諸刃には安らぎの華を(後編)

 その日。
 寂玖(さびく)は再び花街へとやってきていた。
 流石にこうも間が空くと心が渇く。いい加減人肌が恋しい。
 今宵こそはと思いながら、寂玖は近くの妓楼へと足を向けた。
――…………。」
 それから暫くの後。
 げんなりとした顔で足を止める寂玖の姿があった。
 目の前に見えるは花街の門。つまり、遊郭の終端。
「…………。」
 不満そうな顔で振り返り、賑わう夜の街を眺める。
 なんだこの街は。俺好みの娘がまるでいないではないか。
 そんなことを考えてから――
 歩いてきた道のりを思い返して力なく首を振る。
 都の花街だけあり、どの妓楼のどの遊女も文句のつけようもなかった。
 では何故、自分は今こんなところでひとり呆然と夜の灯を眺めているのか。
 それは、煙管を受け取ろうとする度にお(こう)の顔がちらついたからだ。
 煙管に手を伸ばしては引っ込め、伸ばしては引っ込めを繰り返し、結局こんなところまで来てしまった。
 なんでお嬢が……と思い当たる可能性を詮索し――
「……いやいや、ないない。」
 いつぞやと同様に手を振る。
 が。
「…………」
 静かに息を吐きながら、ゆっくりと頭を垂れる。
 閉じた瞳の裏に浮かぶは、少女の微笑みばかり。
「……おいおい…冗談だろ……?」
 重く俯いたその額を振っていた手で受け止め――
「……身の程知らずも甚だしい。」
 自嘲気味に呟いた。

「はあ…。」
 離れに戻った寂玖は、自分自身でも何に向けられたものなのかわからないため息をつきながら胡座をかく。
 夜の営みがないと朝までがひたすら長く感じる。
 特別することもない。
 まだ随分と早い時分であったがもう寝てしまうかと投げ槍に思っていると、衣擦れの音が近づいてきた。
――寂玖様。」
「…………」
 声の主はお紅だった。
 ともすれば吹き出しそうになる苛立ちを抱える今、できれば誰とも会いたくはなかったのだが…
「……なんだ。」
 自分でも驚くほどの低い声が出た。それに、襖越しに怯えたような気配が伝わってくる。
「……あの……もうお休みになられますでしょうか……?」
 名を呼んだ時よりも随分とか細い声が返ってきた。
 それには流石に反省して表情を改める。
「…いや、大丈夫だ。…どうした。」
 普段であればすぐに「入れ」と言うところであったが、この時はそこまで気が回らなかった。
「は、はい。お客様から菓子折を戴きましたので、寂玖様にも、と…。」
 改めた声色の効果か、お紅の声も心なしか明るくなる。
「……如何でしょう。」
 控えめに訊ねられて漸く、まだ襖越しであったことに気づく。
「ああ… じゃあ頂戴するとしよう。入れよ。」
 寂玖が襖を開けると、控えていたお紅が顔を上げた。
 彼女はほっとした表情になり、手燭の灯を消してすっと立ち上がる。
「…失礼致します。」
 二人は向かい合う形で腰を下ろした。
「練り菓子でございます。」
 お紅が手にしていた箱を開くと、二つの凝った細工の施された菓子があった。
 その細やかな飾り細工は、ひとつは柿を、ひとつは栗を模していた。
「美味そうだな。」
 無駄に歩き回って腹が空いていたところだから丁度いい。
 そう思いながらも、寂玖の視線は食欲そそる菓子よりお紅に向いていた。
 そろそろ寝るつもりだったのか、寝間着に羽織だけという姿。
 ここは離れだ。ちょっとやそっとの声では母屋まで届かないし、食事時やお紅の言伝などがない限りはここに人が来ることはまずない。
 そんな男の部屋にこんな姿でひとりやってくるなど無防備にもほどがある。
 これだから世間知らずのお嬢はと苛立ちが再燃する。
「では、お茶を用意して参ります。」
 気づけば立ち上がろうとしたお紅の腕を掴んでいた。まだお紅を部屋から出してやる気はなかった。
「……え? あっ――
 呟きを漏らすお紅をそのまま自分の胸まで引き寄せる。
 抱かないと心に決めていたはずだが、もう知るまい。こんな時分にこんな姿でこんなところに来るのが悪い。
 それに、こんなもやもやした気持ちになったのも、そもそも寂玖の中のお紅が邪魔をしたせいなのだ。ならば当の本人に責任を取ってもらおうではないか。
 一方的な感情を押し付けるように、彼女を強く抱き締める。
 渇き切っている身だ。少々荒っぽくなるかもしれないが、それでもいいと言ったのはお紅だ。多少のことは大目に見てもらおう。
 寂玖は羽織を剥ぎ、後ろからもう一度抱き締めて柔肌に唇を寄せる。
 彼女は緊張に身を震わせたが、拒絶の色はない。
 寝間着の上を滑らせながら腰紐に手を掛け――

