【番外編】 とある日の刺客

 寂玖は片腕を枕にうたた寝をしていた。
 縁側は、それはもう絶好の昼寝場所と言えた。麗らかな陽射しが優しく降り注ぎ、柔らかく寂玖を包み込む。
 だが次の瞬間、彼の目が勢いよく見開かれると同時に銀閃の疾る鋭い音。次いでカッと軽い音を響かせて二つに分かたれた矢が床に落ちた。
「…ったく、毎度毎度壁に穴空けられてたまるかよ。」
 小さく息を吐きながら刀を収めた寂玖は、そのまま起き上がって胡座をかき、矢の半分――細く折った紙の括りつけられている羽の方を拾い上げた。
 名のある道場主である彼は、こうして果たし状を投げ込まれることも生活の一部であった。
 だからそれも、いつもの流れ作業よろしく特に興味もないまま矢から文を外し、開いた文面を流し見して――

 表情を真剣なものへと改めた。
 思わず二度見までした。

 そこには次のように記されていた。

 本日の茶菓子はずんだの串団子(勿論お紅の手製)

「…………!」
 寂玖はその一文を受けて刀を手にすっくと立ち上がり――
 外出の支度をすべく、いそいそと室内へ引っ込んでいったのだった。

 刀を腰へと差しながら門をくぐったところで寂玖は足を止めて眉を顰めた。邸の前に若い男が立っていたからだ。
 しかもその体と視線は一直線なまでに寂玖へと向けられていた。
 寂玖は先程の着流(きながし)に袴を穿いて出たが、彼も同様の姿をしていた。腰にも同じく大小を差している。
「…………」
 いかほどの時間だったかどちらも鋭い眼光で互いを見据えたが、先に目を逸らしたのは寂玖であった。ふいっと体の向きを変え、目的地とは逆方向へと歩き出す。
「…………」
 それを見守っていた若侍も、数歩遅れてそれに続いた。

