【番外編】 記憶の中の父

「小僧。」
 通りの陰で膝を抱えていた彼は、突然投げ掛けられた声に頭上を仰ごうとする。
 だが声の主を認識するよりも早く、太い大人の腕が伸びてきた。
「これをあの茶屋にいる男に飲ませろ。そうすれば、ひと月は食っていけるくらいの金子(きんす)をやろう。」
 一方的に何かを掴まされ、
「言われたこと以外は決してするなよ。我々は遠くから見ている。」
 間を置かずに威圧的に言い浴びせてくる。
 我々。
 男はそう言った。
「…………」
 彼は手のひらをゆっくりと開く。
 そこにあったのは小さな紙包。
 その中に入っているものが何なのかは、幼い彼にもすぐに想像がついた。
 彼は弾かれるように見上げたが、既に男の姿はなかった。
「…………」
 彼はもう一度自分の手のひらの上にあるものを見つめ――
 ぎゅっと固く握りしめた。

 男は人気の無い茶屋の縁台に腰掛けながら、何をするわけでもなく遠くの疎らな往来を眺めていた。
 一応腰に刀は差しているものの、それを満足に扱えるのかと疑問に思ってしまう優男だった。
 何が嬉しいのか、何が楽しいのか。特に面白いものもない景色を、ただただにこにこと眺めていた。
 男の横にはなみなみと淹れられたお茶が置かれている。
 それを思い出したのか、湯飲みを手に取ってほんの一口だけ茶を啜り――
 脇に置くと、またにこにこと往来を眺めた。
 そうしているうちにひとりの子供が近づいてくる。
 みすぼらしい姿のその子供は、そわそわと明らかにおかしな挙動でその男の方へと歩いてくる。
 だが男はそんな様子に気づく風もなく遠くに視線を投げ続けている。
 そうして子供は男の前までやってきて――
 何かが光を受けて煌めく。
「……おや。」
 男はそこに至って漸く往来から視線を移した。小刀の突き立てられた自分の腹へと。
 銀色と肌色の隙間から液体が溢れ出し、着物をあっという間に朱に染めていく。
「…う…、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
 子供は自分が作り出したその光景に耐えきれず、悲鳴と共にいずこかへと消えていった。
 男は自分の腹に突き立てられたそれを不思議そうに眺め――
「……新しく仕立てたばかりの着物が…」
「そうじゃねえだろうが!」
 叫び声と同時に物陰から飛び出して来たのは、先程と同じ年頃の子供だった。
 同じく薄汚れた着物に、同じく砂埃で乾いた肌。
 先程の子と異なる点を挙げるとすれば、しっかりと自らの意思を宿す眼光だろうか。
「…おや。今日は子供に縁のある日だなぁ。」
「だからそうじゃねえだろ! 腹から刀が生えてんだぞ!」
 彼が指で示しながら叫ぶと、男は再び自分の腹に視線を落とした。
「…ああ、これかい? ごめんね。こんなの見せられたらびっくりするよね。」
「いや、むしろお前のその反応にびっくりしてるぞ、俺は。…いいから早く抜いて手当てしろよ。」
 目の前の衝撃的な光景がどうでもよく思えてくるほど呆れ果てながら言われて漸く、男は彼の意を汲んだようだった。
「ああ…、実はこういうのって、下手に刀を抜くと血がたくさん出て余計危なかったりするんだよ。」
「悠長にへらへら解説している場合か! そこまでわかってるなら、早く医者のところにでも駆け込んで対処してもらえよ!」
「……ふむ、そうだね。このままじゃ流石にまずい。腹から刀が生えてたら娘に嫌われる。」
「…お前、頭ん中にも五、六本刀とか生えてるんじゃねえのか。」
 とても流血沙汰の張本人とは思えない口調で頷いた男は、胡乱な目でうんざりと呟く彼の前で懐から手拭いを取り出し――何をどうやったのかはよくわからなかったが、あっという間に刀を引き抜き止血していた。
――そういえば…」
 その状況についていけずに呆然としていると、男は小刀に手拭いを巻き付けて懐にしまいながら何事もなかったかのように首を傾げる。
「君も私に何か用があったんじゃないのかな。」
「…!」
 反射的に薬包を持った手を握る。
 ほんのごく僅かな動作だったが、それに気づいたらしい男の視線がそこに移り、
「…ああ、ひょっとして、頼んでいた薬を届けに来てくれたのかな?」
 脇に置いていた湯飲みを差し出してくる。
「じゃあ、ここに入れてくれないかな。」
 なおも微笑み言う男に、彼は険しい表情を向けた。
