諸刃には安らぎの華を -終幕-

 その部屋では娘がひとり正座していた。
 背筋は正しくぴんと伸びていたが、その背は震え、顔は伏せられていた。
 その頬を一筋の雫が伝う。
 またひとつ、またひとつとその筋を伝い、膝の上に握りしめていた手の甲へと落ちていく。
「…寂玖(さびく)様にお礼を言いに行かなくては…。」
 掠れた声が静かな室内に響く。
「だからお願い……止まって……!」
 願いも虚しく瞳からこぼれ続ける涙。
 彼女は耐えきれずに両手で顔を覆った。

「あなた様は大したお方でございます。娘をお守り下さるだけでなく、お役人でさえ怖れていたあの辻斬を一刀の下に斬り伏せてしまわれるとは。」
 事件の翌日。
 朝から事情聴取だの検分だのと引っ張り回され、寂玖達が屋敷に戻ってこれたのは昼もとうに回った後だった。
 (しげる)はわざわざ寂玖のいる離れまで足を運んでその功を労った。
「これでまた安心して街を歩けます。この都に住む者の一員として御礼申し上げます。
 少しばかりではございますが、お約束の額面より多くお支払いさせて戴きます。」
 寂玖はすっと差し出された紙の包みを一瞥し、
「……忝ない。」
 抑揚のない声で応えてそれを受け取った。
「長い間娘をお護り下さり、ありがとうございました。」
 頭を垂れる茂を見て、自然とその横に目が行く。
 しかし、そこには誰の姿もなかった。
 お(こう)の姿は。
 …そうだ、いなくても別に不思議じゃない…。
 茂に頼まれてその娘を護っていただけなのだ。
 お紅は別に寂玖に恩を感じる必要も、礼を言う必要もない。
 それはいつも寂玖がお紅に言い含めていたこと。
 だから、この場にいなくとも、なんら不思議はないのだ。
 そう、仕事… ただの仕事だ。
 あの時、お紅を護りたいと思ったのも、それが自分の仕事だったからだ。
「…………」
 ぐっと拳を握る。
 自分は何を血迷っていたのだろう。
 一体それ以外のなんだと思ったのか。
 妙な幻想を抱いてしまったのは、この緩い環境に長く浸かりすぎたせいかもしれないと内心自嘲する。
 そんな寂玖の表情を見てか、茂が気遣いの眼差しでこう言ってくる。
「…寂玖殿。何も急いで発つ必要はございません。
 お疲れでございましょうから今日はゆっくりと湯に浸かり、翌日、朝餉(あさげ)でもお召しになってからお発ちになるのがよいでしょう。ご要望とあらば夕餉までご用意致しますよ。」
「いや…」
 寂玖はそれに首を振る。
「ご厚意痛み入るが、すぐに発とうと思う。」
 少しでも早くここから離れたかった。これ以上ここにいては、自分が自分ではなくなりそうな気さえする。
「…そうですか…。」
 そう言って茂は少し残念そうに微笑んだ。
 彼は寂玖とお紅の不和に気づいているようで、お紅の直接的な話題を避けている節がある。
「色々世話になった。」
 複雑な気持ちを抱きながら頭を下げ――寂玖は暫しの時を過ごした離れを後にした。
 ここから離れれば、またすぐにいつもの調子を取り戻せるはずだ。
 根拠もなくそんなことを思いながら門に向かって足早に歩いていると、か細い鳴き声が聞こえてくる。
 視線を下げると、少し距離を置いたところに正幸がいた。
 いつもは絶えず動いている尾も、今はしゅんとしだれている。
「…くぅん…。」
 正幸は物言いたげな眼差しで寂玖を見つめながらもう一度鳴いた。
「…………。」
 寂玖はその姿を見なかったことにして、止めていた足を再び動かした。
 これがどんな感情でどういう意味なのかはよくわからない。
 だがそれは、まるで心に突然穴が空いてしまったかのような感覚で、寂玖の中にあったであろう何かがすとんと抜け落ちてしまっていた。
 そのどうしようもない虚無感が、門の手前で寂玖の足を止めさせた。
 何気なく首を巡らせ――視線は自ずとお紅の部屋に向いていた。
 そして、彼は目を瞠る。
 その部屋の障子は開いており、そこにはお紅が佇んでいた。
 彼女も寂玖の視線に気づいたようで――僅かに瞠目した後、見慣れた美しい所作で丁寧に頭を下げてきた。
「っ……」
 それに一瞬だけ拳に力が籠り――
 寂玖は前に向き直ると門の外へと踏み出した。

 もう彼が振り返ることはなかった。

 こうして寂玖はまた、風の吹くままに足を向け、気まぐれに仕事をこなす日々に戻った。
 行く先で女を抱くこともあった。
 以前となんら変わらない生活。
 けれど、彼の心の隙間が埋まることも、乾きが潤うこともなかった。

