刃には一輪の華を(前編)

 華の都は八百八町。
 通りは行き交う人々で賑わい、集客に励む商人達の流れるような売り文句がそこかしこから聞こえてくる。
 その中でも一際活気のある大店(おおだな)街。
 ここはその一角にある大きなお屋敷。
「どうかうちの娘をお守り下さい。報酬は言い値でお支払い致しましょう。」
「へえ…豪気だねえ…。
 いいだろう。あんたのお嬢さんの命、俺が預からせてもらおう。」
 その日、ある大店でひとつの商談が取り交わされた。
 巷で噂の辻斬事件。下手人はまだ挙げられておらず、子を持つ親として心配するのは当たり前。ましてやそれが、名の通った商家の一人娘ともなれば尚更というものだ。
 そこで彼は大事な娘に用心棒をつけることにした。
 それが、目の前にいるこの飄々とした浪人ひとり。
 高くひと括りにした、赤茶けた長い髪。お世辞にも綺麗な着こなしとは言い難く着崩された着流(きながし)。そして左頬から首元にかけてざっくりと刻まれた傷跡。
 彼の名は寂玖(さびく)と言った。

 その娘、名はお(こう)
 腰の下まで伸びる美しい髪の二房を耳元で結った、愛らしく大きな瞳の持ち主。
 今年で齢十七になる、この家の令嬢であった。
 そのお紅の眉が八の字に落ち、言いにくそうにしながら口を開く。
「あ、あの……」
「なんだ、嬢ちゃん。」
 呼び掛けに応えて寂玖がこちらを向く。
「あの…、ここはわたくしの寝所なのですが…」
「ああ、そうみたいだな。」
 その返答にお紅は戸惑いの視線を泳がせた。
「俺のことは気にせず休め。」
 部屋の隅まで歩いていった寂玖は、刀を鞘ごと帯から引き抜き、襖を背にどしりと座り込む。
「さ、寂玖様、まさかこちらでお休みに…!?」
「休まねえよ。これが俺の仕事だからな。」
 慌てるお紅とは対照的に、淡々とした口調で言う寂玖。
 それにお紅は更に困った顔をした。
「し、仕事って…! 寂玖様のお仕事は、わたくしが外出する時の護衛だけでございましょう?」
「そうだな。」
「で、でしたら、離れでお休み下さいまし?」
「駄目だ。今日からは屋敷内でもどこに行くにもついていく。厠に行くのも、湯浴みに行くのもだ。」
 その一言にお紅は言葉を失う。
 今日会ったばかりの男と同じ部屋で寝るなど、厳しく育てられた彼女には考えられなかった。
 それでなくとも家族以外の異性と閉め切った室内で二人きりになったことすらないような境遇だ。四六時間中付いて回られたりしたら心休まる暇もない。
「そ、それは困ります。警護は外出時だけで十分でございます。どうか離れにお戻り下さいまし。」
「俺を動かしたいなら金子(きんす)を用意しな。」
 必死に訴えるお紅に寂玖が一言吐き捨てた。
 それには日頃穏やかなお紅の眉もつり上がる。
「そ、それは些か横暴ではございませんか!? 父から聞いた話と違います! お役目から逸脱しすぎているのではありませんか!?」
 お紅が詰め寄ると、彼は畳に立てていた刀を支えにしてすくっと立ち上がる。
 熊のようにがっしりとした体躯に怒気を纏ったとあれば圧倒されずにはいられない。頬の傷跡がそれに更なる拍車をかける。
「…そうだな。外出時の警護、それが俺の仕事だ。」
 一歩、また一歩と、彼が歩み出る度に、険しい表情に圧されて後退り、遂にお紅の背が壁に突き当たる。
「だが、お前は俺に一言もなく勝手にふらふら出歩いただろうが!」
 逃げ場を失ったお紅は、鼻先に人差し指を突きつけられて身を震わせた。
「あ、あれは…! 出歩いたと申されましても、すぐ隣のお屋敷に届け物をしただけにございます!」