「……お前、本気で言っているのか?」
 見知らぬ男に命令されてから、暫くこの男を見ていた。
 どうやら命を狙われているらしいこの男は、何故かそれを防ごうという気配がない。
「さぁ、ここに入れて。」
 男は彼の言葉を無視して更に湯飲みを差し出してくる。
「……これが毒と知ってて言ってるのか。」
 もう一度問う。
 愚問だ、と自ら思いながら。
「薬だよ。」
「……そうか。」
 にこにこと答える男に、彼はくるりと背を向けた。
「なら、これを売って金にする。じゃあな。」
「…えっ。…いやいや待った待った。」
 歩き始めた彼の肩を男が掴んでくる。
 肩越しに振り返った先にあったのは優しい苦笑。
「…全く、なんて天の邪鬼なんだ。」
 今度は両手で彼の肩を掴み、屈んで目線を合わせてくる。
 その穏やかすぎる黒い瞳に、一瞬ぞくりと鳥肌が立つ。
 とても刺客に付け狙われ殺されかけた人間の目とは思えなかった。
「…別に死にたいわけじゃないよ。幼い娘がいるからね…。でも、その程度じゃ私は死なないよ。だから、君は何も心配しないでその手に持っているものをここに入れればいい。そうすれば、君は今日のご飯にありつける。」
 優しい笑みと共にまたすっと湯飲みが差し出される。
 彼はそれを横目で見て――すぐに目の前の男を睨み直した。
「心配? 誰がするか。俺はただ大人が嫌いなだけだ。同情してくる奴も嫌いだ。中でも命令してくる奴は大っっ嫌いだ。ただ、それだけだ。」
 肩に置かれた手を叩くように振り解き、今度こそ歩き出す。
 が。
――!?」
 ぞくりと背筋が凍りつくような感覚に、思わず足を止めていた。
「……っ!? ……!?」
「……すまない。」
 慌てて周囲を見回す彼の横に男が並んでくる。
「どうやら君にあげられる選択肢はなくなってしまったようだ。」
「……っ……」
 男の言っていることはよくわからなかったが、声が出ず、男を見上げるだけに終わる。
「……ついておいで。」
 歩き出した男の言葉に従うべきか躊躇う。
 だが、彼の本能は『早くこの場を離れるべき』と告げていた。
「……っ!」
 意を決して、彼はその男の後についていった。

「はる、まがり…?」
 目の前に高々と掲げられている看板には"春曲道場"と記されていた。
「字が読めるんだね。これで"はるくま"って読むんだ。ちょっと変わった名前だろう?」
 横にいた男が彼を見下ろしながら微笑む。
 あれから言われた通りにこの男の後ろを辿り、着いた先がここだった。
「まだ名乗ってなかったかな。私の名は春曲信久。よろしくね。」
「……お前、この道場の関係者なのか?」
 訝しがる表情を隠そうともしない彼に、男――信久は苦笑する。
「まあね。」
 意外だ。
 そう思う一方で、先程の剣の扱いなどを思い出し、妙に納得してしまった部分もある。
「君の名は?」
「…………。」
 問われて途端に口を紡ぐ様子に信久はまた苦笑を漏らす。
「…まぁともかく、まずは中に入ろうか。」
 促され、無言を貫いたまま、その飾り気のない大きな門をくぐった。
 視界が広がり、右手には屋敷が、左手には道場らしき建物が見える。
――こっちだよ。」
 少し先で信久が振り向いて待っていた。
「…………」
 彼は見慣れぬ風景を眺めながら、また信久の後に続いた。

 それから信久自身の部屋だろう一室に通され、促されるまま向かい合う形で腰を下ろした。
「漸く落ち着いて話ができるね。」
「…………」
「君、家はどこ?」
「…………」
「君の名は?」
「…………」
「御両親は?」
「……いない。」
「そうか。」
 信久は一通りの質問を投げ終えて頷く。
「それでは単刀直入に言おう。突然だが、君には私の息子になってもらう。」
「……本当に突然だな。」
「そう言う割には随分冷静だね。」
 信久は嬉しそうにくすくすと笑う。
「彼等の殺気も感じ取っていたし、勘もいいみたいだね。」
「…殺気…。」
 背筋の凍る、あの感覚。
 信久の言葉はあのことを指しているのだろう。
 恐らくは、彼に命令した奴の――いや、我々と言っていたから、そいつらのものだろう。
 あのまま信久と別れていたら、奴等の意思に背いた彼は奴等に殺されていたかもしれない。
「命を助ける代わりに息子になれって? どこの馬の骨かもわからない俺を? 馬鹿なのか、お前。」
「はは、手厳しいな。でも、そういう息子こそ私には必要なのかもしれないね。」
