【番外編】 うぐいすの鳴く頃に(後編)

 起こした侍のひとりに状況を説明し――浪人の迫力ある説得も手伝い、なんとか彼の無実を納得させることに成功。
 その侍から他の侍達を説得させ、起き上がれる者は起き上がれない者を担いで、ひとり、またひとりと退散していった。
 姫君も、救護に来た駕籠に乗せられ、搬送されていく。
 そんな光景を東屋(あずまや)から眺めていた彼は、立ち上がって隣にいた浪人に頭を下げた。
「またもやそなたに助けられてしまったな。」
「気にすんな。
 …で? これは一体何の騒ぎだったんだ? あの姫さんの好物でも盗み食いしたのか?」
 問われて浪人を見返し――苦い表情で隣に腰を据える。
 巻き込んでしまったからには事情を包み隠さず話が礼儀と、彼は重たくなりかけた口を開いた。
「…拙者は武者修行のため諸国を歩き回っているのだ。
 その先で戸隠家にご厄介になった折、その… み、見初められてな…。」
「……は?」
 脱力した浪人の口から、間の抜けた声が漏れる。
「まるで親の仇みたいな追われ方だったぞ。」
 言い分は尤もだった。
「それは、その…
 拙者は修行中の身ゆえ、色恋沙汰などもってのほかと、丁重にお断りを申し上げたのだが…」
 気持ちと共に、沈んだ声色になる。
「それなら、姫が拙者を打ち負かせれば、拙者は姫の許を離れられまいというお考えに至ったらしくてな…。ああして行く先々まで追いかけて襲ってくるのだ…。」
「どんだけ物騒な姫だ。
 …しかし、確かに姫さん相手じゃあ、叩きのめして追い返すようなこともできねえしな…。」
「そうなのだ。
 最初は、そのうち諦めるだろうと適当に逃げ回っていたのだが…。」
 苦悩のため息を見かねたように、浪人が苦笑する。
「それならいっそ、実はもう決まった相手がいるって言って諦めてもらったらどうだ?」
 その提案に、彼の動きが止まる。
「…それなのだが…」
――清一郎殿。」
 言い澱む彼に、声がかかる。その主は、一番に起こした侍だった。
 見れば、倒れていた者達の救護は全て終わったようだった。
「お屋形様がこちらに参られるそうだ。そのまま待たれよ。」
「…戸隠様が?」
 そう言っている間にも、一台の駕籠がこちらにやってきていた。
 反射的に立ち上がり、東屋を出て片膝を突き頭を垂れる。
 浪人も、不承不承ながら、一歩後ろでそれに倣う。
 彼等の目の前で、堅牢で飾り気のない駕籠が止まった。
 侍がその脇で(かしず)き、駕籠の戸を開く。
 そこから姿を現したのは、年の割に真っ黒な総髪の髷をピンと施し、同じく真っ黒な質量のある口髭を生やした男だった。
 目の前に立つその仕草は、一分の無駄も隙も見当たらない。腰に差した大小が、いつ抜かれてもいいとばかりに控えている。
――久しいな、清一郎殿。」
 重みのある声が、頭上から降ってくる。
「はっ、ご無沙汰いたしております。」
「たまたま近くにおってな。貴殿がいると耳にしたので、寄らせてもらった。」
「拙者のような身には勿体ないことにございます。」
 彼は改めて深々と頭を下げる。
「此度は、姫様に大変なご無礼を――
 戸隠はそれを手で制した。
「よい。
 事情は聞いた。姫がそなたに迷惑をかけていたようだな。」
「とんでもございません。」
 三度、頭を下げる。
「活きが良すぎるのも困りものよ。姫にはもう少し、しとやかにしてほしいものだが……」
 と、そこで戸隠の視線が浪人に移ったので、彼も合わせて背後を見る。
「この者は、偶然居合わせただけにございます。お咎めは、どうぞ拙者のみに――
 言葉半ばで、戸隠が歩み出た。
 そして浪人の前で立ち止まったかと思うと、浪人の腰にあるものを引き抜いた。すらり、と銀色が疾る。
「…戸隠様?」
 予測のつかない行動に、首を傾ぐ。
 対する浪人は、特に興味なさそうな眼差しで、それを眺めている。
 研ぎ澄まされた刃文に、戸隠の顔がくっきりと映し出されていた。
「……ふむ、なかなかの業物よ。
 目の保養になった。これはお返し致す。」