「それでも外は外だ!」
 上から叩きつけられるような怒鳴り声に、お紅の体が再び縮まる。
「お前の侍女が教えてくれなければ俺は職務放棄することになってたんだぞ! わかってんのか!?」
「っ!」
 響き渡る怒声に、お紅は思わず両腕を翳して震えた。
「…………」
 雷鳴にも似た怒声が止んで数拍。
 きつく閉じていた瞼を恐る恐る開くと、寂玖は眉をつり上げながらも何も言わずにお紅を見つめていた。お紅の反応を待っているようだった。
「…………」
 それにお紅は気まずげに視線を伏せ、
「……それは……確かに寂玖様の仰る通りでございますね……。」
 そう呟いてから顔を上げ、居住まいを正して寂玖と真正面から向き合う。
「……勝手な事を申しました……お許し下さい。今後、外出の際には必ず声をお掛け致します。」
 そして深々と頭を下げた。
「…………よし。」
 寂玖は頷き、お紅の肩を軽く叩く。
「今の言葉、忘れるなよ。」
 短くそれだけを言い残し、寂玖はお紅の寝所を後にした。
 その後姿からは、もう怒気は感じられなかった。

――おや、寂玖殿。」
「…旦那。」
 寂玖は部屋を出た直後にこの家の主と鉢合わせた。彼はいつでも穏和な笑みを湛えている。
「初日から娘に良くして戴いているようで。」
 開口一番にそう切り出され、思わず鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまう。
「…あれでそう思えたんなら、あんた大した親御さんだぜ。」
 苦笑混じりに肩を竦める寂玖に微笑んで、彼はまた廊下を歩き始めた。

「嬢ちゃん……昨日の今日で交わした約束をもう忘れたのか?」
 呆れた声に振り向けば、予想通りの呆れ顔で寂玖がこちらに向かって歩いてきていた。
「寂玖様…。庭に出ただけでございます。」
「庭だって、塀を登れば簡単に狙える。」
 それにお紅は苦笑する。
「相手は辻斬でございましょう?」
 全く無防備なその笑みに、寂玖の口からため息が漏れる。
「あのな… この家の財産狙いで(かどわ)かされるかもしれないんだぞ。もう少し大店の嬢ちゃんだっていう自覚を持て。」
「まあ…。寂玖様は存外心配性なのでございますね。」
 意外な一面を知ってか、お紅がころころと小さく笑う。
 対して寂玖は面白くなさそうな顔をした。
「そういう仕事なんだよ。……なんだ、そいつは。」
 お紅の足元できゃうんきゃうんと声を漏らしながら美味そうに皿に顔をうずめている子犬が目に留まる。
「はい… 親も兄弟もなく、ひとりよろよろと歩いておりました故…。」
 答えながら、一心不乱に餌に食らいついているその小さな姿に視線を落とす。
「かわいらしいでしょう?」
 問われて寂玖は面倒そうな顔をした。
「獣の顔の違いなんてわからねえよ。」
「…もう、寂玖様ったら…! …あら?」
 餌を平らげ終わったらしく、子犬はいつの間にか寂玖とお紅の間に座り、二人を見上げていた。これでもかというほど尾っぽを地に叩きつけながら。
 そして「わんっ」と一鳴きすると、寂玖の足元を元気良く跳ね回る。
「…どうやら寂玖様が気に入ったようでございますね。」
「犬コロに気に入られてもねえ…。」
 そう言いながら目の前まで抱き上げると、子犬はぺろぺろと寂玖の顔を舐め回す。
「おわっ、ちょ、やめろって。」
 言葉とは裏腹の優しい顔を見せる寂玖に、お紅も自然と笑みをこぼしていた。
「…ほら、降ろすぞ。」
 寂玖は子犬を放してやり、お紅の方に向き直る。
