【番外編】 うぐいすの鳴く頃に(前編)

 水気を含んだ足音が林の合間を駆ける。
 それは、しとしとと重たい雨の降る午後のことであった。

――もし。ご一緒してもよろしいか?」
 彼がそう声を掛けると、小さな小さな東屋(あずまや)で鉛色の空を見上げていた男がこちらに視線を移した。丁度彼が笠を脱いだところであった。
「どうやら思いきり降られちまったみたいだな。」
 男は苦笑しながらも縁台を移動し、場所を作ってくれる。
「……忝ない。」
 隣に腰を下ろし、懐から取り出した手拭で着物を拭く。
「拙者はどうやらお天道様に嫌われているようだ。
 そちらは?」
 一通り身の回りを整え終わり、改めて男を見る。
 着流と腰に提げた一刀という、ありふれた浪人姿。
「俺か?
 俺はまあ… ぶらりと散歩に出てみたら、これだ。」
 と、浪人は嫌な顔をするでもなく、暗い空を目で指した。
「そうであったか。互いに間が悪かったようだな。」
 彼もそう苦笑し――
「…そうだ。そなた、春曲(はるくま)道場をご存じか?」
「春曲道場?」
 ふと思い出した目的を口にすると、浪人がそう問い返してきた。
「左様。この近辺にあるという噂を耳にしたのだが…」
「その道場なら知っている。子供相手にしか門を開かない、へっぴり道場だろ。」
「そのようだ。へっぴりかどうかは、拙者には判りかねるが。」
 彼は真面目な表情で頷いた。
「…そんな道場に、何しに行くんだ? お前さんのような立派なお侍には、到底無縁だと思うが…。」
 浪人の何気ない一言に、複雑な微笑()みが浮く。
「立派…
 立派……か……。
 真に立派な侍であれば、きっとこのような悩みは抱かぬのであろうが…」
「ん? なんだって?」
「…いや、すまない。ただの独り言だ。」
 彼は気を持ち直して浪人に顔を向ける。
「拙者はその道場主に用があるのだ。」
「なんだ、道場破りか?」
「…他流を荒らす気はないが…」
 さらりとそんなことを訊かれて苦笑し――再び鉛色の空を仰ぐ。
「道場主とは、是非手合わせを願いたいと思っている。」
「へえ…。」
 そう呟く浪人の目が、すっと細くなる。
 空色を窺っていた彼がそれに気づくことはなかったが、次いでふぅと息を吐くと、肩から力を抜いた。
「……そう思ってやってきたのが、今は……
 今はただ、会ってみたいと思っている。」
「……ただ、会う? その道場主とか?」
 こくり、と彼はそれに頷いた。
 春曲道場。
 それは、先程この浪人が言ったように、童児向けにのみ門を開いている、都の外れにある道場だった。
 巷から見ればただの寂れた町道場だが、実際は違う。
 道場主は代々、生ける伝説とまで謳われる程の鬼神の如き強さを持っているらしいのだ。
 だから、武の道を極めんとする彼が目指すもののひとつとして春曲を掲げるのも、自然の道理であった。
 しかし、残念なことに、当代は見掛け倒しの軟弱者として噂高かった。
 腕の程は確かなのだが、心が弱いのだと。
 春曲が背負う重圧に堪えかね、長らくその門を閉ざしているのだと。
 けれど、最近になって、その閉ざされていた門が開かれた。
 噂が本当であるのなら、春曲はその重き門を開けられる程の強さを得たということだ。
 その切欠として考えられるのは、奥方の存在だった。
 伴侶を得て、春曲は変わった。
「…………」
 彼は視線を手元に落とす。
「……どうしたら、そう強くあれるのであろうな……」
「…………?」
 誰にともなく呟く彼に、浪人は首を傾げた。
 が、彼はふと身の上を思い出し、顔を上げる。
「…ああ…長居をしてしまったな。そろそろ失礼する。」
「おいおい、まだ降ってるぞ。もう少し雨足が弱まるまでいたらどうだ?」
 急ぎ笠を被って東屋を出ようとする背後にやんわりと声を掛けられ、彼は振り向いた。
「…そうしたいのは山々なのだが、どうにもそういうわけには行かなくてな…。
 慌ただしくて申し訳ない。では、拙者はこれにて――
 彼が言い終えるより早く、遠くから声が聞こえてくる。
 自分の名を呼ぶその声に、彼は深くため息をついて頭をもたげた。
「……どうやら少々手遅れだったようだ。巻き込んでしまって、すまない。」
「…何?」
 突然の謝罪に、浪人は眉を顰めた。
 甲高い声が響いたのは、その直後であった。
「漸く追い付いたぞ清一郎! 今日こそ決着を着けてやる!!」
 ばしゃばしゃと水溜まりを踏み分けながら現れたのは、まだ若い娘だった。しかしその手には、不釣り合いな薙刀が握られている。
 それに面倒事を察したのだろう。浪人はまた眉間に皺を寄せた。

「ここで会ったが百年目! 今日と言う今日は逃がさん、覚悟しろっ!」
 美しいその娘は、やはり美しい――だが無惨にも泥だらけな裾の着物に襷掛けを施し、凛々しく眉をつり上げて彼に矛先を向けた。
「…………」
「……真に申し訳ない。すぐに出ていく故。」
 渋い顔で状況を眺めていた浪人に、彼もまた同じ表情で謝罪した。
「いや、それは構わないが――
「えぇい何をごちゃごちゃと!