 ――女を抱きたくなったらお紅を抱く――

「…………」
 寂玖の手が止まる。
 それが、寂玖とお紅が交わした約束。
 だがこれはあくまでも、人肌恋しくなったらお紅を抱くというものだ。お紅を抱きたいから抱くということではない。
 お紅は妙に大人びていて理解のある所があるから、たとえ心ここにあらずでも他所に行かれるよりかはとあんな約束でも承諾したのであろう。
 このままお紅を抱いたところで、彼女は誰かの代わりを務めただけとしか思わない。
 それは嫌だと思った。
 自分が柄にもなくこんなに悩まされ、一方的な敗北感を味わいながら、枯渇する身に鞭打って極力穏便に接しようとしているというのに。
 その気持ちも知らず、これは本来なら他人に向けられたものなのだなどと思われるのは納得できない。
 かといって、優しく愛を囁いてやるような性格でもない。
「…………。」
 沈黙の後、長いため息と共に腰紐に掛けていた手を静かに離した。
「…寂玖様…?」
 肩越しに首を傾ぐ彼女の両肩を掴み、正面に向き合う。
「……お紅、話がある。」
「は、はい。」
 いつになく真剣な眼差しを受けて、お紅は律儀に正座に座り直す。
 寂玖はそんな彼女の肩を更にぐっと掴み、
 そして告げた。
「あの約束を破棄したい。」

――え……?」
「女を抱きたくなったらお前を抱くというあの約束、なかったことにしてくれ。」
――!!……」
 お紅は短い瞠目の後、
「…承知致しました。」
 いつものように柔らかい笑みを浮かべて頷く。
「……ん?」
「妙なことを強いて申し訳ありませんでした。
 では、失礼致します。おやすみなさいませ。」
 丁寧に頭を下げたお紅は、羽織を拾い上げて襖の向こうへと消えていった。
「……へ?」
 それを、ただただ呆然と見送った。
「…………」
 そのまま暫く襖を眺め――
「なん…だよ、それ…。」
 どんな表情をしていいのかわからないまま、額に手を当て苦笑する。
 泣きも怒りもせず、理由さえ訊かれない。
 調子を完全に狂わされ、お前を抱きたいから抱くのだと、そう続くはずだった言葉を失ってしまった。
 あの約束をしてから今日までずっと何もなかったから、既に見限られていたのかもしれない。
 いや、はなから本気ではなく、ただ建前でそう約束させただけだったのかもしれない。
「……はっ……」
 額に手を当てたまま、我知らず笑みが漏れる。
 わかっていたはずなのに。
 お嬢と浪人。
 実際にその事実を突きつけられるとなかなかに堪えるものだと知る。
「…………」
 何も考えられずに項垂れていると、遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。
「……せえぞ、正幸……」
 口から呟きがこぼれる。
 だが、鳴き声はなおもキャンキャンと聞こえてくる。
――うるせえぞ正幸!!」
 苛立ちに任せて怒鳴るが、鳴き声は止まない。
「……?」
 そうして顔を上げてみて漸く頭が回り始めたようで、やっと事の異常に気づく。
 正幸がこんなに声を上げて吠え続けていたことがあっただろうか。
 顔を顰めて腰を上げる。
 障子を開け放ち庭を臨むと、正幸が門の方を向きながら必死に吠えていた。
 一体何に向かって吠えているのかと思っていると、上着を羽織りながら慌てた様子の(せん)が母屋から飛び出してくる。
 いつも落ち着き払っている彼女が珍しいと目を瞠るが――
 吠え続けていた正幸が、今度は寂玖の方に顔を向けてくる。
 そしてまたわんわんと吠えたかと思うと、泉に倣うように門を飛び出して行った。
「……なんだ…?」
 嫌な予感が走る。
「まさか――
 可能性が思い当たった時には刀を手に踵を返していた。
「…あの馬鹿…! まさかこんな時間に…!?」
 泉と正幸の後を追い、夜道を駆ける。
 その先にいるであろうお紅を探して。