――って、いい加減にしろよお前!」
 痺れを切らせて振り返った寂玖は、自分のすぐ後ろを歩いていた歳近いその男を睨み付けた。他に人通りのない小路でのことだった。
 あれから時が経つこと半刻。彼はその間ずっと寂玖の背後についてきていた。
 右を曲がっても左を曲がっても、彼はついてきた。
 唐突に走り出そうとも塀を飛び越えようとも、やはり彼はぴたりとついてきた。
 そうしてまた暫く右へ左へ、左へ右へを繰り返し――
 今に至る。
 彼は鬼神とも称される寂玖が怒気全開にして見せても表情ひとつ変えず……ただ、静かに片手を上げてこう言った。
「俺のことは構うな。」
「俺だって構いたくないわ!!」
 力の限り叫んでから、寂玖は更に殺気をも纏って言う。
「……いきなり現れて何の用だ、富隆。」
 真正面から睨み付けられても、この若い男――加我富隆はどこ吹く風とばかりに無言で応える。
「…あいつに何か言われて来たのか。」
 次いで発した寂玖の言葉が、無言を貫こうとしていた富隆の眉を振るわせた。
「…自惚れるな。上様がお前ごときを相手にするほどお暇なわけなかろう。」
 僅かにだが、冷静な声色に苛立ちが混ざる。
「じゃあなんなんだ。用件を言え、用件を。」
 内心の焦りを悟られないようにしながら寂玖は先を促す。
 本当はこんな奴を相手にしている暇などないのだ。
 だが、彼は変わらぬ冷静な表情で応える。
「先程も言ったが、お前に用事などない。構わずそちらの用事を済ますといい。」
「…あのなあ…」
――俺が用があるのは、お前の首だけ。」
 遮られて言われたその台詞に、寂玖は反射的に鯉口を切っていた。
 同時に、富隆も。
『…………』
 両者の間に張り詰めた空気が漂う。
「……ふん…、あいつ以外でお前を動かすなんざ、やるじゃねえか。
 それで? その雇い主は誰だ?」
「鶴千代丸様だ。」
「あいつかよ!?」
 寂玖は思わず心の底から突っ込みを入れていた。
 その様子を見て取り、富隆も利き手を刀から離して頷いた。
「前々から、生意気な熊を黙らせたいと相談を受けていてな。俺が適当に人材を見繕って差し上げていたのだ。」
「って…あれお前の人選かよ…。」
 心底げんなりと肩を落とす寂玖。
 鶴千代丸から差し向けられた刺客(?)は、暗殺のあの字もなく、ある者は正面から突っ込んできてはただ闇雲に刀を振り回し、またある者は達者なのは口だけでまるでへっぴり腰であったり。
 だがその辺はまだマシな方で、ひどい者だとそもそも真剣すら持ち上げられずに寂玖に救いを求めてくる者までいた。
――勿論、嫌がらせだ。」
「ああそうだと思ったよ!」
 寂玖は投げ槍気味に叫んだ。あれが富隆の人選とわかった時点でそう合点がいった。
「…とはいうものの、最近の新米側付共が皆使い物にならなくて困っていたのも事実。
 そこで、刺客としてお前のもとへと向かわせたわけだ。
 お前のもとから帰ってきた者は皆、この世にあんな恐ろしいものがあるのかと泣きながら剣を振るうようになった。まさに一石二鳥。我ながら良い案だった。」
 満足げに富隆が頷く。
「…俺をダシにするな…いい迷惑だ…。」
「だがしかし――
 深く嘆息する寂玖を無視して富隆が続ける。
「熊の首はまだかと鶴千代丸様がご立腹でな…。責を負って俺自らが赴くこととなったのだ。」
「ってお前、将軍家の剣術指南役だろうが。いいのかよ、そんなことで城を離れて。」
 早く彼をどうにかしたかった寂玖はそう指差したが、富隆はまた静かに頷き返してくる。
「無論、上様には打診した。面白そうだから是非行ってこいとお墨付きをいただいた。」
「……あいつ……今度絶対殴る……。」
「というわけで、俺はお前が隙を見せるまでこうして機を窺っているだけ。お前は気にせず普段通りに過ごすがいい。」
「過ごせるかっ!」
「勿論嫌がらせだが。」
「お前いい加減にしろよなああああ!!」
 寂玖は抱えた頭を仰け反らせた。
 くそ…、どうする…!?
 寂玖は内心焦っていた。
 寂玖が本気を出せば、富隆でもなんとか撒くことはできるだろう。
 だが、必死に逃げれば逃げるほど、何故そこまでと疑念を抱かれる可能性がある。
 それが更に上へと知れたら……
 寂玖にとって最悪の展開になりかねない。
 それだけはっ… それだけは避けねば…!!
 けれど、今行かねばお紅の串団子が兵衛(ひょうえ)にひとつ残らず食べられてしまう。
「…………」
 心底嫌そう(実際は悩み顔)で自分を睨んでいる寂玖を見て、富隆は「それにしても」とまた嘆息する。
「…上様も信久様も、何故お前のような者をお側に置きたがるのか…俺には解せん。」
 侮蔑の色さえ纏った視線が寂玖に向けられる。
「信久様の剣は繊細で美しかった。それなのに、お前のその粗野な剣が春曲流だと? 笑わせる。」
 ふんっと鼻を鳴らした富隆は、更に眉をつり上げて言う。
「気高く清廉な春曲の歴史を余所者のお前が汚すことなどあってはならないのだ。
