【番外編】 銭緡(ぜにさし)売り 

 腰に大小の刀を差し、ぴんと髷を結った男が歩いていた。
 彼の名は八郎。
 小さな小さな家ではあるが、佐久間家という武家の嫡男であった。
 家を出た彼は今、実家からは遠く離れた都の、その片隅にある狭い路地を歩いていた。
 暫く行った先にある木戸のひとつをくぐり、居並ぶ長屋の障子戸を眺め、一番近いそれの前に立つ。
――もし。もし。」
 声を掛けながらどんどんと戸を叩くと、少しの間を置いて返事が聞こえた。
――はい。」
 がらりと開かれた障子戸の向こうにいたのは若い娘であった。
 彼女は見知らぬ八郎を見て一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐにやんわりと微笑んだ。
「如何なさいましたか?お侍様。」
 それに八郎は勢いを削がれた心地がしたが、気を取り直して眉間にシワを寄せた。
「娘に用はない。この家の主を呼んでくれ。」
 できるだけ凄みの効いた表情を維持しながら言うも、彼女は変わらぬ笑みでこう言った。
「今ここの主はわたくしでございます。」
 それに八郎は瞬かずにはいられなかった。
「……お主が?」
 その娘は齢十六、七の年頃で、着古され尽くした着物、髪をひとつにまとめている簪は木製で、先に木玉の装飾がひとつあるだけ。
 いくら安長屋とはいえ、こんな娘ひとりで暮らしていけるとは思えなかった。
「はい。」
 怪訝な眼差しで頭から爪先までを一瞥する八郎に気を悪くする風もなく頷く娘。
 だが確かに他に人の気配はなかった。
「……まぁいい。」
 致し方ない…と、八郎は内心ため息をついた。
「それならば、娘。この銭緡(ぜにさし)、いくつ買う。」
 娘相手に凄むのは気が引けたが、ここまで来て何もせずに去るのも示しがつかぬと語調に威圧を込めて言う。
 唐突に眼前に紐で括られた銭をじゃらりと突きつけられ、彼女は一回、二回と瞬いた後、申し訳なさそうに微笑んだ。
「…お恥ずかしい話なのですが、今は全く蓄えがございません故…。」
 本当に、本当に心底申し訳なさそうに言われ、それを同情と取った八郎は頭にカッと血が上ってしまった。
「う、嘘をつくな!」
「真にございます。」
「な、ならば改めさせてもらおうではないか!」
 こうして後に退けなくなってしまった八郎は、娘を押し退けるようにしてその部屋へと踏み込んだ。
 しかし、家捜しするまでもなかった。
 踏み入れた瞬間に八郎はそう思った。
 がらんとした室内。部屋の奥にはひとり分の古びた寝具と少しのものが小さくまとめられており、あとは竈の周囲にいくつかの調理器具がある程度であった。
 この部屋には、生きていくのに最低限必要だろう物しか見当たらなかった。
 そこからは、この娘が明日をも知れぬ生活を送っていることが窺えた。
――これくらいしかお出しできませんが…、よろしければどうぞ。」
 呆然と立ち尽くす八郎に、彼女は湯飲みの載った小さな盆を差し出した。
 にこにこと微笑んでいるその娘の表情からは、苦労の片鱗も感じなかった。
 それに比べて、自分は――
 そこまで思考が回りそうになるのを(かぶり)を振って払い除け、八郎は湯飲みをひっ掴んだ。
――っ!」
 そうしてぐいっと茶を仰いで娘を振り返り、
「また来る!」
 それだけ告げて、逃げ去るように部屋を出た。
「……っ……」
 どこに行くわけでもなく足早に歩きながら、
 また来るってなんだ…!?
 八郎は自問していた。
 あの状況下であの台詞では、ただの脅し文句ではないか。
 別にあの娘を脅してどうこうする気はなかったのに。
「ううう…。」
 気づけば暗い路地裏で頭を抱えていた八郎であった。

