諸刃には安らぎの華を(前編)

 お(こう)は自室に向かって長い廊下を歩いていた。その足取りはおぼつかず、壁に突いた片手で体を支えるようにしながら、ゆっくりと慎重に歩を進めていく。
 朝の早い時分につき奉公人達もまだ部屋から出てきておらず、廊下は彼女の(きぬ)が立てる音と床の軋む音以外は静かなものだった。
 だから、余計に思い出してしまうのだ。
 昨夜の出来事を。
「…………っ。」
 誰の目もないとわかってはいても、袖で高揚する顔を覆ってしまう。
 昨日、お紅は初めて男の肌を知った。
 鍛え抜かれた精悍な肉体。
 それはとても自分と同じ人間のものとは思えないほど、鋼のように固く強靭で。
 昨晩の出来事はお紅にとっては何もかも初めてのことばかりだった。
 だから、寂玖(さびく)には事前に頼んでおいた。
「何分初めてのことでございます故、優しくして下さいまし。」
 そう言っておいたのだ。
 確かに寂玖は優しくしてくれた……のだと思う。
 気遣いながら事を進めてくれていたことは、お紅にもわかった。
 ただし、それは初回だけの話。
 その後の寂玖ときたら――
「……~~~~っ!」
 お紅はより一層赤く染まっていく頬を、指先で摘まんだ袖で必死に隠そうとする。
 変貌した寂玖はまるで猛り狂う獣のようだった。
 幾度も「優しくして下さいまし」と切に訴えたが聞き入れてもらえず、抵抗しようにもお紅の非力な腕では寂玖の髪を乱すことくらいしかできなかった。
 そうして彼は人の悪い笑みを浮かべて言うのだ。
 「優しくしろと言われていたのは最初だけ。今更約束の変更は受け入れられない」と。
 獅子に喰らわれる兎はまさしくこんな気分であるに違いない。
 そんなことを思いながら、昨夜の寂玖が脳裏を掠める度に膝が折れそうになるのを耐え、お紅はいつもより長いと思える廊下を進んだ。
 ふと足音が聞こえて顔を上げる。どうやら前方に人が居るようだった。
 お紅は壁から手を離して居住まいを正す。
 そうしているうちに廊下の曲がり角から姿を現したのは、今の今までお紅の記憶の中で意地悪く笑んでいた寂玖その人であった。
「……寂玖様…。」
「よお、嬢ちゃん。」
 彼はお紅と合流すると、平行して共に歩き始める。
「おはようございます。」
「おはようさん。」
 お紅は極力平静を装い、彼を直視しないようにしながら歩いていく。
「……こんな早い時間に何してたんだ? まさか、また俺に隠れてふらふら出歩いてないだろうな。」
 ため息混じりに寂玖が言う。
「そのようなことは致してはおりませぬ。正幸の食事を届けに庭に出ただけにございます。それくらいならようございましょう?」
「まさゆき?」
 初めて聞く名に寂玖が眉を顰めてくる。
「あの子犬にございます。」
「…ああ、あいつか…。」
 正体がわかった途端に寂玖の声から力が抜ける。
「我が家を気に入って戴けたようでしたので。折角家族の一員となったのですから、名前をと。
 幸多き事を願って正幸と致しました。」
「正幸ねえ…。また随分と仰々しい名だな…。」
 そう呟いてから、寂玖は足を止めた。
「?」
 それに気づいたお紅も足を止め――
「きゃあ!?」
 背と膝に腕を回され抱え上げられる。
「さ、寂玖様!? 何を…!」
 思わず寂玖の着物にしがみつきながら、お紅は批難の声を上げる。
「このまま部屋まで連れていってやるよ。夕べは嬢ちゃんにはちとキツかっただろう?」
 見透かされていたことにかぁっと頬が染まる。
 だが、ここで退いたら敗けだ。
「いいえ、大丈夫でございます。」
 顔に昇ってくる熱をなんとか抑えながら、努めて冷静に。
「…この調子だと部屋まで戻るのに陽が暮れちまうぞ。」
「心配は無用にございます。降ろして下さいまし。」
 正面からそう訴えて漸く、寂玖はお紅を放した。
「…さ、参りましょう。」
 床に足を着けたお紅は、可能な限りの足早で歩き始めた。
「……やれやれ……」
 その背後で肩を竦めてから、寂玖もそれに続いた。