「もういいだろ、そろそろ戻るぞ。」
「はい。」
 お紅は頷き、彼の後について歩き始めた。
――そういえば……」
 廊下の途中でお紅が急に立ち止まるので、寂玖も倣って足を止める。
「…どうした?」
「その……寂玖様のお召し物なのですが……」
 お紅は言い出しにくそうにもじもじと手を合わせてから、意を決して顔を上げる。
「あのっ…、も、もう少し襟元を正して戴けませんか?」
 寂玖の着物は胸から腹にかけて見渡せるほど、いつも着崩されている。
「…なんだ、嬢ちゃんも他人(ひと)の着こなしにケチつけたい年頃か?」
「ち、違いますっ!」
「まあいいけどな。……ん。」
「? なんでございましょう?」
 手のひらを差し出され、お紅が首を捻る。
「教えただろ。俺を動かしたきゃ見返りを用意しな。」
「っ!」
 口の端に笑みを浮かべる寂玖の手をお紅の手が押し戻し、愛らしい目元を申し訳程度につり上げる。
「これはわたくしの希望などではなく、寂玖様の勤務態度に関しての改善要請にございます! 侍女達から、目のやり場に困り仕事に集中できないと苦情が出ております!」
 そこまで言ってから、寂玖から視線を反らす。
「わ、わたくし自身は…別に……寂玖様がどのようなお姿でも、心乱されたりは……」
「ほお?」
 段々と消え入りそうになりながらも一線を引こうとするその言葉に、寂玖は人の悪い笑みを浮かべ――
 唐突にお紅の頭を片腕で抱え込む。
「きゃっ!?」
 しかも、丁度お紅の顔が寂玖の露になっている胸元に来るように。
「ひ、ひぁ…っ! お、お放し下さいまし! お放し下さいまし!」
 寂玖は、必死にばたばたともがくお紅を満足するまで悠然と眺めてから解放してやる。
 そしてその名に違わぬ真っ赤な顔をしたお紅は、乱れた息を整えながらぐったりとした口調でこう言った。
「や… やはりわたくしからもお願いしとうございます……。」
「了解した。」
 屈服したお紅に勝ち誇った笑みを浮かべながら、寂玖は自分の着物を正した。

「お休み……でございますか?」
「ああ、そうだ。」
 いつものように刀を置きながら、寂玖が胡座をかく。
「こう毎日毎日屋敷の中に篭っていちゃあ健康に悪いってもんだ。旦那から今週分の金子も貰ったことだしな。
 もう外に出る予定はないんだろう?」
「はい。」
「というわけで、今日はちょっと外出させてもらう。旦那にはもう許可を取ってある。」
「こんな時間から…でございますか?」
 思わず格子の方を見て確認する。空では星々が瞬き始めている時分だ。
「そうだ。男の健康は夜の運動によって保たれるってもんだ。」
 それにお紅はきょとんとした。
「運動なら早朝にいつもされているではありませんか。」
 彼女が言っているのは、庭を借りて毎朝欠かさず行っている鍛練のことだろう。
「…なんだ、見てたのか。」
「はい。」
 上品な動作でお紅が頷く。
「だが嬢ちゃん、あれとこれとは話が別だ。」
 そう言われて彼女は再びきょとんとする。
「人には体の健康と心の健康がある。」
「心の健康……でございますか?」
「そうだ。
 まあそういうわけで、外出してくるから、よろしくな。」
「…心の健康とは、どのようにして得られるものなのでしょう。」
 一方的に立ち上がる寂玖に、お紅が更に問いかける。
「嬢ちゃんは知らなくて良い方法だ。
 ともかく、ここで大人しくしてろよ。明朝には戻ってくるからな。」
 釘を刺すだけ刺して、寂玖は部屋を出た。
――今日は良い月夜だねえ。」
 天を仰ぎながら提灯を片手に門を抜ける。