 それから数日後。
 時折あの貧しい娘のことがちらついた八郎の足は、あの長屋へと向かっていた。
「用事のついでに通りがかったので、茶の礼をしに来た。
 ……よし、これなら自然だし、この前の脅し文句の誤解もごく自然に帳消しできよう。」
 予行練習にひとり納得しながら、八郎はあの娘の住む長屋の障子戸の前に立った。
「んん…、こほんっ。
 …もし。
 もし、娘。いるか。」
 声を掛けると、ひと呼吸の後にがっと乱暴に障子戸が開いた。
「!?」
 予想とは異なる人物の出現に、八郎はそれを見上げたままぽかんと口を開いていた。
「……あぁ? 誰だ。」
 相手も八郎のことを一瞥した後、怪訝そうな表情を隠そうともせずに訊いてきた。
 その男は、八郎の頭を遥かに上回る身の丈を持ち、左頬から首にかけてざっくりと深く刻まれた刀傷。そして膝下までしかない、つんつるてんの着流(きながし)
 最初は娘に好い人ができたのかとも思ったが、どうにもそういうわけではなさそうだった。
 それどころか、見れば見るほどカタギの者とは思えなかった。
 や、やくざ者か…!?
 思わず半身を退いて刀に手を掛けた時、腰に提げていた銭緡がじゃらりと音を立てた。
 八郎ははっとしてそれを手で押さえたが、時既に遅かった。
 男の視線もそちらに向き――
 明らかに不機嫌そうに眉間を寄せた。
 だが、男が何かを口にするより早く、奥から声が聞こえてきた。
「寂玖様? お客様ですか?」
 遅れてやってきたのはあの娘であった。襷掛けをして両腕にいくつかの手拭(てぬぐい)を抱えている。どうやら洗濯物をしていたようだった。
「…まあ、この間のお侍様。いらっしゃいませ。」
 彼女は八郎を見ても微笑みを崩すことなく頭を下げてきた。
 どうやらこの前の八郎の言葉は脅しとは取られていなかったようで安心したのも束の間、目の前の男がぎろりと睨み下ろしてきた。
 その男の指先が、八郎の腰の銭緡を指す。
「…お前…、お紅にそれを売り付けたのか?」
「いえ、手持ちがありませんでしたので、日を改めていただいたのです。」
 八郎の代わりに娘が答える。
「お紅…。金があってもこんなの相手にしなくていいからな。」
 男は困った表情で彼女に言い聞かせると、再び八郎を睨んでからすいと目を細めた。
 それだけで、八郎は背筋にひんやりとしたものを感じて身震いする。
「……巷には銭を結っただけのものに利を付けて売り歩く阿漕な商売で食いぶちを稼ぐ侍がいると聞いてはいたが……まさか事実だったとはな。落ちたもんだ。」
 侮蔑の眼差しに、八郎の顔がカッと赤く染まる。
「ぶ、武士を愚弄する気か!?」
 刀に手を掛けても、男は鼻で笑うだけだった。
「はっ、何が"武士"だ。
 どうせ、田舎侍が手柄を立ててやるとか息巻いて出てきたはいいが、落ちぶれて周りの連中の言われるがままにこうやって町人から金を巻き上げてるだけだろう。
 そこいらにいる破落戸(ごろつき)とどこが違う?
 その腰の刀も泣いてるだろうぜ。こんな奴に使われるくらいなら、質に入れられた方がマシだとな。」
「な、なんだと…!?」
「寂玖様…。お侍様にも事情がおありなのでしょう。」
 今度は娘が男をやんわりと宥める。
「そ、そうだ!
 浪人風情の貴様に、拙者の苦労の何がわかるッ!」
 娘の言葉を追い風とばかりに八郎が言い募るが――
「わからねえな。」
 男は唸ると、背筋が凍るほどの声色で言う。
「なんだかんだと理由をつけて流されている奴の気持ちなんて、わかりたくもねえ。
 武士なら武士らしく、鍛練重ねてその腕で金子を稼いだらどうだ。」
「…な…、なん…だと……」
 八郎はなんとか言い返そうとするが、対する浪人は、そんなもの痛くも痒くもないとばかりに涼やかな表情で見下ろしてくるだけだった。
「…………っ!」
「あっ お侍様…!?」
 娘の声を背後に聞きながら、八郎は我知らずその場から走り去っていた。
 それが、あの男の侮蔑の眼差しに耐えかねたからだと気づいた時には、心底情けない気持ちになった。
「…………」
 人のいない路地で足を止めた八郎は項垂れた。
「……う……うぅ……」
 何もかも、あのやくざ浪人の言う通りだった。
 武家とは名ばかりの家に生まれたが、その貧しい暮らしを惨めと思い、武勲を上げてやると郷里(くに)を出た。
 両親はそんな八郎を、立派に育ったと温かく送り出してくれたが、結局、都に来ても八郎の暮らしはなんら変わらなかった。
 両親が捻出してくれた金子はとうに使い果たし、仲間に言われるがままに銭緡を売り歩く毎日。
 本当は自分でもわかっていたのだ。
 あの浪人なんかよりも、自分の方が余程やくざ者であると。
 貧しいながらも、領民達と日々汗を流して堅実に生きる両親の方が、余程誇り高いと。
「ううぅ……っ」
 それを、あんな浪人崩れに言われて気づかされるなんて。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 膝を突いた八郎は、地に拳を力の限り打ち付けた。

 それからの八郎は心を入れ換え、両親に倣い堅実に生きた。
 銭緡売りをやめ、どんな内職も選り好みせず丁寧にこなした。
 まとまった金子ができてからは、道場にも通い始め、稽古に励んだ。
 その姿勢を認められ、良い主君に巡りあい、気を許せる仲間も増えた。
「…あの浪人には礼を言わねばなるまいな…。」
 清々しく晴れ渡る広い空を見上げながら、八郎はひとり呟いた。
 八郎が再びあの長屋を訪ねた時には、もうあの浪人も、あの娘も、去った後であった。
 もしまた会えることがあるなら、礼を言いたい。
 今ならきっと彼等から逃げることなく、胸を張って会うことができるだろう。
 物思いに耽っていた意識が、背後から聞こえてきた足音で呼び戻される。
――八郎、殿がお呼びだぞ。」
「相わかった。」
 迎えに来てくれた同僚に応え、八郎は踵を返した。

 彼が春曲の存在を知り、更なる高みを求めてその門を叩くことになるのは、もう少し先の話――