勿忘草 ~寂玖と嗣治~

 都の人混みにあっても彼を見つけることは容易い。
 他の町人達より遥かに高い身の丈は、遠くから見ても一目瞭然だった。
 また、高くひとつに括った赤茶色の長い髪、一度見たら忘れられない頬の傷、大きく着崩された着流(きながし)、そしてそこから覗く異国の者のように硬そうな体躯と、どこを取っても彼は人目を引いた。
――寂玖(さびく)様。」
 声を掛けると、彼は壁に預けていた背を離してこちらを向いた。
 その視線を受けて嗣治(つぐはる)は一礼し、
「お久し振りです。立ち話もなんですから、そこの店にでも入りましょう。」
 目の前の店を指差した。

 店内の一角に腰を据えたところで嗣治は口を開いた。
「よくぞおいで下さいました。本日は寂玖様に"和巳屋の店主として"お願いがあり、ご足労戴いた次第です。」
「…妙に回りくどい言い回しだな…。
 それで、用件は?」
 どこか憮然とした表情で訊く寂玖に、しかし嗣治はそれに答えず瞠目した。
「おや…驚かれないんですね。」
 代わりに驚く嗣治に、寂玖が眉を顰める。
「ああ? 何が。」
「私が和巳屋の主となったことについてです。ご存じでしたか。」
 言われて寂玖は運ばれてきた茶をぐいっと呷る。
「…天下の大店(おおだな)・和巳屋のことだからな。嫌でも耳に入るさ。」
「そうなのですか? 西国にまで噂になるとは、光栄なことです。」
 至極嬉しそうに言う嗣治とは逆に、寂玖は警戒にも似た眼差しを嗣治に向けた。
「……西国なんて言ったか?」
「違いましたか?
 旦那様が亡くなられた頃、寂玖様に似た方を西国で見かけたという噂を商売仲間から聞いていたのですが。」
 微笑む嗣治を見て、寂玖は口元を引きつらせる。
「…こいつ…いけしゃあしゃあと…。俺のことを嗅ぎ回ってたのか。」
「それに関してはお互い様ということで。
 寂玖様は随分といい情報網をお持ちのようですが、我々の情報網もなかなかのものでございましょう?」
 なおも微笑む嗣治に、対する寂玖は面白くなさそうな表情で肘を突き、そこに顎を載せた。
「……それで?
 その情報網とやらの優秀さを自慢したくて俺を呼んだんわけじゃないんだろ?」
「はい。」
 視線だけを向けて問う寂玖に、嗣治は転じて真剣な面持ちで頷いた。
「……言っとくが、知人だろうが報酬はきっちりいただくぞ。」
「勿論です。
 では、こちらを。」
 寂玖は、嗣治の懐から差し出された紙を空いている方の手で受け取り、横目で見やる。
 それには地図と地名らしきものが記されていた。
「…これからその場所を一台の駕籠が通ります。
 寂玖様にはその中にいる方を攫っていただきたい。」
 その言葉に、紙を見つめていた視線がゆっくりと嗣治に移る。
 そして、先程から変わらぬその真剣な眼差しを確認すると、寂玖は紙を卓上に(ほう)って視線を外した。
「…悪いがそういうことは他を当たってくれ。」
「勿論、それ相応の報酬をご用意しております。」
 立ち上がろうとする寂玖に構わず嗣治は続ける。
「報酬はその駕籠の乗客――(こう)お嬢様です。」
 嗣治の一言に寂玖の動きがぴたりと止まる。
「…悪いお話ではないはずです。」
 微笑む嗣治に、寂玖は胡乱(うろん)な目を向けた。
「どこがだ。俺は罪人になる気はない。」
 そう言って頭を掻き、
「……詳しく説明しろ。」
 仕方なしに再び腰を下ろしてそう切り出した。
「はい。」
 それに嗣治は満足げに頷き――
 眉を八の字に落とした。
「…実はお嬢様が和巳屋を出ていくと仰られて…。」
「……は?」
「これからは百姓になるのだと…。」
「……はあ?」
 ふぅ…と重いため息をつきながら語られた突拍子もない話に寂玖は間の抜けた声を出した。