 こうして寂玖は夜の街に繰り出した。
 陽が落ちたばかりなので、まだ人通りは多い。
「…………」
 家路に向かう足並みに逆らいながら、寂玖は歩く。
「…………」
 角を曲がる。
「…………」
 次の角も曲がる。
「…………」
 人通りのない裏路地を歩く。
「…………」
 更に歩く。
「…………。」
 寂玖はため息をついて足を止めた。
「……いつまでついて来る気だ。」
 振り向いた先には、隠れることすらせずに寂玖の後を歩いてくるお紅がいた。
「はい。心の健康とはどのように養うものなのかわかりませんでした故、後学のために拝見致しとうございます。」
 一点の曇りもない微笑みと共に言われ、寂玖は脱力した。
「……嬢ちゃんが来るような所じゃないと言っただろう。」
「では、簡単にで構いませんので口頭で教えて下さいまし。後程書物などで学びます故。」
 期待の眼差しに頭痛がしてくる。
「だから…! 女を抱きにいくんだよっ!」
 もう半ばヤケクソ状態で寂玖は叫んだ。
「ま、まあ…!」
 それにお紅が頬をほんのり染めて口に手を当て、
「逢い引きに向かわれていたのでございますか!?」
「ぶっ!?」
 片鱗も予想だにしていなかった反応に、寂玖の口から勢いよく息が漏れる。
「ど…、どうしましょう…ついてきてしまいました…。」
「ちーがーうーちがうちがうちがうちがう!! 俺がこそこそ想い人に会いに行くような男に見えるか!?」
「…いいえ…残念ながら、皆目…。」
「…………。」
 そこで思い切り全否定されるのもどこか癪であったが、この際それは考えないことにする。
 寂玖は頭を掻きながら観念して正直に口を開く。
「…遊郭だ、遊郭。流れ者の俺に決まった女はいねえよ。」
「ゆ……!?」
 耳慣れない単語に、お紅の顔が今度こそ真っ赤に染まる。
 漸く理解してもらえたことに、寂玖は小さく息を吐いた。
「…これでわかっただろう。」
「は、はい…。」
 お紅は小さく頷いた。
 だが、また何か思い当たったのか、ちょいちょいと寂玖の袖を引いてくる。
「…なんだ…まだ何かあるのか?」
 うんざりとした表情で問いながら見下ろすと、彼女は控えめに顔を上げた。
「その…… と…、殿方というのは、おなごならば誰でもよいのでございましょうか……。」
 至極真剣な表情でそんなことを訊かれ、寂玖は苦笑した。
「失礼なこと言うなよな。俺だって相手は選ぶぞ。」
 そこでお紅はまた考える。
「…では、寂玖様はどのようなおなごがお好みなのでございましょう。」
 問われた寂玖は、顎にまばらに生える髭をぞりぞりと指で撫でる。
「そりゃあ別嬪に限るね。
 …まあ遊女は大抵別嬪揃いだから、そういう意味では誰でもいいっちゃあ誰でもいいが。」
「そう…ですか……。」
 寂玖は遊郭に想いを馳せていて、その時のお紅の沈んだ表情には気づかなかった。
「…さあ、もうわかっただろう。送ってやるから帰れ。」
 ややあって現実に戻ってきた寂玖は、どこか元気のないお紅の腕を引いて元来た道を歩き始めた。
 結局、この日の休息は、この散歩だけに留まった。

 その日、お紅は寂玖と共に外に出ていた。
 無事に荷も届け終わった、夕陽の射す帰り道。
「寂玖様は甘いものはお好きですか? 折角なので、お茶など如何でしょう。」
「いいねえ。」
 二人は通りがかった茶屋へと足を向けた。
――やあ、お紅殿ではありませんか。」
 掛けられた声に振り向くと、隣の席に見知った顔があった。
 年の頃はお紅と寂玖の間くらいだろうか。男が湯飲みを手にしながら微笑みかけてくる。
