諸刃には安らぎの華を(中編)

 寂玖(さびく)は集まり始めた使用人達を押し退け、お(こう)を連れて問答無用でその場を後にした。
 屋敷に着くまでの間、お紅はずっと寂玖の片腕にしがみついたまま震えていた。
「…………」
 帰宅してからは、離れに戻らずにお紅の部屋の縁側に座っていた。
 近江がここまで追ってくることはないだろうが、怯えるお紅が少しでも安心できるようにとすぐ側に控えていた。
 終日外出しているという(しげる)への報告は後日に回すしかないだろう。
――近江屋は先々代からの付き合いで――
 先刻のお紅の言葉が蘇る。
 この一件で馴染みの取引先を失うことになれば、大なり小なり和巳屋は損害を被るだろう。
 いや、ひょっとしたら、歳近い互いの娘息子を一緒にするつもりでわざとお紅を代理に立てて弘成(ひろなり)の下に行かせたのかもしれない。
 そうだとすると、寂玖は盛大に邪魔をしたことになる。
 とにもかくにも、どのみち解雇は免れないだろう。
 路銀はもう十二分に稼がせてもらったから、寂玖としてはなんら問題はないが…
 お家のためとは言え、弘成はお世辞にも好感の持てる相手とは思えなかった。
 寂玖の脳裏に隠れて泣くお紅の姿が浮かぶ。
――寂玖様。」
 ぽっかりと浮かんだ三日月を眺めながらため息をついていると、澄んだ声と共に障子が開いた。
 そちらに視線を向ければ、お紅が控えめに顔を覗かせていた。
「…どうした嬢ちゃん。寝ないと体に毒だぞ。」
 声を掛けてやると、彼女は小さく微笑んで応え、縁側に出てくる。
「なかなか寝付けなくて…。少し…話し相手になって戴けないでしょうか。」
「…………。」
 寂玖が頷くと、お紅はありがとうございますと言いながらもう一度静かに微笑み、隣に腰を下ろした。

 話し相手と言っても実際はほとんどお紅が喋っていただけで、寂玖はへー、ほー、ふーんと適当な相槌を打っていただけだった。
――そうしましたら、正幸と(せん)が…」
「…嬢ちゃん。」
「…はい?」
 明るくなり始めた空に視線を投げていた寂玖の声に、お紅は首を傾ぐ。
「そろそろ夜が明けるぞ。いい加減寝ろ。」
 言われてお紅の表情が僅かに曇る。
「……そう、ですね。」
 膝の上に重ねていた両手に視線を落として呟くように応え――静かに立ち上がる。
「…長々とありがとうございました。おやすみなさいませ。」
 見慣れた丁寧な仕草で頭を下げ、身を翻す。が――
「……寂玖様?」
 部屋に入って閉めようとした障子の縁を寂玖が押さえたので、お紅はきょとんとした表情で彼を見上げた。
「…流石にこの時期は冷えるな。中に入れてもらってもいいか?」
 その言葉にお紅は一瞬瞠目し、
「は、はい! 勿論にございますっ!」
 表情を崩した。

 ――とはいえ。

「…人様に見られながらというのは、なかなかに緊張致しますね…。」
 恥ずかしがる表情を隠すように顔の下半分まで布団を被ったお紅が言う。
「目を閉じてろ。そうすればそのうち寝れるさ。」
「そう…ですね…。」
 寂玖の言葉に頷き返し、言われた通りに目を閉じる。
「…………」
 そうして程なくして、微かな寝息が聞こえてきた。
「……まったく素直なヤツだ。」
 寂玖は布団の側に胡座をかきながら、彼女が目を覚ますまでその寝顔を見守っていた。

 朝になると、珍しく起きてこないお紅を起こしに泉がやってきた。
 部屋に寂玖がいたことに一瞬驚いた表情を見せたが、まだ寝かしておいてやってほしいと伝えると、彼女は冷静な声色で「わかりました」と頷いた。
――旦那様、ですか?」
「そうだ。」
 廊下に出た寂玖は控えていた声の大きさを戻して言う。
「話をしたい。今大丈夫か?」
「…………。」
 暫し考える素振りを見せてから、泉はまた寂玖を見上げた。
「旦那様は急にお越しになられた近江の旦那様と大旦那様にお会いになられている最中にございます。」
「…あの近江か。」
 飛び出した名前に思わず呟きを漏らす。
「はい。お昼前には手が空くものと思われます。」
「…わかった。ありがとな。」
 微笑んで礼を言うと、彼女は何か訊きたそうな瞳で――けれど何も言わずに頭を下げて去っていった。
「…………」
 彼女とお紅は姉妹のように育ったのだという。
 昨日近江屋から帰宅した時の様子。今日の近江屋の突然の来訪。そして、寂玖がここにいたこと。
 お紅をよく知る彼女には、何かあったとすぐに察しがついたことだろう。
「…………。」
 去り行くその背を見つめながら、寂玖は頭を掻いた。