「……お嬢…様……。」
 泉は上がった息を整えながら呟く。
 疲労した足で、それでもなお数歩進んで彼女は足を止めた。
「……お嬢様。」
 呼吸を整え、今度ははっきりとした声で、目の前に佇む後ろ姿に呼びかける。
 暗闇の中にあるその姿は、微動だにせず、ただまっすぐに、行儀よく佇んでいる。
「……お嬢様、どうなさいましたか? 突然お屋敷を飛び出されたので驚きましたよ?」
 優しい声色で語り掛ける。
「この泉でよろしければお話し下さいませ。人に話すことで楽になることもございましょう。
 でももう夜も更けて参りました。ともかくお屋敷に戻りましょう?」
「…………」
 暫しの沈黙の後、背を向けていたお紅はゆっくりと振り返った。
「…泉。ご心配をお掛けしました。少しだけ…ひとりきりで外の風に当たりたかったのです。
 でも…
 もう、大丈夫です。」
 傍まで歩いてきた彼女はそう言って微笑んだ。
 泉は一歩近づいてそんな彼女をそっと抱き締める。
「無理に気持ちの整理をつけようとするのはお嬢様の悪い癖でございます。泣きたい時は泣けばいいのです。思いきり泣けば、涙が暗い気持ちを洗い流してくれましょう。」
 言葉と共にお紅の頭をぎゅっと胸に抱え込む。
「…これで誰にも見えません。さあ、存分にどうぞ。」
 優しく頭を撫でながら言うと、籠った苦笑が聞こえる。
「……もう、泉ったら……」
 言葉とは裏腹にお紅が顔をうずめてくる。
 間もなくそこから静かな嗚咽が聞こえ始め、お紅の背中が小さく震える。
 泉はその背中をゆっくりと撫で続けた。

「……泉、ありがとう…。」
 それから暫くしてお紅は顔を上げて微笑んだ。その目元は痛々しいほどに赤い。
「…もう…よろしいのですか?」
 見ているだけで胸が締め付けられそうになるが、それでも泉も微笑む。
「はい。泉のお陰で随分落ち着きました。」
「それはようございました。
 さ、いい加減戻りませんと、旦那様が心配されているかもしれませんよ。」
「…そうですね…。」
 誰にも告げずに飛び出してきてしまったことを思い出し、お紅は表情を曇らせた。
 あれほど勝手に外に出るなと言われていたのに、こんな夜更けに、こんな姿で飛び出してしまうなんて。
「……? 泉?」
 なんと詫びようかと悩みながら歩き始めたが、すぐに前を歩く泉が足を止めたので、お紅も倣って足を止めた。
 その原因はすぐ知れた。
 彼女の肩越しに前を覗くと見知らぬ男が立っていた。その手に寂玖の上半身ほどはあろうかという大鋸(おおが)を携えて。
 ぞくりと背筋に悪寒が走る。
 男の口元はとても緩んでいたが、目はまったく笑っておらず、虚ろに歪んでいた。
 その男の纏う今までに味わったことの無い空気に、お紅は息を飲んだ。
 泉はお紅を庇うように静かに手を広げる。
「…ひ、いひひ…。女だ… 女… 上物が、二匹も…。」
 男の呟きに血の気が引く。
「…せ、泉… 早く行きましょう…?」
 お紅は手を引いたが、泉はそれに首を振る。
「お待ち下さいお嬢様。二人で同時に逃げてもすぐに追い付かれてしまいます。私が気を引きますので、合図したら先にお逃げ下さい。」
「な、何を言って…」
「ひひ… 今夜も楽しくなりそうだ…。」
「…論じている暇はありません。合図したら逃げる。いいですね?」
 大鋸をおもむろに掲げてにじり寄ってくる男から目を離さぬまま、泉が小声で念を押してくる。
 その緊迫した背中から彼女の決意を悟る。もう何を言っても聞いてもらえないだろう。
「…もしもの時にとこれを持ってきて正解でした。」
「ひはっ! おんなおんな女女女女ぁっ!!」
 泉が震える手で懐剣を抜くと、男も歓喜の奇声を上げて泉に向かって走り出す。
「さあ今のうちに!!」
 泉はお紅を後ろ手で突き飛ばしながら懐剣を構える。
「っ…!」
 よろめいたお紅はその後ろ姿に奥歯を噛み締め――意を決して走り出した。
 男は逃げるお紅に一瞬の視線を向けたが、正面の泉が向かって来たのでそちらを優先させ、崩れた笑みで大鋸を振りかぶる。
 が、それが振り下ろされるよりも早く、お紅が大きく息を吸った。
――きゃあああああ! どなたか! どなたか来て下さいまし! 一大事にございます! どなたかぁぁぁぁ!!」
「ひは!?」
「!?」
 突然の叫びに男と泉の注意がお紅に向く。
「どなたか来て下さいまし!! どなたかぁ!」
「し、静かに…、しろぉぉぉぉぉ!!」
 男は泉に目もくれずお紅に向かって走り出す。
 お紅は必死に走っていたが、何分歩幅が違う。
「お嬢様ぁぁぁ!!」
 稼いでいた距離は一気に詰められ、男は狂喜の笑みと共に、お紅の背中へと大鋸を振り上げた。
 その時、横から何かが飛来する。
「あ、あだっ!? な、にをする、この、ゴミめっ!」
 男は腕に食らいついてきたそれを振り払う。
「キャンッ!!」
「ま、正幸!?」
 地面に叩きつけられてそのまま動かない子犬にお紅が駆け寄る。
「お嬢様、お逃げ下さいませ!!」
 泉の悲痛な叫び声に、正幸を抱え上げたお紅が天を仰ぎ――
「あ…」
 その頭上では、猛獣の牙のように大きく刻まれた刃が振り上げられていた。