「まあ、(あける)様。お久し振りでございます。」
 お紅が丁寧に頭を下げると、彼は少し照れ臭そうにしながら笑う。
「お久し振りです。お紅殿とお屋敷の外でお会いするとは、奇遇ですね。」
「…誰だ?」
 寂玖が団子のひとつを頬張りながら小声で問いかけてくる。
「こちらは朱様。同心・春曲(はるくま)様が擁する御用聞きのおひとりでございます。」
 お紅の紹介に合わせて朱が会釈する。
「へえ…、その歳で同心直属の目明かしとは、さぞかし腕がいいんだろうな。」
 そう言いながら、次の団子にかぶりつく。
「はい。朱様はいつもわたくし達市民を気遣って下さる、立派なお方でございます。」
「はは、お恥ずかしい…。まだ入りたての下っ端ですよ。お紅殿やこの町の皆さんには助けてもらってばかりです。」
 朱は苦笑してから少し顔つきを変え、
「…失礼ですが、あなた様は?」
 その視線でお紅の隣に控える寂玖を指した。
「こちらは寂玖様です。」
「嬢ちゃんの護衛だ。よろしくな。」
 寂玖は横から口を挟んで手早く紹介を済ませる。
「寂玖…殿、ですか…。」
「……朱様?」
 何やら考え込む素振りを見せる朱にお紅は首を傾げた。
「…あ、いや…、お紅殿に護衛をつけさせてしまうとは面目ない。
 辻斬もまだ挙げられていませんし、我々ももっと治安をよくできるよう努力せねばなりませんね。」
「そうなると俺はおまんま食いっぱぐれるわけだけどな。」
「こ、これは失礼しました。」
 慌てて詫びる朱に寂玖は肩を竦める。
「冗談だよ。それがあんたのお役目だろ。治安が良いに越したこたあねえしな。」
 その言葉に朱の表情が緩む。
「ありがとうございます。
 …おっと、いけない。そろそろ戻らないと。
 あまりのんびりしていると春曲様にどやされてしまいます。」
 朱は冗談めいた口調で言いながら立ち上がり、お紅達に微笑む。
「では、お先に失礼します。」
「お仕事頑張って下さいまし。」
 朱は小さく会釈しながら店を出ていった。
 お紅はそれを見送ってから視線を戻し――隣の席に、紐で綴じられた小さな紙束を見つける。
「手帖…?」
「ん? なんだ、忘れ物か?」
「はい。朱様の物でございましょう。」
 お紅はそれを拾い上げて懐に大事にしまう。
「お渡しして参ります。」
「…だから、俺を置いていくなと言っているだろうが。」
 さっさと店を出ようとするお紅に、寂玖は手にしていた茶を飲み干しながら立ち上がった。

 朱の足は速かったらしく、人気のない道をひとり歩くその姿を見つけたのは、陽が暮れた後のことだった。
「あ、――っ!?」
 だが、お紅が声を掛けるより早く、寂玖に口を塞がれ、無理矢理建物の陰に押し込まれる。
 何事かと見上げると、彼は通りの方に目配せした。
 倣ってそちらを見やれば、どこからともなく現れた数人の浪人達が朱を取り囲んでいた。
 浪人のひとりが何かを言ったようだが、声はここまで届かない。
 次の瞬間、浪人達が一斉に動く。
「っ!?」
 多勢に無勢で抵抗も虚しく地に伏す朱。
 浪人達は用意していた駕籠に彼を押し込めると、あっという間に退散していった。
「…………行ったか…。」
 気配が完全になくなったことを確認し、寂玖が漸くお紅を放す。
「い、今のは!? 朱様は…!?」
「……貸してみろ。」
 寂玖は応える代わりにお紅の懐から朱の手帖を抜き取る。
 そしてぱらぱらとそれを読み流し、黙って見守っていたお紅に視線を戻した。
「……(やっこ)さん、ちょっとばかり厄介な事件に首を突っ込んでいたようだ。あいつら、刀を抜かなかったってことは、どこまで掴んだかを確認してから()るつもりなのかもな。」