 それから一刻ほどの後、寂玖は目を覚ましたお紅と共に遅めの朝餉(あさげ)を食べた。
 二人が一息ついた頃、部屋に泉がやってきた。
「寂玖様。旦那様がお呼びです。」
 …来たか…。
「……わかった。」
 寂玖はその言伝に腹を括る。
「あの…っ! わたくしも参ります!」
 寂玖と同時にお紅も立ち上がる。
 しかし寂玖はそれに首を振る。
「…呼ばれてるのは俺だけだ。嬢ちゃんはここにいな。」
「し、しかし…!」
 心配そうに見上げてくるお紅の頭をぽんぽんと撫で、寂玖はこの屋敷の主の部屋へと足を向けた。

「…………何をされておいでで?」
 深々と土下座する寂玖を見た茂が、長い沈黙の後で最初に発した一声がそれだった。
「……へ?」
 思いもよらぬその反応に、寂玖は間の抜けた声を出していた。
 顔を上げると、予想を裏切らず心底不思議そうな表情をしている茂がいた。
「え、いや、何って… さっき近江屋が旦那に話したんだよな?昨日のこと。」
「はい。近江さんが来ていたこと、ご存じだったのですね。情報がお早い。」
「あ、ああ…。だからこうして、頭を下げて…」
「頭を? 何故です?」
 やはりわからないといった表情をされ、寂玖もどうしていいのかわからなくなって両手を畳に突いたまま呆けてしまう。
「何故って… 近江屋に手を上げたことを聞いたんだろう?」
 そこまで言って漸く茂は「ああ」と頷いて表情を崩す。
「どうやら勘違いをなさっているようですね。」
「勘違い?」
「はい。近江屋さんから昨日の出来事は聞きました。
 大旦那さんは、息子が不埒な振る舞いをして迷惑を掛けたと謝罪に来て下さったのです。
 あなた様にもよろしくお伝え下さいと。」
「……はあ……。」
 近江屋としては、息子の矜持を守るより、和巳屋との取引で得られる利益を守る方を優先させた、といったところなのだろうか。
「私があなた様をお呼びしたのはお礼を申し上げるためです。
 娘を守って下さり、ありがとうございました。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
 逆に頭を下げようとする茂を慌てて制止する。
「…はい?」
「礼? それだけか?」
 思わず寂玖は問い掛けた。
 たとえ近江屋が非を認めたとしても、取引先に手を上げる用心棒などは雇い続けたいとは思うまい。
「それだけ、とは…?」
 茂はまた首を傾ぐ。
「今回の一件で俺は御役御免になるものと…………違うのか?」
「寂玖殿を解雇に? 何故です? あなた様はあの子のためを思って護って下さったのでしょう?」
「……!」
「それを親の私がどうして咎められましょうや。」
 そう言って微笑む顔は、やはり親子、お紅のそれとそっくりだった。
「これからもあの子をよろしくお願いします。」
「…………。」
 その言葉にまだ戸惑いながらも、寂玖は深く頭を下げ、茂の部屋を後にした。