 だが、嗣治の反応から冗談ではないと察して眉間にシワを寄せる。
「…その様子じゃあ、好いた男が百姓で、駆け落ち…とかいうわけじゃなさそうだな…。
 何があった。」
 嗣治は力なく首を振る。
「何も。
 ただ、私が店を継いだ今、自分はもう和巳屋にいるべきではないからと…。」
「…………」
 彼女の人柄を知っている寂玖は、それだけで大体の状況を理解したようだった。
「…ですから、寂玖様にこうしてお願い申し上げに参ったのです。
 大店のお嬢様がいきなり百姓として暮らしていくなど到底無理な話。
 されど紅お嬢様がやると言ったからにはやり通すでしょう。たとえそれで飢え死にすることになったとしても、です。
 野盗などの問題も勿論ですが、紅お嬢様の場合はそれに留まりません。
 お嬢様は城下で一、二を争う器量良しとして名が売れてしまっています。
 今や他の大店の旦那のみならず武家の殿様や若様までもが、ちっぽけな自尊心を満たすだけのためにお嬢様に目をつけているという噂まである始末。
 とても百姓の苦労だけでは済まないでしょう。」
 そこまで語ると、嗣治は大きく息を吐いた。
「…それでも…
 どんな苦難を背負い込むことになろうとも…
 お嬢様はずっとひとりの方を想い続けることを幸せと言うのでしょうね……お嬢様はそういう方ですから…。」
「…………」
 しかしそこで、「ですが」と嗣治は顔を上げる。
「たとえお嬢様自身が納得して選んだ道であっても、我々が納得できません。
 お嬢様にはそんな辛い思いをしてほしくないのです。
 和巳屋の人間は皆、お嬢様の幸せを一心に願っています。
 辛い中に見出す微かな幸せなどではなく、本当の幸せを掴まれることを。」
「…………」
 更なる沈黙の後、寂玖は口を開いた。
「断る……と言ったら?」
 その問いに、嗣治は静かに寂玖の方へと体を向けた。
「その時は……仕方ありません。無理矢理にでも連れ戻して手籠めにします。」
「てごっ…!?」
 嗣治には最も無縁そうな単語をさらりと出され、寂玖は飲みかけていた湯飲みを慌てて口から離した。
「お嬢様の性格は寂玖様もよくご存知でしょう?」
 瞠目したまま見返してくる寂玖とは対照的に、真剣な表情を崩さぬまま嗣治が言う。
「紅お嬢様を納得させるには、こちらも本気でかかるしかない。
 ですから、私の気持ちをきっちりお伝えした上で、一方的にでも夫婦の契りを交わします。
 そして――
 嗣治は敵意にも似た視線を真っ向から寂玖へと突きつけ、
「寂玖様、あなたのことは忘れてもらいます。」
 強い口調でそう言い放った。
「…………。」
 暫くその視線を一身に浴びた後、寂玖はゆっくりと湯飲みに口をつけた。
「……そんなことをせずとも、俺のことなんてもう憶えてないんじゃないか?」
「それは…どうでしょうね。お嬢様はそういうことは一切口にされない方ですから。
 まあ…ご本人にお会いしてみればわかることでしょう。」
 一転して微笑んでくる嗣治を横目で見ながら、寂玖はもう一度湯飲みを呷った。
 その湯飲みが置かれるのを見計らい、嗣治がまた微笑む。
「お受けいただけますよね?」
 それに「はぁ…」と息を吐いた寂玖は、がたんと立ち上がった。
「…先に言った通り、俺は人攫いを請け負うつもりはない。
 …悪いな。」
――お待ち下さい。」
 店の戸口へ向かうべく身を翻した寂玖の背中に嗣治が言う。
「ひとつだけ…お訊きしたいことがございます。」
「……なんだ。」
 やれやれといった表情で寂玖が振り返った。
 それに合わせるように、嗣治は立ち上がる。
「寂玖様はお嬢様と何か約束を交わされていたのではありませんか?」