 行くぞっ!!」
「姫、待たれよ。ここでは――
「てぇいっ!」
 聞く耳を持つ気はないらしく、彼女は迷いなく斬りかかってくる。
 彼はその第一刀を難なくかわす。が、
「おわっ!?」
 薙刀の切っ先が、浪人の鼻先を掠めていく。
「くっ…! まだまだぁ!」
 すぐさま切り返して放たれる連撃。
「姫! まずは話を…!」
「ちょ、おわっ!?」
「う~、避けるな!!」
「そう申されましても。」
「あぶっ、おい…っ!」
 文句を言いながらも手を休めることなく攻撃を繰り出す娘。優美な柄の着物が更に泥にまみれていくが、それに気を払う素振りもない。
 振り回される薙刀を、すれすれでよける浪人。
「ともかく、一旦手をお止め下さい。
 他の者もおります故、場所を変えて――
「真剣勝負の最中に何言うかっ!
 ここからは本気で行くぞ!!」
 彼女は固く握り直した得物を大きく振りかぶろうとした。
 が。
――わひゃっ!?」
 ぬかるみに足を滑らせ、間の抜けた声を発しながら体が仰け反り――
 地面に後頭部を強打した。
 ゴチャッと水気を混じらせながらも景気のいい打音が、雨に濡れた林に響く。
「…………」
「…………」
「…………」
 微動だにしない娘。
 不測の事態に彼自身の目も点になる。
「……おい、今なかなか盛大な音がしたが、大丈夫か?」
「はっ…」
 浪人の声に我に返った彼は、慌てて娘に駆け寄った。
「姫! しっかりなさいませ! 姫!!」
 揺り動かしても、頬をぺちぺち叩いてみても、彼女は目を開けない。
 仕方なく彼女を抱えて東屋に入る。
「……無事か?」
「ああ。どうやら気を失っているだけのようだ。流石は、石頭と評判の姫君。」
「…お前な…本心で言っているのかもしれないが、本人が聞いたら殴られるからな?
 …ここ使え。」
「忝ない。」
 唯一の縁台に彼女を寝かせ、ずぶ濡れの体に自分の羽織を掛けてやる。
 その横で、浪人の口からまた小さなため息が漏れる。
「一体何事だ?
 それに、姫って言ったか?