 そこに直れ寂玖。お前を斬り、清らかな春曲の流れをこの手で取り戻す。」
 そう言って静かに刀を抜き放った富隆を見て、寂玖は瞠目し――口元に笑みを浮かべた。
「漸く吐きやがったな。それがお前の本音か。」
 応えて寂玖も刀を抜く。
「…いいぜ、お前がそう思うのならやればいい。
 だが、この名を易々と手放すつもりはない。俺にも譲れないものがある。」
 両者は睨み合い、それぞれが構えを取る。
 そして、富隆は切っ先を寂玖の喉元へとぴたりと突きつけた。
「真珠様こそ春曲の本流。
 お前を葬って春曲のあるべき姿を取り戻す!」
 その言葉を合図に、二人は我先にと地を蹴った。
 ぎんっと鉄の音を響かせたかと思えば距離を取り、また間合いを計って疾る。
「まだ腕は落ちてないようだな。」
 昔から――道場で初めて会った時から、富隆は寂玖をいつも疎んだ目で見ていたのを知っている。
「お前は相変わらず剣に品がないな。」
 だが、富隆は表面上聞き分けのいい門弟を演じ続け、常に寂玖とは距離を置いていた。たまに寂玖の焼き魚が猫の餌にされていたり、寂玖の袴の股の部分にわさびが塗り込められていたことはあれど、決して正面から向き合うことはなかった。
「お前な…失礼にも程があるだろ。これでも一応、歴代春曲の中でも一、二を争う名技って言われてるんだぞっ。」
 だから、それが妬みであれ憎しみであれ、初めて真正面から感情をぶつけられたことは、嬉しくさえあった。嫌われていても、疎まれていても、富隆は寂玖にとって数少ない同世代の知り合いであり、切磋琢磨してきた相手であり、認めるに足る腕を持っていた。
「社交辞令も区別がつかぬとは、憐れで低俗な奴。
 ――やはりお前に春曲の当主は相応しくないっ!!」
 幾度目か刃を交わらせ、吼えた富隆が一際鋭く刀を振り上げ――
――っ……」
 しかし途中で足を止めると、素早く刀をしまい――ごくごく自然な素振りで襟元を正した。人が近づいてきていることに気づいたからだ。
 勿論それに気づかない寂玖ではない。寂玖もまた、緊張を解いて刀を下ろしていた。
 そうして二人は草履の音のする方に然り気無い視線を向けた。
――こんなところで果たし合いですか?」
 その通行人はこちらに歩み寄りながらも、そう言って首を傾げた。
 それは、二人同様の袴姿で腰に大小を差した凛とした居住まいの――だが娘であった。
 彼女は足を止めると寂玖を見て腰に手を当て、小さく息を吐く。
「…兄上。人通りがないとはいえ、こんな狭い路地でなんて…。もう少し場所を選んで下さい。」
 それに寂玖は嘆息し、
「俺に言うな。そいつに言え、そいつに。」
 不服そうに指を差した先にいた富隆は、突如目にも止まらぬ速さで歩いてきたかと思えば、ガッと寂玖の首を腕で抱え込んだ。
「お、おいっ。今『兄上』と聞こえたが、まさかあの方が…!?」
 耳元で言いながら、富隆が寂玖越しにちらりと妹・真珠を盗み見た。
「……ああ。」
 昔から真珠の父・信久は真珠を人目から避けていた。
 それについて信久から何か言われたことはなかったが、寂玖もまた、信久の意を汲み、真珠を極力表に出さないようにしてきた。
 だから、寂玖が春曲家に来るよりも前から道場に通っていた富隆ですら、真珠とは未だに面識はなかった。
「…はっ!! まさか嘘偽りで俺を謀る気か…!?
 だがこんな安易な罠になどっ…」
「そんなことするかっ。」
 そう言った途端、富隆は目を剥いて寂玖の襟首を掴み上げた。
「信久様に全然似てないぞ!」
「知らねえよ! じゃあ母親似なんだろ!」
 何故か珍しく冷静さを欠く富隆に、面倒臭そうに適当に返す寂玖。
「…あれ? 果たし合いはもう終わりですか?」
 こそこそと話し合う二人を真珠が覗き込むと、富隆は弾かれたように距離を取った。
「う… うぅ……!?」
 そして、何故か真っ赤に染まった顔を片手で押さえつつ、寂玖に向かって何か言いたげにぱくぱくと口を動かし――
 しかし結局声は出ず、悔しそうに顔を歪ませると――
 富隆は一目散に走り去っていった。それはもう凄まじい勢いで。
「……ええ!?」
「…………」
 その光景に、真珠は一拍遅れて驚きの声を上げ、寂玖は顔を顰めた。
「…えっと… すみません、邪魔しちゃいましたか?私…。」
「……俺にもよくわからんが……まあ気にしなくていいだろう。
 まったく… なんだったんだ一体……。」
 暫し半眼で富隆の去っていった方角を見つめていた寂玖は、申し訳なさそうに見上げてくる真珠にパタパタと手を振りながら、もう片方の手で解放された首を擦った。
 ――が、ふと聞こえた烏の鳴き声にはっと顔を上げ、
「!?」
 茜色に染まり始めた空を見て愕然とした。
 既に結構な陽が傾いていた。もう町人の多くは帰路に就く時間帯であった。お紅も夕餉の支度で忙しくなる頃である。
「…………」
 橙に彩られた山々の合間を飛ぶ烏を呆然と眺めていた寂玖の手から、がしゃりと刀が落ちた。

