をそんなに信じられなかったのか。
 ひたすら忘れようとしていた己のことを棚に上げ、それならばとひねくれた心で寂玖は思う。
 いいだろう。たとえお前を簡単に忘れるようなちゃらんぽらんな男でもいいとまで思っているのなら攫ってやろう。
 お前がそれを望むなら――
――願いを言え。」
「……え?」
 急にそんなことを言われ、お紅がきょとんと寂玖を見上げる。
「願いを言え。」
 寂玖はもう一度だけ、同じ言葉を繰り返す。
 やはり、この娘は愚かだが聡いのだ。
 すぐに言葉の意図するところを汲み、呆然としながらもじんわりと瞳を潤ませる。
「……っ!」
 そして、最後の一歩の距離を詰めて寂玖の胸にひしと身を寄せた。
「寂玖様…! わたくしをずっと… ずっとお傍に置いて下さいまし…!!」
 すがり付くようにお紅の手が寂玖の着物をぎゅっと掴んでくる。
「じゃあ報酬はお前だ。」
 彼女の震える肩を強く抱き締めながら、寂玖は思う。
 憶えていろよ、お紅。今度は俺の番だ。
 これからは俺がお前の心を支配してやる。
 何があっても、たとえどんなに忘れたいと願っても忘れられないくらい、お前の中にしつこく居座ってやる。
 もう逃がしはしないと、寂玖はぎゅっとお紅を抱き締めた。
「…くぅん…。」
 その腕の中でお紅に抱えられた正幸が手狭そうに鳴いたが、そんなものは寂玖の知ったことではなかった。

 おしまい。