 ……ん? この顔は……」
 彼女を覗き込みながら浪人が呟いた時だった。
――いたぞ、あそこだ!!」
 聞き覚えのない男の声と、多数がぬかるみを走る音。
 この悪天候の中、どこからともなく集まってきた侍達が、あっという間に小さな東屋を取り囲んだ。
「やっと追い付いたぞ!」
「ここが年貢の納め時だ!!!」
 侍達の怒号が響く。
 けれど、彼の背後にあるものに気付き、
「ひ、姫様!?」
 一同揃って顔色を変えた。
「き、貴様ァ! 姫様をたぶらかすのみならず、手を掛けるとは…!!」
 侍達の纏っていた怒気が、あっという間に殺気に変わる。
「いや、これは――
「黙れぇい!!」
「こんな状況で申し開きをするなど不届き千万ッ!!!」
「我等が主・戸隠様の唯一無二の愛姫である羽名(はな)様に刃を向けた罪、その命を以って償え!!」
 その叫び声が号令となり、侍達が刀を抜き放った。
「……こりゃ話は無理だな。どうすんだ?」
「なんとか理解してもらうしかあるまい。」
 ため息を混じらせながら浪人にそう告げ、一歩、歩み出る。
「皆々様、まずは刀を納めて冷静に話を聞いていただきたい。
 姫様は――
「でやぁっ!!!」
 ひとりが彼の話を遮り駆け出すと、その他大勢もそれに続いた。
「お待ち下され! どうか拙者の話を…!」
「だから言っただろ。こうなったらもう、話し合いは無理だ。」
 背後で浪人のため息を感じながら、彼は仕方なく刀を抜き放ち、上下を返す。
 四方から彼を狙うその切先の、一方を避け、一方を片手でいなし、一方を刀で弾きながら、また一方を身を捻ることでかわす。
 第二陣、第三陣と、やはり攻撃をかわしながら、隙を突いてひとり、またひとりと、脇腹に柄を叩き込み、沈めていく。
 しかし、数が数。それも、忠義に厚いことで知られる戸隠の者達が血を上らせて決死の覚悟で斬り込んで来るのである。
 ……これは無傷では済むまいな…。
 そう思う脳裏に、一瞬愛しい者の顔が浮く。
 が、想いを馳せる猶予すら、彼等は与えてくれない。
 ひたすらに攻撃を耐え、隙を見つけてはまたひとりと落としていく。
「くっ…! 峰打ちとは、なんたる愚弄!」
「我々もなめられたものよ!」
「皆の者、一斉にかかれェ!!!」
 彼の意思とは裏腹に、怒りを増幅させた侍達が、同時に彼を目指す。
 流石にこの数を捌ききれる自信はなかった。
 …すまぬ、拙者はもう、そなたのもとには帰れなさそうだ…。
 脳裏で微笑む娘に謝罪して、覚悟を決める。
 が――
――うぁ!?」
「なっ!?」
「貴様っ…ぐぁっ!?」
 背後で聞こえた戸惑いの声に振り向けば、既に地に伏す三人の侍の姿。そして、浪人が丁度四人目を投げ飛ばしているところだった。
「そなた…!?」
「仕方ねえ、居合わせた縁だ、加勢してやる。」
「しかし、そなたを巻き込むのは…!」
「いいから前向け。来るぞ。」
「はっ…!」
 振り向き様に一閃し、すんでのところで受け止める。
 戸隠の家臣達の怒りは、まだ微塵も衰えてはいない。確かに、今は対処に集中した方が良さそうだった。
「忝ない…!」
 彼は浪人に向けて短くそう告げ、地を蹴った。

 ばしゃあっと音を立てて、最後のひとりが水溜まりに沈んだ。
「ふぅ…。」
 彼は小さく息を吐いて刀を収め、浪人に体を向けた。
「…助太刀、真に助かった。礼を申す。」
 深々と頭を下げると、浪人は小さく笑みを浮かべる。
「暴れるだけしか脳のない、ただの喧嘩好きだ。気にすんな。」
 肩を竦めて微笑(わら)う浪人に、彼も「そうは見えないが」と笑みをこぼした。
「…と言いたいところだが――
 と、浪人、そして彼も、それにつられるように周囲を見渡す。
――問題は、こいつらをどうするか、だな…。」
 その呟きに、彼も頭を抱えたい気持ちになってくる。
 彼等の周りには、地に伏した男達が散乱していた。
 最早ちょっとした戦場跡である。誰かに見られでもしようものなら大騒ぎになるだろう。
 それでなくとも、一国の姫に怪我を負わせ、更には家臣達にまで打ちのめしたのだから、そもそも投獄は免れまい。
 いや、そんな軽いものでは済むまいと改めて腹を括っていると、背後から声がかかる。
――おい。
 お前さん、こいつらとも面識があるのか?」
「ああ…それなりには…。」
「じゃあ、この中で一番、理解が速くて、それなりの地位で、話を押し通せそうな奴を教えろ。」
「……ふむ。」
 言われて頷き、倒れている男達を確認する。
「そうだな、それなら… ()の者が適役であろう。」
 そう言って、彼はひとりの侍の傍で膝を突く。
「ん。」
 浪人も短く応えてそれに倣う。
 そして、懐から二枚の手拭を取り出したかと思えば、あっという間に後ろ手に縛り、猿ぐつわを掛けた。
 妙に手慣れた動作にある種の不安がよぎるが、
「…おい、起きろ。」
「う… うん…?」
 浪人に顔を叩かれた侍が目を開けたので、その件に関してはとりあえず深く考えないことにした。