 一通り眺め終えると、戸隠は浪人に向かって刀を突き出した。
 その刃は――やはり興味なさそうな表情の浪人の頬すれすれを通り過ぎ、東屋の壁に突き立った。
 荒々しく伸びていた髪の一部が、はらりと舞い落ちる。
「戸隠様!?」
「…姫には儂からよく言っておく。清一郎殿は気兼ねなく旅を続けられよ。」
「…は? ははっ…。」
 彼が頭を垂れている間に、戸隠は去っていった。
 駕籠が景色から消えたことを確認し――
 彼は踵を返して、東屋に突き刺さる刀を引き抜いた。
 鏡面のように、研ぎ澄まされた刃。
 確かに、見事な業物だ。
「…ひょっとして、そなた、戸隠様のお知り合いだったのか?」
「顔は知っている、程度だ。」
 浪人は、なおも興味なさそうな表情で、丁寧に差し出された刀を受け取った。
「そうか。
 いやしかし、ならばそなたの強さも頷ける。
 戸隠様は、猛者を好むと聞くのでな。」
 まるで旧知の仲を羨むように、大きく頷く。
「…お前さんの目はどうなってるんだ? あれが好かれていたように見えたか?」
 浪人がげんなりしつつも東屋に足を向けたので、彼もそれに続いた。
 だいぶ小降りにはなっていたため、そこまで濡れずに済んだ。
 再び、二人で腰を下ろす。
 戸隠が強い者に興味を示す人間であることは確かだった。
 それは、近くで接したことのある彼のよく知るところであった。
「…拙者は、そなたの強さが羨ましい。」
「…うん?」
 突然の言葉に、浪人が首を傾げる。
「お前さんだって強かったぞ?」
 それに、彼は静かに首を振る。
「…拙者は、弱い。
 心が、弱いのだ。
 人ひとりすら、護れる自信がない。」
「…………」
 無言に促され、彼は話を続ける。
「こんな拙者でも、一緒にいたいと好いてくれた者がいた。
 働き者で、気立てがよく、器量良しの娘だ。」
 なんだのろけかよ、と茶化す浪人に、彼は真面目な顔で頷き返した。
「うむ。真に、拙者には勿体無い娘なのだ。」
 だがしかし、と彼は肩を落とす。
「拙者は…その者の想いに応えてやることはできなかった。
 武の道の更なる高みを目指すことしか頭になかった拙者は、結局、その娘を置いて、こうして修行のため放浪に出た。
 けれど――
 少し明かりの差し始めた空に向けていた視線を、膝の上の両手に向ける。
「各地を巡るうちに、気づいたのだ。拙者は、修行という大義名分を盾に、ただ逃げているだけなのかもしれない、と…。」
 じゃあ…と呟いた浪人に、力なく首を振る。
「…だがやはり、どう考えても、その者を幸せにできる自信はない。
 彼の者には、親が決めた豪商の許嫁がいるらしいのだ。
 彼女を思えばこそ、やはり拙者などと一緒にならぬ方が…」
「それは違うな。」
 浪人が話を遮った。
 反射的に顔を上げると、まっすぐに彼を見返す視線と噛み合った。
「…そいつはお前を選んだんだろ。
 じゃあ、もうそいつを幸せにできるのは、お前だけだ。」
 語気に圧されて目を見張る彼に、ふっと浪人の口元が緩む。
「…お前も、そいつのことを本当に大切だと思っているなら… もういい加減、腹括ってそいつのところに飛び込んじまえ。
 互いを思っているのなら、まあ… 何があってもなんとかなるもんだ。」
 そんなことを言われて二、三度と瞬き――
 小さく吹き出した。
「なんとも豪快な知見だな。
 やはり、そなたは強い。」
 それに浪人は首を振る。
「そんなことはねえさ。俺も、お前と同じだった。」
 と、今度は浪人が、目まぐるしく過ぎる灰色の雲を見上げる。
「…そなたも?」
「ああ。」
 横顔から、自嘲的な笑みが漏れる。
「俺といない方が幸せになれると思い込んでたんだ。
 だが、ある時気づいちまったんだよ。
 他人には任せられない。任せたくない。って結局思ってる自分にな。」
 己の手のひらに視線を落とし――ぐっと握り締める。
 それは、なんと力強い意思か。
「…やはり、そなたは強いな。」
 眩しげに、彼は浪人を見返す。
「そうか?