 その夕暮れを、開け放った障子を背に同じく眺めている者がいた。
 女物の着物に、派手な打掛。長い髪の上半分をひとつに括り巻きつけたそこには――何を思ってか小さな風車が挿さっていた。
「…どうやら時間切れのようだな、春曲殿。」
 夕陽に染まった横顔が、ふっと笑む。
 そんな風に彼がひとり呟いていると、廊下から衣擦れの音が近づいてきた。
――(ひょう)様、新しいお茶をお持ちしました。」
 彼のもとへとやってきたのは、まだ若い娘であった。この家――霧月家の奉公人・紅である。
 彼女はすっと一礼して部屋に入ってくると、畳に膝を突いて座卓に湯飲みを置いた。
「…あと、多めにとお作りした分ですが… どこかにお持ちになるのかと思いましたので、お包みしておきました。」
「おお、相変わらず気が利くなお紅。じゃあ一緒にそこに置いておいてくれ。」
「はい。」
 頷いた彼女は湯飲みの横にそっとそれを置くと、もう少しで夕餉の支度が整いますので…と言い残して部屋を出ていった。
 その後ろ姿の、どうやら寂玖が贈ったものと思われる鼈甲の簪に目が留まる。
――春曲道場に届けて参りましょうか?」
 彼女と入れ替わるように音もなく現れた影があった。
 身なりは商人そのものであったが、鋭くも冷静さ漂う雰囲気が、どうもそれとは似つかわしくない男であった。
 座卓の前に正座した彼は、丁寧に熊笹にくるまれ藺草(いぐさ)で括られたそれを視線で指した。
佐介(さすけ)、戻ったか。」
「はい、たった今し方。」
――なんなら俺が行きますよ。丁度出る準備をしたところですし。」
 と、今度はいつの間にか兵の側に片膝を突いていた影が言う。
 こちらは黒装束に身を包んでおり、頭に黒頭巾、顔に黒布と、言葉通り影と呼ぶに相応しかったが、声・体格から若い男だと言うことだけは判った。
「いや、それには及ばない。」
 立ち上がった兵は座卓までやってきて、佐介の向かいに腰を下ろした。
佑介(うすけ)も座れ。」
 兵はそう言いながら、店に並んだ商品さながらのそれを解いていく。
「……よろしいので?」
「ああ。俺の腹に余裕があるからな。」
 少し驚いた声で訊ねる佐介に、兵はにっと含みのある笑みを浮かべながら、取り出した串団子のひとつを差し出した。
「お、食べちゃうんですか?若。
 丁度俺も一本じゃ食べ足りなかったところだったんですよ。」
 反対に、佑介はむしろ嬉々として黒い覆面を下ろすと、同じく手渡された団子を早速頬張った。
 既に兵も躊躇いなく団子に口をつけている。
「…………」
 佐介はそんな無慈悲な光景を見、次いで自分の手元に視線を落とす。
 見るからにもちもちとした弾力を感じさせる輝きを放つ、四つ玉の団子。
 適度な歯ごたえを演出するためにざっくりと刻まれた、こぼれんばかりに盛られた美しい緑のずんだ餡。
「…………」
 これを心底楽しみにしていたであろう春曲の当主に同情の念を抱きつつ――
 だがそれも止む無しと、やはり無慈悲に団子を頬張る佐介であった。