 それから幾月か流れ。
 近江屋や辻斬の件以降、図らずも以前にも増して名の知れ渡るところとなったお紅は、都で一、ニを争う器量よしとして評判の娘となった。
 読売は彼女の嫁ぎ先や入婿の噂を何度も瓦版で取り上げたが、いずれも確固たる者の名が彼女の名の隣に並ぶことはなかった。

 更に幾年月か流れ。
 久方振りにお紅の名が瓦版に載ることになる。
 それは彼女の父・和巳屋の店主である茂の訃報だった。
 この時も彼女の婿候補が何人か報じられたが、やはり、確固たる者の名が書き連ねられることはなかった。

 (せん)がお紅の部屋までやってくると、襖は開け放たれており、中でその部屋の主が目まぐるしく動き回っていた。
「…お嬢様。」
 声を掛けると彼女は手にしていた荷を置いて振り返る。
「泉。」
「お呼びに預かり参りましてございます。
 …何をされておいでで?」
 訝しがる泉の下にお紅がやってくる。
「片付けです。いらぬものを質に出そうと思うのですが、もし欲しいものがあったら言って下さいまし。」
 微笑むお紅に、泉は顔を顰める。
「…まさか本気で出ていかれるおつもりですか?」
「ええ。」
「旦那様は夫婦でなくとも構わないと仰っていたではありませんか。」
 それにお紅は首を振る。
「お店を嗣治(つぐはる)さんに継いで戴いたのです。わたくしはもう店からしたら他人も同然。先代の娘だからという理由だけで居座っていたら他の者に示しがつきませぬ。」
「そんなもの、お嬢様の技量を見れば新参の丁稚でもすぐに納得致しましょう。」
「…それに、嗣治さんも所帯を持つ年の頃。わたくしのような者がいては、何かと不都合もありましょう。」
 それは取りも直さず、嗣治と結ばれるつもりが毛頭ないことを示していた。
「…………」
 だが泉は、まだ納得できないという表情をした。
「……お嬢様はこれからどうなさるおつもりなのですか。」
「都を出て田畑を耕すつもりです。今日この後、その土地を見に行きます。」
「膳よりも重い物を持ったことのないお嬢様に務まるとは思えません。」
 即座にきっぱりと切り返され、お紅は苦笑する。
「泉は大袈裟ですね… 大丈夫です。」
「大丈夫ではありません。おなごがひとりで生きていけるほど世の中甘くはございません。
 ましてや、やったことのない野良仕事など。」
「大丈夫ですよ。」
 それでもお紅は心配させじといつもの微笑みを浮かべる。
 泉はそれをじっと見返し――深く長いため息をついた。
「…お嬢様が真剣なことはわかりました。言い出したら聞かないことも、よく心得ております。」
 表情を改め、彼女は真正面からお紅を見据える。
「では、この泉も共にお連れ下さい。」
 その一言に、お紅は一瞬驚いてから苦笑した。
「そう致したいのはやまやまですが、わたくしにはもう侍女を雇うことなど…」
「雇って戴けずとも、共に働くことはできます。」
「……!」
 まっすぐに言われたその言葉に瞠目し、
「……ありがとう、泉……。」
 穏やかな表情で微笑む。
「でも、あなたには病に臥せっているお母様と、それを懸命に看病されている妹さんがいらっしゃったはず。
 きちんと然るべきところで奉公してお二人をお支えしなくては。
 わたくしなどには構わず、佐々木様の下で奉公して下さいまし。」
「…………。」
 泉は口惜しそうに奥歯を噛み締めて俯く。
「……その奉公先はお嬢様がお世話して下さったと伺いました。」
「お世話だなんて…。
 才気溢れる泉のことをお話ししたら、あちらから是非にと仰って下さったのですよ。」
 まるで自分のことのように喜びながらお紅が話す。
「佐々木様はとても気さくで、使用人ひとりひとりにも気遣って下さるような情け深い方。泉のことも大切にして下さるでしょう。
 あちらでも泉の活躍が聞けること、楽しみにしておりますよ。」
「……っ。」
 そう言って微笑んだお紅に、泉はぎゅっと着物を掴み、
「……この泉、ご恩は一生忘れません。」
 深く深く頭を下げた。

 片付けを終えたお紅は駕籠の中にいた。
 新生活を始める前に迷子で行方不明になられても困るから今回だけでも駕籠で行けと、泉が手配してくれたのだ。
 眉をつり上げながらも心配してくれる姿を思い出し、思わず笑みがこぼれる。
 なんでもひとりでやらねばと思っていたが、これが最後の奉公だからと銘打たれてしまえば断れるはずもない。その厚意に甘えてお紅は駕籠に乗り込んだ。
「…どんなところなのでしょうね…。」
 駕籠に揺られ呟きながら、膝の上の正幸の背を撫でる。
 出会った当時は両の手のひらに載る程度の正幸であったが、今やお紅の膝の上でも手狭に感じるほどの大きさだ。
「くぅん…。」
 応えて見上げてくるその表情は不安そうに見えた。
「…そんな顔をしないで正幸。わたくし、仕事の合間に一生懸命農耕を学んだのですよ。
 …あくまで机上のみで、実践経験はありませんが…。」
 苦笑しながら、今度は頭を撫でてやる。
 澄んだつぶらな瞳はお紅の本心まで見通しているようだった。
「…確かに、不安はないと言ったら嘘になりますけど… 新しい生活を思うと楽しみなのですよ?
 大丈夫。たとえ何があっても、あなたのご飯は必ず用意しますから。」
「くうぅん。」
 おとなしく撫でられながらもやはり心配そうに見上げていた正幸だったが、ふいに体を起こすと両耳をぴんと立てた。
「? どうしました?正幸。」
 そう訊ねた直後、駕籠全体ががたんと大きく揺れた。