 離れでひとり昼食を食べ終えた寂玖は、縁側でうららかな陽の光を浴びながらごろごろしていた。
 お紅に外出の予定がなかったためすることがない。
 かといって急な用事が入らないとも限らないためここを離れるわけにもいかず、これ以上ないほどの暇をもて余していた。
 いっそ暫く寝ようかと睡眠体勢に入った途端に気配を感じ、寂玖は仕方なく目を開けて体を起こした。
 近づいてきた衣擦れの音が止んで一拍。
――寂玖様。」
 自分の名を呼んだのはお紅の声ではなかった。
「入っていいぞ。」
「…失礼致します。」
 促すと、すっと襖が開かれる。
 そこに控えていたのは、お紅付きの――確か(せん)という名の侍女だ。歳は同じか少し下だろうか。
「どうした?」
「はい。お嬢様がお呼びでございます。」
「…わかった。すぐ行く。」
 頷き刀を手に取る寂玖に侍女は頭を垂れ、
「では、お庭にお越し下さいませ。」
 そう言って去っていった。
「……庭……?」
 寂玖は刀を差す手を止めて眉間にシワを寄せた。

 草履を履いて庭に出ると、そこには寂玖の予想していた通り、二人の姿があった。
 正確には、ひとりと一匹。
「寂玖様。」
 近づいてくる足音に振り向いたお紅が名を呼ぶと、土の上に寝転がって四本の短い脚でお紅の指先にじゃれていた子犬――お紅曰く正幸も、わんっと吠えて立ち上がり寂玖を迎えた。
「…なんだ、今日出る予定はなかったんじゃないのか。」
 あのまま一日中暇をしているよりは余程マシかと思いながらも、軽く憎まれ口を叩いてみる。
 すると、立ち上がったお紅がすっと一礼する。
「申し訳ございません。正幸が散歩に行きたいと申しております故、寂玖様にもお付き合い戴きたくお呼び致した次第にございます。」
 本当にそう言っていたのかと疑りの眼差しで子犬を見下ろすと、しかし正幸は肯定を示すかのように、尾をはためかせながらまた一鳴きした。
「わかったわかった。ただし、陽が暮れる前には戻るぞ。」
 寂玖がため息混じりにそう言うと、「はいっ」「わんっ」という返事が同時に返ってきたのだった。

 こうして街に出た二人と一匹は、比較的人の少ない通りを歩いていた。
「皆でお散歩ができてよかったですね、正幸。」
 寂玖とお紅の足元をちょろちょろと走り回る正幸は確かに嬉しそうだった。
 だが、まさか言葉が通じ合っているわけではあるまい。
 そう思いながら眺めていたが、わざわざこじんまりと座ってわんと返事をする姿は妙に礼儀正しい。
 その姿に、先程散歩したいのでついてきてくれと頭を下げたお紅を思い出す。
 元より彼女の外出時の護衛が寂玖の仕事であるから、彼女がいちいち頭を下げて頼み込む必要などないのだ。
 それなのに、彼女はいつもあんな感じで、ただの浪人風情に過ぎない相手にも馬鹿丁寧な姿勢を崩さない。
 よく飼い主に似るとは言うが――
 寂玖がその飼い主たる彼女に――隣を歩くお紅に視線を向けると、揺れる髪の合間から見え隠れしている白い首筋が目に留まる。
 その肌は瑞々しくなめらかで、触れると絶妙の柔らかさと程好い張りがあるのを知っている。
 寂玖は今すぐにでもそこに喰らいつきたい気持ちに駆られた。
 純朴で楚々とした少女を支配するのは極上の悦楽であったし、そうしてもなお失われることのない気品と可憐さがまた男の欲を掻き立てる。
 大店(おおだな)の娘とは、皆そういうものなのだろうか。
 遊女しか知らない寂玖に真偽の程はわかりかねたが、もう一度じっくりと味わってみたいと思った。
 だが、と視線を空へ逃がす。
 寂玖はもうお紅と夜を共にする気はなかった。
 荒く扱われても耐え、必死に応えようとする健気な姿を思い出す。
 今朝のことからも、お紅が無理をしているのは明白だった。
 毎回気遣いながらなど寂玖には考えられなかったし、いつでも気兼ねなく通える方が楽でいい。
 そもそもが過ぎた相手だったのだ。
 でもこの娘は見かけによらず言い出したら聞かないし、自分の意見をなかなか曲げようとしない。
 二言はないと言ってしまった手前、それを覆すこともしないだろう。
 寂玖が無理なら破棄をと促したところで素直に聞きはしまい。
 ならば寂玖が身を退くしかない。
 まったく難儀なことだ。立場もわきまえずにお嬢なんて抱くもんじゃない。
 そう心の中で苦笑しながら、寂玖は清々しい青空の下で楽しげに散歩を満喫しているお紅と正幸に視線を戻した。