「……ふん。」
 嘲笑もやんわりと返され、彼は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
 怨みを買うような人間とは思えない。
 ならば何故、この男は命を執拗に狙われているのか。
「…まあいい。俺だってまだ死にたくない。生きるために利用できるものがあるならなんだって利用してやるさ。」
 無愛想に言い放ってやると、信久はまた嬉しそうに笑う。
「素直だね。じゃあ決まりだ。まずは…名前かな。」
 そう言って信久は思案する仕草を見せる。
「私の久しいの字をあげよう。……歳の割には随分落ち着いているし……ああ、でも君はなかなか気位が高いから……」
 ぱっと文机の方に身を翻し、さらさらと筆を走らせたかと思うとまた彼に向き直る。
「"寂玖(さびく)"。これでどうかな。」
「…………。」
 表情ひとつ変えないで信久の掲げる紙を見つめる彼に、信久の眉が下がる。
「……気に入らない?」
「名前なんて何でもいい。」
「そう…。親にとってはとても重要で大切な決め事なのになぁ…。でも、肯定の言葉として受け取っておくよ。」
「勝手にしろ。」
「じゃあ、今日から君は春曲寂玖だ。」
「……っ!」
 彼は心底嬉しそうに笑う信久からどこか苛立たしげに視線を反らした。
「…でも、こうして思いがけず息子ができて嬉しいなぁ。一緒に背中流しながら語り合ったりっていうのは男親の夢だからね。」
「お、俺はしないぞ!?そんなこと!」
 慌てて拒否する彼の背後で襖の開く音がする。
 それに反応して振り向くと、そこには女児がひとり控えていた。
「お、おちゃをおもちしました、ちちうえ。」
 たどたどしい口調で言う。
「ああ、ありがとう。お入り。」
 招かれ、彼女は盆を手に部屋に入ってくる。
「あ… あぅ…」
 こぼさぬよう注意を払いすぎるあまり足取りはよろよろと覚束ず、僅か数歩の距離を小刻みに近づいてくる。
 内心はらはらとその姿を見守っていたが、彼女はなんとか二人のところまでたどり着くことができて胸を撫で下ろす。
「そ、そちゃですが… ど、どうぞっ。」
 震える両手で茶托を差し出し、緊張から解放された彼女はやっとひと息ついた。
「ありがとう。上手にできたね。」
「…えへへ。」
 信久が撫でてやると、彼女も頭を擦り付けるようにしながら嬉しそうに笑った。
「寂玖。紹介しよう。この子は真珠。今日から君の妹だよ。」
 次いで信久の視線が真珠と呼ばれた少女に移る。
「真珠。彼の名は寂玖。真珠の兄上様だよ。」
 いきなりそんなことを言われ、真珠はきょとんと寂玖を見る。
 当然の反応だろう。
「あにうえさま? しんじゅの?」
 そう呟いたかと思うと、おもむろに寂玖のところまで歩いてきて首を傾げる。
 慣れぬ無垢な視線に彼は身動きが取れなくなってしまう。
 そのまま暫く、穴が空くほど見つめてきて――真珠がまた口を開く。
「…あにうえ…?」
「……なんだ。」
 突然兄の存在を紹介されたことへの疑問か、はたまたただ呼ばれただけなのか。
 どちらともつかず、戸惑いながら応える。
 すると、彼女は寂玖を仰ぎながら再度首を傾げる。
「あにうえ?」
 今度はなんとなく呼ばれた気がした。
「…なんだ。」
 改めて無愛想に応えると、真珠は寂玖の感触を確かめるかのようにぴたりと抱きついてきた。
「しんじゅの、あにうえ。」
「ああそうだ。今日からお前の兄だ。」
 最早やけくそでがしがしと頭を撫でてやったが、それでも彼女は信久の時と同様に心地良さそうにしていた。
「凄いな。真珠は結構人見知りする子なんだけど。」
「……ふん。」
 信久に微笑ましげに眺められながら、寂玖はわしわしと乱暴に真珠を撫で続けた。

――寂玖様?」
 彼はお紅に呼ばれて我に返る。
「…ああ、すまない。少しぼうっとしていた。」
 慌てて応えると、お紅は柔らかく微笑みかけてくる。
「信久様のことを思い出されていたのですか?」
「あ、うん… まあ…。」
 ずばり言い当てられ、少し恥ずかしげに視線を宙に泳がせる。
「寂玖様は信久様のことをお考えの時は優しい表情をなさっているのですぐにわかります。」
 くすくすと笑みを漏らすお紅に「うっ」と言葉を詰まらせ、
「そ、それはともかくとして、だ。今夜はその親父達の話だったな。」
 話題の転換を図る。