 高台から見下ろす景色。
 晴れ渡った青空の下に広がる田畑。
 その合間に敷かれた、細く長く続く道。
 掛け声を上げながら進む一台の駕籠。
「…………」
 彼はその光景を暫し見下ろし――
 おもむろに踏み出した。

「一旦止めるぞ。」
「どうした?」
 相方の呟きに後方の駕籠舁(かごかき)も倣って足を止め、視線を前方に向けた。
 駕籠を止めた理由はすぐにわかった。浪人が行く手を阻むように佇んでいたからだ。
 狭い道だから避けて通ろうにも無理がある。その上、その浪人の手には抜き身の刀が握られていたから、彼等は足を止めざるを得なかった。
 何より、浪人が纏う殺気にも似た空気がそれを許さなかった。
「な、なんだよあんた。」
「通れないからどいとくれよ。」
 駕籠舁達の訴えに、浪人は睨むような視線を向け――
 刀を引っ提げたまま一歩歩み出た。
『ひ、ひぃ!?』
 途端、駕籠舁二人は恐れ戦き、駕籠を放り出して一目散に逃げていった。
「…………」
 その姿が見えなくなるまで見送り――
 浪人は小さくため息をついた。
 彼が駕籠に視線を戻すと、犬を抱えた娘が駕籠から出てくるところだった。
 丘陵を下る爽やかな風を受けて流れる緑の黒髪に、まるで物語に出てくる美姫のように整った顔立ちの娘。
 彼女の腕の下に垂れた尾が振り子のように左右に揺れている。
 娘は彼を見て目を丸くしたが、すぐにそれを穏やかな笑みへと変えた。
「…寂玖様…。」
 彼女は名を呼びながら引き寄せられるように歩み寄り――少し躊躇うようにしてあと一歩の距離を残して止まる。
 異国の者のように高い身の丈。
 変わらぬ左頬の傷。
 不規則に伸びて荒々しさを醸す結い上げた髪。
 それらを懐かしむように眺め、
「…お久しゅうございます。お元気そうで何よりでございます。」
 娘は微笑んだ。
「…………」
 寂玖が何も応えずに彼女を見下ろしていると、彼女の視線がちらりと抜き身の刀に向く。
「…ひょっとして、どなたかのご依頼でわたくしを斬りに?」
「…………」
 微笑みのまま首をもたげるが、彼は応えない。
「……なんて、そんなはずはありませんよね。わたくしのような小娘ひとり、斬り捨てたところで、どなたの得にもなりませんもの。」
 彼女は小さく笑ってから、改めて彼を見上げた。
「それとも、どなたかの駕籠とお間違いに?」
「…………」
 しかし、やはり寂玖は無言で見返すだけ。
「…あ…」
 その態度に彼女は呟きを漏らし、
「…仕事で一時関わっただけの者のことなど、もうお忘れですよね…。」
 目を伏せて悲しげに微笑うが、それでもすぐに穏やかな表情に持ち直す。
「わたくしは以前、寂玖様が護衛して下さった都の和巳屋という――
「お紅。」
「は、はい。」
 名乗ろうとした名を呼ばれ、お紅は目を見開く。
 寂玖は片手に提げていた刀を鞘に収めると、彼女に向き直った。
「願いを言え。」
「……え?」
「願いを言え。」
 思わず訊き返すと繰り返し同じ言葉が返ってくる。
 突然の質問に戸惑いを覚えるが、彼の懐かしい声を聞いた途端、彼と離れていた歳月が急速に埋まっていくのを感じる。
 そして、心の奥へと押し込めていた感情が堰を切ったように溢れ出てきた。
「……っ!」
 お紅は正幸をぎゅっと抱き締め――最後の一歩の距離を詰めて寂玖の胸に飛び込んだ。
「寂玖様…! わたくしをずっと…! ずっとお傍に置いて下さいまし…!!」
 縋りつくように寂玖の着物をぎゅっと掴む。
「じゃあ報酬はお前だ。」
 そう言って寂玖は彼女の震える細い体を抱き締めた。
 そんな二人の間で少し苦しそうにしながらも、正幸がくぅんと控えめな鳴き声を上げるのだった。

 おしまい。