 文机の上に開いた帳簿を眼下に眺めながら、お紅は小さく嘆息した。
 あれからずっと、寂玖は「お紅」と名で呼んでくれない。あの夜はあんなにも、甘く切ない声色で幾度も呼んでくれたのに。
 明らかな線引きをされた気がして、痛む胸元を押さえた。
 もうひと月以上も一緒に過ごしているから、なんとなくわかってはいたのだ。
 寂玖はお紅を試した。これからも夜を共に過ごせる相手かどうかを。
 だから「優しくして下さいまし」というお紅の言葉も全て突っぱねたのだ。
 及第点は……残念ながらもらえなかったのかもしれない。
 お紅はまた淋しい気持ちになりながらも、小さく笑みを浮かべる。
 お紅の前では人の悪い寂玖だが、本当は優しい人なのだ。
 正幸に向ける眼差しは、とてもまっすぐで温かい。
 きっとあれが彼の本性なのだろう。
 その眼差しをそばで見ていられるだけで、お紅は幸せだった。
 だから、たとえ自分に価値を見出だしてもらえなかったとしても、寂玖の隣にいられるのならそれでいいと思った。

 それからというもの、お紅に用事がない日は夕方前の散歩が日課となった。
 毎回なんだかんだと言いながらも寂玖はお紅の外出を拒まずに付き合ってくれたし、正幸も寂玖によくじゃれた。
 お紅はいつもその光景を微笑ましげに見守っていた。

 その日、寂玖は雇い主――お紅の父にして和巳屋の主・(しげる)に許可をもらって夜の花街を歩いていた。
 女を抱きたくなったらお紅を抱く――
 あの時は、遊郭に通う金が浮いていい程度にしか思っていなかったが、やはりお嬢など自分の手に余る。
 彼女には何も告げずに出てきたが、夜に寂玖が不在とあれば、すぐに居場所は知れるだろう。
 それならそれでもいいと寂玖は思っていた。
 お紅は生涯ひとりの男だけと決めていたようだから、寂玖にも他の女を抱かないでほしいと言ったのだろう。
 だが、寂玖が遊郭に通い続けていると知れば、最初こそ怒るかもしれないが、すぐに愛想を尽かし、添い遂げるならもっと真っ当な男をと考えを改めるに違いない。
 そんなことを思いながら、妖しくも艶かしい仕草で誘惑に勤しむ見世の中の遊女達に目をやり、自然と口元に笑みが浮く。
「…いいねぇ、夜はこうでなくちゃ。」
 その日その時の気分に合わせて相手を選ぶ。
 やはり自分にはそういう付き合いの方が適っていると再認識する。
 この護衛の仕事についてからというもの、なんだかんだでずっとご無沙汰していた。
 どこか妙な懐かしさを胸に見世を眺めていると、遊女のひとりと目が合う。
「そこな道行くお侍様。今宵はわっちを抱いておくれなんし。」
 格子の向こうから雪よりも白く、長い腕が招くように揺れて伸びる。
 それに視線だけを向け、寂玖は無精髭の生える顎を擦った。
「さて、どうするかな。」
 少し口の端をつり上げて返してやると、遊女は腕をするりと引っ込めて袖を口元に寄せた。
 黒く濡れた瞳で恨めしそうに睨む仕草すら艶かしい。
「憎いお人でありんす…遊び女を焦らすなんて。」
 拗ねたようにぷいと顔を背ける遊女に余裕たっぷりの笑みを返して漸く、寂玖は体ごと彼女に向けた。
「はは、また今度来るよ。」
 すると袖で顔半分隠したまま、遊女は上目遣いに寂玖を見やり、袖から垣間見える口元が艶やかに笑む。
「約束でありんすよ。」
 既に足を前に進め始めていた寂玖はそれに片手を挙げるだけで返し、先に見える灯りへと歩を進めた。

 だが、花街をぐるりと一回りしても結局心惹かれる遊女に巡り会えなかった寂玖は、興醒めして早々に屋敷に戻ってひとりで床に就いた。

 夜が明けて膳を届けに来た泉に、お紅は今日出掛けるから付き添いを頼むと告げられ、食後早々に支度を済ませて外に出る。
――お待たせ致しました。」
 門に寄り掛かっていた寂玖は、掛けられた声に体を離して振り返った。
 そこには、両手で丁寧に風呂敷包みを抱えたお紅が佇んでいた。
 普段から綺麗な着物を折り目正しく着ているが、今日はいつもに増して華やかで、髪も結い上げており、挿した簪から伸びる長いびらびらが、動く度に小さく揺れた。
「…なんだ、えらくめかし込んでるな。ただの挨拶回りじゃないのか?」
 頭から爪先までを眺めて言うと、お紅は恥ずかしそうに小さく身動ぎする。
「ええと…」
「折角素敵な殿方と並んで歩くのですから、殿方好みの装いに致しました。」
「せ、泉!?」
 横から口を挟まれ、お紅は背後に控えていた侍女を慌てて見返す。
「冗談にございます。」
 頬を染めて驚きの声を上げるお紅を見てから、彼女は寂玖に視線を戻した。
「お嬢様をよろしくお願いします。いってらっしゃいませ。」
 意味ありげな微笑みと共に。