「はい。」
 お紅はそれ以上は何も言わずに、けれどなおも嬉しそうにしながら頷いて先を促した。
 咳払いひとつで寂玖はいつもの調子を取り戻す。
「…親父は一言で言うなら――女子供に滅法弱い。」
「弱い…ですか?」
 きっぱりと言い放った寂玖にきょとんとする。
 (つるぎ)の神などと謳われ畏れられる春曲の当主を形容する言葉とは一番無縁そうな単語。それを第一に出され、お紅は思わず問い返していた。
「そうだ。…いや、実際は弱いなんて言葉じゃまるで足りない。ひと度外に出れば、道を訊ねてきた子供には斬りつけられ、暴漢から救った女からは御礼にと毒入りの羊羮を食わされ…」
「え…、ええ…!?」
 さらりと言われた衝撃的な内容に、お紅は困惑の声を上げていた。
「ともかく、親父ひとりで外出させると何事もなく帰ってきた(ためし)がない。」
「そ、そんな……、何故…?」
「親父は単純なんだ。自分が傷つくことでまた誰かが救われるならそれでいいと… ただそれだけで、しょっちゅう傷だらけで帰ってきやがる。…勿論、そんな姿を幼い真珠に見せられるわけがない。いつも隠れて手当てをしたり薬を調達したりと大変だった。全く、取り繕うこちらの身にもなれってんだ。」
 まるでそこにいる信久を諭すような、優しい口調。
 その瞳には、懐かしさと尊敬の色が見えた気がした。
――親父はあまり痛みを感じない体だったんだ。」
「……え?」
 ふいにこぼした寂玖の一言に、お紅は反射的に顔を上げる。
「幼少の頃から命を狙われ続けた親父は、常に傷だらけだった。傷つくことに慣れてしまっていたんだ。俺達の前では痛みなんてへっちゃら、なんて豪語していたが、親父の体はもうボロボロだったんだ。」
「……そんな……。」
 複雑な表情で微笑う寂玖に、胸が締め付けられる思いがする。
「ある時突然倒れて……それっきりさ。」
 あの日。
 道場で並んで正座する息子達に、強くなったねと微笑んで。
 その夜に突然倒れ、次の日の出を拝むことなく息を引き取っていった信久。
 あの男はやることなすこといつも唐突で、最後まで寂玖を驚かせた。
「流石の親父も、病の前では無力だったらしい。」
 肩を竦めて見せる寂玖につられるように、お紅は微笑んだ。
「信久様は本当に素敵なお父様だったのですね。信久様のことを語る寂玖様を見ていると、それがよくわかります。私、今まで以上に信久様のことが好きになりました。」
「そうか? 子供に心配ばかりをかけさせまくる親だったがな。……さて、次はおふくろのことだが……」
 そう切り出した寂玖は、少し申し訳なさそうにお紅を見る。
「おふくろのことは俺もほとんど知らない。俺がここに引き取られた時には、既におふくろは亡くなってたからな。親父もあまり話さなかったし…真珠も物心つく前のことだから、ほとんど憶えてないだろう。」
「そうですか…。」
「ともかく、なんか凄い人だったらしい。」
「す、凄い…?」
 一体何がどう凄いのかは全くわからなかったが、苦々しい表情で「凄い」を強調した寂玖に思わず苦笑する。
「一体どのような方だったのでしょうね。」
 見知らぬ過去に思いを馳せて呟くお紅を見た寂玖は、無精髭の生える顎に手を当てて視線を落とした。
「……そうだな、暁ならよく知っているかもしれない。真珠も知りたいだろうし… 今度三人で暁に話を聞きにいくか。」
 その提案に、お紅の表情が輝く。
 三人で。
 その響きが、家族であると証明してくれているようで。
「は、はいっ。是非!」
「よし、じゃあ決まりな。暁には話を通しておく。……さ、今日はこれくらいにして寝るぞ。」
「はい。」
 頷いてお紅は床に入る。
 寂玖も同様に床に入ろうとして――肩越しにお紅を振り返った。
「…あ~…、お、同じだからな。」
「?」
 掛けられた声に、布団の中で身を翻したお紅が首を捻る。
「そ、その…、俺がお紅の話をしている時も、きっと親父の話をしている時と同じ表情しているはずだからな…っ!」
 その言葉に瞠目する。
「そ、それだけだ。おやすみっ!」
 一方的に言って返事も待たずにぷいと背を向け布団に滑り込む。
「……寂玖様……」
 寂玖はそれ以上は何も言わなかったけれど。
「……ありがとうございます。」
 耳まで赤く染まった後顔。緊張で頻繁に上下を繰り返す背中。
 お紅はその寂玖らしい後姿を、寝息が聞こえてくるまで嬉しそうに眺め続けた。