 だとしたらそれは、嫁さんのお陰だな。」
 最後にそう言い、浪人は、不器用ながらも、にっと微笑(わら)った。
「…そうか。所帯を持ったのだな。」
「ああ。
 だからお前も、自分の本当の気持ちに耳を傾けてみろ。」
「…………」
 言われて彼は神妙な面持ちで暫く考え込んでから、すっと立ち上がった。
「……雨は止んだような。色々世話になった。拙者はそろそろ失礼する。」
「……そうか。」
 笠を被り身支度を整える彼に、浪人が呟き――
――そうだ、道場に行くんだったな。案内してやる。」
 追って立ち上がるが、彼は首を横に振った。
「今の拙者には、春曲(はるくま)の当主に会う資格はないと悟った。
 だから、先を急ごうと思う。」
「……そうか。」
 浪人はまた、静かな声色で頷いた。
「…ああ。そなたの話を聞いていたら、無性に顔が見たくなってしまったのでな。」
 誰の、とは告げずとも、目を丸くした浪人を見れば、それは不要と明らかだった。
 そして浪人はまた、にっと不器用に微笑(わら)った。

――寂玖(さびく)様。」
 よく知る声に振り向けば、娘がひとり、こちらに歩いてきていた。
「お(こう)
 悪い、迎えにきてくれたのか。」
 浪人姿で東屋の前に立っていた寂玖がその手に持つ傘二本を見留めて言うと、彼女はやんわりと首を振る。
「濡れてなかったのならよかったです。
 ――お知り合いの方ですか?」
 別れるところが見えたのだろう。彼女は彼越しにひょいと顔を覗かせ、去り行く侍の背中を一緒に見送る。
「…春曲道場の客だ。」
「そうでしたか。
 お越しいただかなくてよろしかったのですか?」
 お紅が寂玖を仰ぐと、未だ遠くを眺めていた視線が、ふっと緩み――
「…ああ。またどこかで会うだろう。」
 と小さく微笑んで、彼女の手から二本の傘をするりと抜き取った。
「丁度お紅と散歩したい気分だったんだ。付き合ってくれるか?」
「はい。」
 嬉しそうに微笑み返してくれる彼女の手を取り、寂玖は歩き出した。
 すっかり晴れた空から、柔らかい陽射しが降り注いでいた。

 その日もぽかぽかと暖かな陽気を満喫すべく、寂玖は縁側で片肘を突いて転がっていた。
 厳しく冷え込む日も増えたが、その日は天候に恵まれ、空は雲ひとつなく晴れ渡り、絶好の日光浴日和だった。
 吹く風も柔らかく、心地よい眠気を誘う。
 しかし、床板を伝う足音に、自ずと視線が向いた。
 その視界に間もなくお紅が飛び込んでくる。
「寂玖様、寂玖様。」
 嬉しそうに小走りでやってくるその両手には、一通の文が抱えられていた。それに送り主を察する。
「凛からか。」
「はいっ。」
 寂玖が胡座をかいて座り直すと、お紅がその横にすとんと正座し、早速と文を開いていく。
 凛は旅の道中で世話になった娘だった。
 その凛が用事で都に来ると言うのでお紅と会わせたところ、年近いこともあり、すぐに意気投合。それ以来、こうして文のやりとりが続く仲となっている。
 恋文でも待つかの如く凛からの便りを心待ちにする姿に多少の嫉妬心も芽生えるが、お紅のこの嬉しそうな表情を見れば、そんな大人げない気持ちも霧散する。
「…まぁ…! 見てください、寂玖様。」
 いつも楽しそうに読みはするが、この日は珍しく高揚した表情で寂玖に文を差し出してきた。
「…ん? どうした?」
 首を傾げながら、促されるままにそれを受け取る。
「とても素敵なことが書かれてました。最後の一節です。」
 紙面に視線を走らせる寂玖の横で、お紅がそう言い添える。
 序盤は、いつもの他愛ない話題が記されているようだが――
 と、寂玖は言われた通り、文の端に視線を移した。
 そこには、こう書かれていた。

 うぐいすの鳴く頃に祝言を挙げます。
 寂玖と一緒に、祝ってくれますか?