【番外編】 着物とお紅

 買い物に街へと出ていた帰り道。賑わう軒先が見え、反射的にそちらに目を向けていた。
 その人だかりの中心では若い男女が幸せそうに微笑んでいる。どうやら彼等の祝言のようだった。
 お(こう)は遠巻きにそんな光景を眺めながら歩いていたが、花嫁の着物を見留めてふと足を止めた。
 白く地模様の入った絹の晴着。
 …あの着物も、あんな風に着てもらっているといいな…。
 そんなことを思いながら微笑むと、また家路に向かって歩き始めた。

――えっ、手放しちゃっていいのかい?あの着物。」
 (あかつき)家の養女になると決めた翌日。お紅は近所の質屋へと足を運んでいた。
「はい。」
「…本当にいいのかい? あれはご両親の形見なんだろ?」
 頷くお紅に、質屋の主人が重ねて訊いてくる。
「はい。
 それに、ずっと使われずにいるより、必要として下さる方に使っていただいた方が、着物も両親も喜ぶと思いますし。」
 質に入れていたのは亡き両親が残してくれた着物だ。嫁ぐ時に持っていこうと最後まで手元に置いておいたものであったが、今となっては無用のものだった。
 お紅が養女となる暁家は格式のある武家だ。婚儀の着物は暁家で用意されるものを着ることになる。
 かといってこれからも日常で着る機会はないだろうから、結局残しておいても無駄になってしまうだろう。
「…そうかい…。」
 主人は重々しく(かぶり)を振ると、改めてお紅を見た。
「…実はね、あの着物を干していた時に来た客が、大層気に入ったみたいでさ。手放す時は是非自分に売ってくれと言われていたんだよ。
 どうせならその人に売ろうと思うのだが…いいかい?」
 それにお紅はまぁ、と手を合わせる。
「勿論です。そのような方に使っていただけるなら願ってもないことです。」
 そうして手続きを済ませたお紅は、深々と頭を下げて店を後にしたのだった。

 お紅は目の前の大きな門を見上げた。
 あれから紆余曲折の末、暁家の養女話は破談となり、今はこの春曲(はるくま)邸がお紅の帰る家だった。
 門を抜けると左右に建物が並んでいる。その右側に位置する母屋に向かって更に歩を進めていく。
――只今戻りました。
 ……寂玖(さびく)様?」
 長い廊下を歩いて着いた先の部屋を覗き込んだお紅であったが、しかし目的の姿が見当たらずに首を傾げた。
――お紅。」
 静かな声に呼ばれて振り向くと、少し離れた部屋の襖から顔を出した寂玖が手招きしている。
「?」
 呼ばれるままにその部屋に入ると既に寂玖が座っていたので、お紅もその向かいに腰を下ろした。
 そこまでを黙って見届けた寂玖は、小さく頷いて漸く口を開いた。
「お紅。お前が来て数日が経つが… どうだ、不都合はないか?
 何かあればなんなりと言ってくれ。」
 問われてお紅は首を振る。
「不都合など、とんでもありません。お陰様で何不自由なく過ごしております。」
「……そうか。」
 微笑むお紅に、寂玖も微笑み返し――
 視線を僅かに外すと、こほんと咳払いをひとつ。
「お紅も慣れてきたことだし、その… そろそろ婚儀の準備を始めようと思うのだが…」
「はい。」
「その…」
 咳払いをした時に拳を口元に当てたままの格好で、寂玖は視線を彷徨わせ――
 意を決したのか、目の前の――二人の間に置かれていた箱を、控え目に少しだけ、お紅の側に差し出した。
 平らな桐の箱だ。
「…開けてみてくれ。」
「はい。」
 お紅は言われるままにその箱を開け――
 瞠目した。
 そこに入っていたのは、一枚の着物。
 白い絹で地模様の入った… そう、先刻見た花嫁の着物によく似た――
「……寂玖様、これ…」
「あ~、それはだな…」
 お紅が何か言うよりも早く、寂玖が続ける。
「その…、質屋で見かけてな…。お紅によく似合いそうな着物だったから、…そのっ… こ、婚儀でそれを…着てほしい…と、思って…だな……」
 また拳を口元に当てながら発せられた声は段々と小さくなっていき、しまいにはごにょごにょとしか聞こえなかったが……それで十分だった。
「…寂玖様…」
 お紅は視線を着物から寂玖へと移し、
「……ありがとうございます。」
 目を細めて微笑んだ。
 すると寂玖も口を隠していた手を下ろしてまっすぐにお紅を見、
「……ん。」
 小さく微笑み頷いた。

 春曲家の婚儀は、邸に併設されている道場にてしめやかに執り行われた。
 代々の付き合いである暁 藍堂の進行で、真珠、(ひょう)、麗奈、獅子、そして諸星夫妻に見守られる中、寂玖はお紅と誓いの盃を交わした。
「…それでは、春曲殿。」
 藍堂に促され、寂玖は頷き立ち上がる。
 手渡された衣装を羽織り、儀式用の装飾が施された刀を手に道場中央まで歩いた寂玖は、一礼してからすっと構えた。
 そうして一呼吸置いた後、刀を振るい始める。
 闘舞だ。
 それはさながら、清流のように流れ、時に湖面のように静止し。
 寂玖の大きくも引き締まった体躯から生み出される、一片の無駄も見当たらない、力強くもしなやかな所作。
 一振りごとに、装飾が煌めき、揺れる。
「わぁ…!」
「これは見事な…」
 獅子や諸星の口から感嘆がこぼれる。
 春曲家の婚儀ではこのように舞を披露するのがしきたりなのだという。新郎たる当主が花嫁に贈る誓いの舞なのだと、藍堂が教えてくれた。
 それは、"(つるぎ)の神"と称されるに相応しいものだった。
 猛々しく、鋭く。けれど美しく、神々しい――
 そして、どこか温かさと優しさを感じる舞。
「…………」
 両親の形見の着物と寂玖の想いに包まれながら、お紅はその華麗な舞をずっと見ていた。