 寝て腹拵えも済み調子を取り戻したのか、お紅は寂玖と恒例の正幸の散歩に繰り出していた。
 正幸と戯れるその姿はいつもと変わらなく見える。
 だが、道中寂玖は顎に手を当てて押し黙っていた。
「…どうかなさいましたか?寂玖様。」
「…ん…? いや… 別に…。」
 心配そうに見上げるお紅の視線に気づき、顎から手を離す。
――あの子のためを思ってそうして下さったのでしょう?――
 茂の言葉が記憶の中で響く。
 お紅のため?
 まだ不安そうに自分を見上げている少女に視線を落とす。
 …いや、違う…
 俺は、俺のために…。
 昨日の記憶が呼び戻され、拳が力を帯びる。
 あの時。
 弘成がお紅に手を出そうとしているのを目撃した、あの時。
 お紅を助けなければという思いも勿論あった。
 だがそれ以上に、自分以外の男が彼女に触れたことが許せなかった。
 その怒りに任せて、弘成を殴った。
 俺が……?
 お紅は寂玖の視線に気づいて首を捻っている。
 そんな彼女の姿を見て、算盤を片手に帳簿に向かい合う自分の姿が脳裏をよぎる。
「……いやいや、ないない。」
「???」
 口元にひきつった笑みを浮かべながら手を振る寂玖に、お紅は更に不思議そうな顔をした。
「……ん?」
 二人がそんな風に歩いていると、遠くの人集りから張りのある大きな声が聞こえてきた。
 寂玖はそれに顔を上げ、お紅も正幸を抱き上げながらそちらを向く。
――寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 聞くも涙、語るも涙の心中劇!! 藍刻堂のお嬢と奉公人の悲恋全容はこの瓦版だぁ! さぁさぁ買った買ったぁ!」
 どうやら読売の売り文句のようだ。
「…まったく、人間ってえのはどうしてああも他人様の話が好きかねえ。」
 沸き立つ人集りの横を通りながら、寂玖がため息混じりに呟く。
 対してお紅は悲しげに口に袖を当てた。
「まぁ…藍刻堂さんが……お気の毒に…。」
「……知っているのか?」
 問われてお紅は瞳を潤ませながらこくりと頷く。
「はい。藍刻堂の百合さんのことでございましょう。
 百合さんには幼少の頃、何度か遊んで戴いた記憶がございます。
 その時には既に決められた許嫁がいらっしゃったはず…。」
 つまり百合は、その許嫁とは別の男に惚れ、しかし認めてもらえずに若い命を散らしたということらしかった。
「…許嫁…か…。」
 お紅の言葉を繰り返した寂玖は足を止める。
「…そういえば、お前さんの許嫁は誰なんだ?」
 百合に限らず、商家の娘には大抵許嫁がいる。特に大店の娘となれば尚更だ。
 百合のように、幼い頃から――下手をすれば生まれる前から許嫁を決められていたりすることも当たり前のようにある話だと聞く。
 弘成は違ったようだから事なきを得たものの、正真正銘の許嫁相手に同じことをしようものなら、寂玖の首など間違いなく即飛ぶことだろう。
「わたくしの許嫁、でございますか?」
 お紅はきょとんとして寂玖を見返す。
「おりませんよ。」
「……は?」
「わたくしに許嫁はおりません。」
「いない…?」
 この都でも一、二を争う大店の――しかも年頃の娘であるお紅に、許嫁が、いない?
 寂玖は眉間にシワを寄せる。
「何故だ?」
「何故…と申されましても…。
 許嫁とは、大半は親同士が決めるものでございましょう?」
「…まあ…そうだな。」
 困ったように苦笑され、寂玖は顎を指先で掻く。
「でも… そうですね、その理由は… わたくしが察するに、『父が根っからの商人だから』……でございましょうか。」
「…どういう…ことだ…?」
 言わんとすることがわからずに顔を顰めるも、お紅は微笑むだけだった。
 それ以上は本人に訊けということなのだろう。
――許嫁ですか? おりませんよ。」
 屋敷に戻り、廊下で早速茂を捕まえて同じ質問を投げたが、返ってきた答はやはりお紅と同じものだった。
「何故だ? 普通いるものなんだろ?」
 戸惑い問う寂玖に、茂は優しく微笑みかけてくる。
「私は商人です。商いとは、利益を追求するもの。そして、自分の欲する利を得るためには、まず物事の動きを読む必要がございます。」
「はあ…。」
 寂玖は何の話が始まったのかわからずに曖昧な相槌を打つ。
「この世で一番将来(さき)の読めないもの、それは子の心、そして女心…恋心にございます。」
「恋心…。」
 寂玖は先程の百合の一件を思い出す。
「はい。いつの世も、子は親の決めたことに反発するもの。大抵は親の思い通りになど動いてはくれませぬ。それが恋路のことともなれば尚更です。
 私は見通しが立たぬものには手を出さぬ主義でございまして。」
 茂の顔にはいつもの穏やかな笑み。
「それに、無理矢理私の望む相手を押し付けたところで娘が幸せになる保証はありません。だから、私はあの子自身に選ばせることに致しました。
 私の一番の利は、あの子の幸せですから。」
 そうして彼はまた優しげな表情で微笑んだ。