「これからお訪ねするのは近江屋さんです。古くからの馴染みで、先々代の頃からのお付き合いがあります。」
 外を回る時は、こうしてお紅が道すがらに目的を教えてくれる。
「本日は新しく跡目を継がれたご当代へお祝いのご挨拶に参ります。」
 と、そこまで言ってから、お紅は仄かに頬を染めて寂玖から視線を外す。
「…今回は父の代理としての訪問になります故、できるだけ品格のある居住まいを心掛けた次第にございます。」
 その台詞が、決して寂玖のためではないのだと強調していた。どうやら先程の泉の言葉を気にしているらしい。
「……ふうん。」
 それに寂玖は興味無さげに呟いた。
 普段ならば、「なんだ俺のためではないのか、そりゃ残念」と茶化してやるところだが、距離を置こうとしている今、それは憚られた。だから結局そんな素っ気ない返事になってしまった。
 しかし、と寂玖は隣を歩く年頃の娘を眺める。
 こうしてただ歩いているだけでも、彼女の育ちの良さがよくわかる。
 いちいち何事にも指先まで行き届いた美しい所作。
 知的な瞳に、整った顔立ち。
 更に今日は着飾っているから、大店の娘どころかお忍びのどこぞの姫君と謳っても疑う者はいないだろう。
 過去にも仕事で商家や領主の娘に会う機会はあったが、甲乙をつけるとすれば、甲の位に彼女を据えることになるのはまず間違いなかった。
 住む世界の違いを改めて思う。
 時が経つにつれて彼女と過ごした夜が夢か幻だったのではないかと思えてならない。
「…………」
 寂玖は小さくかぶりを振る。
 そうだ、あれは夢だ。
 もう二度と見ることのない、夢。
 本来ならばどうやっても交わることのない相手だ。
 そう自分の心に念を押し、彼女に触れた時の感覚を忘却の彼方へと押しやった。

 目的の店に到着し、お紅が寂玖を見上げてくる。
「では、申し訳ありませんが、こちらで少々お待ち下さい。できるだけ早く戻るように致しますので。」
 それに寂玖はやれやれと苦笑する。
「出先でお前さんを待っているのも俺の仕事のひとつだと何度も言ってるだろ。
 俺のことは気にせず、お役目をしっかり果たして来い。」
 決まり文句のようになった会話を交わしつつ、やはりいつものように申し訳なさそうに頭を下げてから、お紅はその店の中へと消えていった。

「お久しゅうございます、弘成(ひろなり)様。」
 客間に通されたお紅はそう切り出して一通りの祝辞を述べ、
「我が和巳屋一同、弘成様のご就任をお祝い申し上げます。」
 最後に祝いの品を差し出した。
 近江はまだ若く、歳もお紅と然して変わらない青年だった。
 目付きはどちらかといえば鋭い方で、中肉中背。
 出会った頃の寂玖には遠く及ばないが、身に付けている着流(きながし)から胸元が広く顔を覗かせている。
 彼は不敵とも思える笑みでずっとお紅を眺めていた。
「……あの……?」
 まるで値踏みをするかのようなその視線がどうにも居心地悪く、けれど品を受け取る風もなくで、お紅は困った声を出した。
 その様子さえも嬉々として観察してから、近江はふいに立ち上がった。
 そしてお紅の傍らに膝を突き、彼女の顎に手を掛ける。
「噂以上だな。」
「?」
 なんのことかと首を傾げるより早く、近江の両手がお紅の襟元を掴んだ。
「弘成様…? きゃああ!?」
 着物を強く引っ張られ、気づいた時にはもう畳の上に押さえつけられていた。
「へへ、いい女になったな、お紅。」
「ひ、弘成様? お戯れを…」
「お前をモノにすれば、和巳屋も俺のもの。」
「な、何を仰って… きゃあ!?」
 更に着物を引っ張られ、抵抗しようとする腕を押さえられる。
 必死に逃れようとするが、全身で戒められ、身動きひとつ取れない。
「やめて下さいまし…! やっ… 寂玖様ぁぁぁぁ!!」
――お紅!?」
 口を突いて出た悲鳴に応えるように勢いよく障子が踏み倒され、聞き慣れた声が響く。
 乱入してきた寂玖の目に飛び込んで来たのは、お紅の上に重なる男の姿。
 そして状況を頭で理解するよりも早く、近江の胸倉を掴み上げて拳を繰り出していた。
「ぐぼふっ!」
 近江は下品な悲鳴を上げて吹き飛び、そのまま動かなくなる。
 それを確認して、寂玖はお紅に向き直った。
「……大丈夫か。」
「は… はい……。」
 露になった肩を抱き震えるお紅を起こしながら「ああ、やっちまった」と思う寂玖であったが、既に後の祭であることは間違いなかった。