「……約束……?」
 すぐに思い当たるものがなかったのか、いくつかのうちのどれだか判りかねたのか、寂玖は鸚鵡返しに呟く。
「はい。
 寂玖様が和巳屋に滞在されていた頃、もっとちゃんと化粧の仕方を学びたいからと、お嬢様が(せん)に手解きを受けていた時期がありました。
 他にも、礼儀作法や茶の湯などを学び直されたり、舞踊などを新たに学び始められたのもその頃からでした。」
「…………」
「急にどうしたのかと訊ねると、お嬢様は嬉しそうにこう言ったのです。
 三年後までに、どこに出ても恥ずかしくないような――例えば、隣を歩く殿方が恥をかくことのないようなおなごになりたいのだと。」
 嗣治は寂玖を見上げる。
「…その時のお嬢様は、それはもう、本当に嬉しそうでした。
 お嬢様にそこまでの表情をさせたその相手を羨ましく思うほどに。」
「…………」
「元々美しく聡明な方でしたが、今は更に美しくなられました。品格、学識、教養… どれを取っても、どこの誰が隣に並んでも、文句のつけようもないくらいに。」
「…………」
「寂玖様が和巳屋を去られてそろそろ三年。
 お嬢様は約束を守った。
 ならば、今度はそのお相手が約束を守る番なのではありませんか?」
「…………」
 寂玖は優しく微笑む嗣治の視線からふいと顔を背けた。
「……何のことだかわからないな。きっと人違いだろう。」

 やはり目立つその後ろ姿が雑踏の中に消えていくのを見守っていた嗣治の横に、すっと影が並ぶ。
 和巳屋の侍女・泉である。
「…寂玖様は動いて下さるでしょうか…。」
 不安そうに訊ねられ、嗣治は小さく息をついた。
「動いてくれなきゃ困るよ。お嬢様の幸せは、あの方無くしては不可能なのだから。」
 すると、泉は「あら」と袖先を口元に当てた。
「先程はお嬢様を手籠めにして寂玖様を忘れさせてやる…とか仰っていたような。」
「下手にそんなことしようものなら自害されかねないよ。」
 心底困った表情に、泉はくすっと微笑んだ。
「…それにしても… 三年前のことなどよく憶えていらっしゃいましたね。」
「ああ…あれは……
 あの時、たまたま思い出したんだ。我ながらいい機転だったと思ったよ。あの一押しがなきゃ、きっとあの方を動かせなかった。」
「…ということは、手応えはあった、と…?」
「ああ。
 まぁどのみち、実際にお嬢様にお会いすれば、あの方のお心も動くだろう。」
「……そういうものなのですか?」
「うん。」
 あっさりと頷く嗣治に、泉は小さく息をついた。
「…殿方というのは存外単純なものなのですね。」
「いや…違うよ泉。」
 嗣治は苦笑してから優しく微笑む。
「二人の三年間の成せる業だよ。
 意地っ張りなあの二人だからこそ……ね。」
 その言葉に泉は目を瞠り――
 安堵した表情で微笑んだ。
「…では、早く戻って祝宴の準備をしなくては。」
「そうだね。」
 二人は頷き合ってから歩き出した。
「それにしても…」
 少し歩いた先でぽつりと嗣治が呟く。
「あ~あ、お嬢様には見事にフラれてしまったなぁ。私もそろそろ身を固めなきゃならない歳なのに…。」
 そう誰にともなく言ったかと思うと、
「…というわけで、泉。」
 くるりと向いてきたので、彼女は首を傾げた。
「はい?」
「どうかな、あなたの婿候補に私など。」
 そんな言葉と共ににこっと優しく微笑まれ、泉は瞬き数回。
 そして彼女もにこっと微笑むと、
「考えておきます。」
 とだけ答えた。
「考えておきます、かぁ…。脈薄いなぁ…。」
 嗣治は苦笑する。
「このままじゃあ、私は商いと夫婦(めおと)になってしまいそうだなぁ…。」
 そんな冗談をぼやきながら、嗣治はむしろどこか清々しい気持ちと共に空を仰いだ。