 手帖を自分の懐にしまいながらため息をつく寂玖の言葉に、お紅は蒼褪める。
「そ、そんな!? は、早くお役人様に知らせないと…!!」
 よろりと立ち上がるお紅の手を寂玖が掴む。
「!? 放して下さいまし! 早くしないと、朱様が…っ!」
「敵の正体がわからない以上、迂闊にこの事を他人(ひと)に話すのは危険だ。下手をすれば巻き込むことになりかねないし、役人に奴等の一味がいないとも限らない。」
「さ、されど…!」
「目明かしがひとりいなくなったとあれば、いずれにしろ役人は動く。お前が首を突っ込む領分じゃない。今の事は忘れろ。」
「え…… そ、そんな……」
 お紅が愕然と呟く。
 それに寂玖は再びため息をつき、お紅の肩を掴んで低く声を出す。
「…相手は目明かしに手を出すような連中だ。お前が下手に動いて、もしお前と言う目撃者がいることを知ったら、旦那や奉公人達まで命の危険に晒すことになるかもしれないんだぞ! わかってんのか!?」
「……で、ですが……っ!」
 お紅は必死に首を振る。
「わかったな!? 帰るぞ!」
 寂玖は半ば引き摺るようにしてお紅を連れ帰り、部屋に押し込めた。

――寂玖様。おはようございます。朝餉(あさげ)をお持ち致しました。」
「おう。いつも通りそこに置いておいてくれ。」
 声に応え、侍女が襖を開けて膳を差し入れてくれる。
「あと、お嬢様からご伝言がございます。」
「…嬢ちゃんから?」
 予想していなかった単語の出現に、書物に落としていた視線が侍女に向く。
「はい。お嬢様は体調が優れないのでお休みになるそうです。寂玖様は本日一日のんびりとお過ごし下さいとのこと。」
「…そうか、わかった。ありがとな。」
 侍女はそれに一礼して襖を閉めた。
 寂玖は手にしていた書を畳んで膳を引き寄せる。
「…そうか…調子が悪かったのか…。」
 箸を手に、焼き魚をつつく。
 最近は毎朝の稽古を傍で興味深そうに眺めていたが、今日は来なかった。
 てっきり飽きたのだと思って特に気に留めていなかったのだが……
「…そうか…調子が悪かったのか…。」
 もう一度繰り返しながら味噌汁を啜る。
「……そうだよな……いくら嬢ちゃんでも、仮病を装って奴さんを探しに行ったりはしないよな。」
 口の中で沢庵漬けがばりぼりと景気の良い音を奏でる。
「…………」
 室内に咀嚼音だけが響く。
――くそっ!」
 寂玖は箸を膳に叩きつけるように置き、刀を手に離れを出た。
 朝稽古に顔を出さなかった時点で気づくべきだった。
 帰宅してから急に意気消沈した様子にすっかり勘違いしてしまっていた。
 脳裏に子犬を見守る優しげな微笑を湛える娘の姿がよぎる。
 彼女の性格を考えれば、放っておけるはずがないのに。
――お紅!!」
 問答無用でお紅の部屋へと続く襖を開け放つ。
 やはりそこはもぬけの殻だった。お紅の姿はどこにもない。
 ふと、整頓された文机の上に置かれていた文が目に留まり、取り上げて目を通す。
「…あんの馬鹿…!」
 不在の相手に吐き捨て、文を懐に乱暴に押し込んで、寂玖は屋敷を飛び出した。
 手紙は父親に宛てられたものだった。
 そこには、外出するが日が変わる前には戻るつもりなので心配するなと書かれていた。
 そして、これはお紅の勝手な行動であり、寂玖に責はないこと。
 最後に、もしも… もしもではあるが、お紅の身に何かあったとしても、寂玖には約束通りの金額を支払って欲しいという旨が記されていた。

 後編に続く!