 夜の静寂に肉を断つ鈍い音が響く。
「…あ……がっ……!」
 お紅の目の前で振り上げられた大鋸が振り下ろされることはなく、男の手からするりと抜けると地面に突き刺さった。
 次いでぐらりと崩れた落ちた男の背後にいたのは寂玖であった。
 動かなくなった足元の男を見下ろし――緊張を解き、長く息を吐いてからお紅に視線を移す。
「…大丈夫か。」
 問い掛けるが、彼女は正幸を抱えて地面に座り込んだまま呆然と寂玖を見上げていた。
「…なんだ、腰でも抜かしたか?
 怪我は……なさそうだな。」
 苦笑しながら懐紙で刀を拭い、鞘に収めてお紅に手を伸ばす。
 抱え起こされて漸く、お紅は状況を理解したようだった。
「あ……、ありがとう…ございました…。」
 頭を下げ――そしてそのまま顔を伏せる。
「…あ、あの… 申し訳ありません… わたくし… また…寂玖様のお役目を無視するようなこと…。」
「…ん? ああ…。」
 言われて寂玖は頬を掻く。
 仕事のことなどすっかり忘れていた。
 ともかくお紅を保護することしか頭になかった。
 たとえ手に入らないとしても、護ってやらなきゃと思った。
 それは、何事にも対価を求めてきた彼には不思議な感覚であった。
「…そんなことより、お前さん達が無事でよかった。」
 安心させるように優しく微笑み、今度は泉の方を向く。
 彼女も地面にへたり込んだまま呆然とこちらを見ていた。
「泉、大丈夫か?」
「あ… は、はい。」
 同様に抱え起こしていると、遠くから数人の足音と声が聞こえてくる。どこからともなく野次馬も集まり始めていた。
「そこか!? 悲鳴が聞こえたが何事だ!」
「…やれやれ、漸くお役人様のお出ましか…。」
 面倒臭そうに言う寂玖の前に、あっという間に冷静さを取り戻した泉が歩み出る。
「私が事情をお話し致します。寂玖様はお嬢様のお側に。」
「…じゃあ頼む。」
 寂玖は頷いてお紅のところまで戻り、彼女の腕に抱かれている子犬を覗き込んだ。
「正幸は?」
「は、はい… 打ち付けた怪我のほどはわかりませんが…気を失っているようです。」
「……そうか。」
 寂玖の指先が正幸の鼻先をつつく。
「後で礼言っとけよ? そいつが案内してくれなかったら、俺はここに辿り着けなかったんだからな。」
 言われてお紅は視線を落とし、
「そうですか…。」
 呟いて、その小さな頭に頬を寄せた。
「心配すんな。こいつはそんなにヤワな奴じゃない。なんせ身を呈して主を護るような奴だからな。」
 ぽんぽんと頭を叩くと、お紅は顔を上げて微笑んだ。
「…はい。」
「……俺も……」
 寂玖は初めての感情に少し戸惑いながらお紅を見つめる。
「……?」
 彼女もその視線に気づき、控えめながらもじっと見つめ返してくる。
 たとえいずれ、別の男のところに行こうとも。
「お前は俺が護ってや――
「おぉ、やはり!!」
 寂玖の言葉を遮ったその声に、二人の視線が移る。
「この得物、この人相……間違いない!」
 泉の話を聞きながら大鋸男を検分していた役人は、歓喜の声を上げたかと思うとつかつかと寂玖の方へとやってきて、無遠慮にばんばんと肩を叩く。
「そなた、大手柄ぞ! こいつは紛れもなく巷を騒がせていた辻斬!
 ひょっとしたら御上からの恩賞もあるやもしれぬな!」
「……は?」
 寂玖は思わず間の抜けた声で訊き返していた。
 同様に、お紅も寂玖の隣で呆然としている。
 そして、寂玖は今更ながらに自分の仕事を思い出す。

――あなた様には娘の護衛をお願いしたいのです。期限は辻斬騒ぎが落ち着くまで――