 寂玖はぼ~っとしながら鼻の下まで湯に漬かっていた。
「…そろそろお出になった方がよろしいかと。結構長く入ってらっしゃいます。」
 手ぬぐいを手に戻ってきた泉はそう言って苦笑した。
「…そうだな。」
 応えて湯船から出た寂玖の体を、泉が丁寧に拭いてくれる。
「しかし、でかい風呂を独り占めできるのはいいねえ。気持ちよすぎてついつい長居しちまう。
 しかもこんな別嬪に至れり尽くせりたあ、ずっとこの仕事をしていたい気分だね。」
 この屋敷内での寂玖の待遇は、むしろ客人という扱いに近かった。一介の用心棒には贅沢すぎる環境だ。
 満足げにする寂玖に、泉がくすくすと笑う。
「まぁ、お戯れを。私などお嬢様の足元にも及びませんのに。」
「謙遜するねえ。」
 泉はまた小さく微笑う。
「真実でございますよ。
 …寂玖様はお嬢様のような女人はお好みではないのですか?」
「俺はもっと大人の女が好みなんだがなあ。」
 寂玖は天井を仰ぎながら疎らに生える髭を指先で撫でる。
「それは残念でございます。お嬢様は寂玖様のことをお気に召したご様子でしたのに。」
 二人は湯殿から出、泉は着付けの準備を始める。
「嬢ちゃんが? まさか。」
「私が見た限りではそう見えました。」
 笑って流そうとする寂玖に、泉は着々と着物を着せていく。
「ふ~ん…。じゃあいっちょ喰っちまうか。ぐえっ。」
 人の悪い笑みを浮かべてそう言った途端、帯でこれでもかと腹を締め付けられる。
「ふふ、いけませんよ寂玖様。いくらお嬢様のお気に入りだったとしても、不躾にお嬢様を傷つけるようなことは。」
 にっこりと微笑みながら見上げてくる泉に肩を竦める。
「冗談だ。…まったく、臓物が口から飛び出るかと思ったぞ。」
「これはこれは、失礼致しました。」
 悪怯れずに微笑む彼女を見下ろしながら、寂玖は思う。
 こりゃ既に喰っちまった後だと知ったら殺されるかもな…。
 心中で苦笑する。
――でも、寂玖様。お嬢様をあまり見くびらない方がよろしゅうございます。」
「…どういうことだ。」
 首を傾げる寂玖に、泉が小さく笑う。
「あの淑やかな外見ばかりに囚われていたら痛い目に遭いますよ。
 お嬢様はああ見えてしっかりなさった方です。軽い気持ちで悪戯などなさろうとすると、手痛い火傷を負わされるやもしれませんよ。」
「はは、肝に命じておくよ。」
 寂玖が応えると、ぽんっと帯を叩かれた。
「お支度、整いましてございます。」

「甘く見てると痛い目に遭う……か。」
 最初は泉のその言葉を真に受けてはいなかった。お紅はつい昨日も襲われかけたばかりなのだ。
 だが、あの時。弘成に押さえつけられてもなお、お紅はしっかり助けを呼んでいた。
 人間、危険に晒されたり恐怖に駆られると声が出なくなるものだ。
 お紅はそんな状況で、寂玖を呼んだ。
 騒げば人が来る。
 人が来れば、それ以上は望めないし、立場も悪くなる。
 弘成はその反撃をまんまと食らった。
 なるほど確かに騙されたとどこか楽しく思いながら、寂玖は渡り廊下を通り抜けて、離れへと歩を進めた。
「ふ~…。」
 部屋に入って刀を置き、腰を下ろして一息つく。
 一見すると、あの物腰、あの風貌だから、誰かが支えておいてやらないと風に吹かれただけでも折れてしまいそうな良いとこのお嬢という印象だけが目立つが…
 こうしてよくよく見直してみると、お紅はなかなかに面白い娘だと気づく。
 非力で何もできない箱入り娘かと思えば、予想もつかない交渉をふっかけてきたり。
 護られる立場のくせに、雇われの心配をしたり気を遣ったり。
 終には人ひとり助けるために、自らの身までどこの馬の骨ともつかない男に差し出してくるのだ。
「…お嬢の考えることはよくわからんな…。」
 寂玖は少し呆れたような笑みを浮かべながら、両腕を枕にして寝転がった。

 離れへと足を運んだお紅は、閉ざされた襖の前で腰を下ろす。
――寂玖様。」
 声を掛けたが返事はなく、人の気配もない。
――寂玖様。」
 もう一度声を掛けてみるが、物音ひとつせず、離れ全体がしんと静まり返っていた。
「…………」
 伏せた視界に、膝の上に持つ木箱が映る。
「…また、いらっしゃらない…。」
 それを持つ手にきゅっと力が籠る。
 寂玖が向かった先は――
 お紅は慌てて首を振る。
 寂玖は他のおなごには手を出さないと約束してくれた。
 たとえ事実がどうであれ、寂玖の言うことを信じると決めたのだ。
「……寂玖様…。」
 その名をもう一度だけ呼んでみる。
 だが、彼女の震えた声は、夜の離れに吸い込まれて、消えた。