【番外編】 褒美には至高の品を

 寂玖は目の前に座る男を半眼で見つめていた。
 着流(きながし)の上から纏う花魁並みに派手な打掛。
 長い髪の上半分をいくつもの簪でひとつにまとめ、そこから生えるいくつもの鳥の羽根。
 そして、お紅お手製の串団子に惜しげもなく手を伸ばすその男を。
「……ん? なんだ?春曲殿。」
 視線に気づいたその男は、茶を仰ぎながら訊ねてくる。
「別に…。というかだな。いつもいつも用もなくふらりと現れやがって。一体何がしたいんだ、お前は。」
「用がないとは失礼だな春曲殿。貴殿とお紅が健やかに過ごしているかと気にかけてやってきたというのに。」
「…大きなお世話だ。」
 寂玖は唇を尖らせながらそっぽを向く。
「相変わらずつれないな春曲殿。貴殿とて散々先も触れずにふらりふらりと我が屋敷に来ていただろう。」
 そう言って霧月家の歌舞き次男・兵衛門之助は口の端に笑みを浮かべた。
 それと引き換えに寂玖が小さく呻く。
 確かに寂玖自身も端から見て同様のことをしていたことは事実だ。
 だがそれはお紅に会いたかったからで。
 でも刺客に付け狙われていたり、春曲家の立場上あまり大っぴらに通えなくて、次はいつ行くとも言えなくて。
 それらの事情を全て知った上で、そんなことを言ってくるのだ、この男は。
「…すまない、今のは少々意地悪だったな。」
 何も言えないまま恨めしそうに見返す寂玖に小さく吹き出し苦笑する。
「最近特にすることもなくてな。
 我が霧月家が平穏無事であるということなのだが……。
 まぁそういうわけで、たまの訪問くらいは許してやってほしい。」
「…………」
 兵は笑みと共に軽くそう言い放ったが、寂玖にはその言葉が重く響いて聞こえた。
 確かに最近の兵は、別邸や本邸を行ったり来たりしていたり、ふらりと数日家を空けたりを繰り返していると聞く。
 母親の最期を見届けるというひとつの役目を終え、目的を見失っているのではないだろうか。
――時に春曲殿。」
 呼ばれて目の前の男に意識を戻す。
「…なんだ。」
「お紅とはどこまで進んだかな?」
 ぶぴゅーっ。
 寂玖は丁度口に含んだばかりの茶を盛大に吹き出した。
「げ、げふっ、ごふっ…! な…っ、な…っ!? ど、どこまで……!?」
 兵が頷く。
「婚儀がまだとはいえ、一緒に住み始めて早十日。心ときめくあれこれもあろう?」
「あ、あったとしてもだ! お前にそんなこと教えるかっ!!」
「……ふむ。」
 慌てふためきながら口元の茶を拭う寂玖とは対照的に、兵は小さくそう呟きながら落ち着いた動作で自分の顎に手を当てた。
 その彼の視線がまた、寂玖へと戻ってくる。
「春曲殿。手合わせをしないか?」
「て、手合わせ?」
 まだ赤みの残る顔で、今度は何を言い出すのかと警戒しながら寂玖が兵を見る。
「そうだ。だがただ手合わせするのでは面白くあるまい。賭をしよう。
 ……そうだな、賭けるのは……」
 兵の口の端にまた笑みが浮く。
「お紅との接吻にしよう。」
「……なっ!?」
 一瞬の硬直後、寂玖は顔を真っ赤に染めてばんっと畳を叩いた。
「ふざけるなっ! な、なんで俺がお前と、お紅の…、そ、そのっ、せ、せせせせせっ…を取り合わなきゃならないんだっ!」
「大義名分を作ってやると言ってるんだ。どうせ貴殿とお紅のことだ、口づけすらまだなのだろう?」
「う、うるさいっ! ともかく俺はしないぞ、そんな賭!!」
「接吻だけじゃご不満か。意外と欲深いな。」
「そそそそそそういうことを言ってるんじゃない!」
 兵は瞬いて小首を傾ぐ。
「なら問題ないじゃないか。」
「ある!! 俺はお紅を賭の対象になんて――
「そう思うのなら春曲殿が勝って何もしなければいいだけの話。」
 兵は一方的にそう言いながら立ち上がり、襖に手を伸ばす。
 だが兵の指先が取っ手に届くより早く襖が開く。
「…兵様。」
 お紅は目の前にいた兵をきょとんと見上げ、そこから首を傾げた。
「新しいお茶をお持ちしたのですが… もうお帰りに?」
「お紅、丁度良かった。」
 兵はお紅の持っていた盆に並ぶ湯飲みのひとつを取り上げて一気に仰ぎ、また盆へと返す。
「春曲殿とこれから手合わせをすることになってな。お紅も立会人として来てくれ。」
「わかりました。そういうことならご同席致します。」
 お紅は頷いて畳の上に盆を置いた。
 それに寂玖も立ち上がる。
「待て兵衛! 俺はまだやるとは…!」
「では俺の不戦勝だな。」
「……?」
 にっと笑いながら廊下に出た兵は、焦る寂玖に不思議そうな表情をするお紅の手を引いて歩いていってしまう。
「こ、こら待て!!」
 寂玖は慌てて二人の後を追った。

「だーもう!わかったから放せ!」
 追い付いた寂玖が兵からお紅を取り戻す。
 そうして小さく息を吐く寂玖を見て、お紅も同様に吐息を漏らした。
「…また寂玖様を困らせるような条件でもつけたのですか?兵様。」
「誤解だな。」
 それに笑いながら、前を歩く兵が肩越しに答える。
「春曲殿のそれは照れ隠しだよ。内心ではとっとと俺を打ち負かしてやりたいと息巻いているはずだ。
 なんと言っても今回の手合わせ、勝者にはご褒美があるからな。」
 兵の言葉にお紅が「そうなのですか?」という類いの視線で見上げてくる。
 その『ご褒美』に見つめられて思わず寂玖が赤面すると、兵の言葉に納得してしまったようで、「頑張って下さいね」と微笑まれてしまった。
 これで完全に後には退けなくなった。
「お紅。モノのついでに少しくらい兄の応援をしてくれてもバチは当たらないぞ。」
「はあ!? 何が兄だ! もう他人だろうが!」
 お紅が何かを口にするより早く抗議する寂玖を見て兵が嘆息する。
「まったく春曲殿は心が狭い。兄上様という呼称、なかなか気に入っていたというのに。」
 お紅が春曲家に嫁ぐにあたり、寂玖の強い要望でお紅の養女話はなかったことになったのだ。
「まぁ当家としては、もとより一時的なもので正式な養女とはしていなかったからなんら問題はないが…」
 そこまで言って兵は残念そうな表情で首を振る。
「もう兄上様と呼んでもらえないのは至極心残りだ…。」
「うるさいっ! 元々他人なのに一時でも呼んでもらえただけありがたいと思え!」
 そんな二人のいつもの言い争いをお紅は微笑ましげに見守っている。
 そうこうしている間に三人は道場に着いた。
「…俺を無理矢理引きずり出したこと、後悔させてやる。」
「それは楽しみだな。」
 各々壁に掛けられていた木刀を手に、寂玖は奥へ、兵はその手前へと場所を移動する。
 お紅は彼等が見える位置に立った。
 両者が音もなく刀を構え――しんと静寂が落ちる。
「…ではゆくぞ、春曲殿。」
 静かな声と共に兵が動く。
 初めはゆっくりと、徐々に速度を上げて間合いを詰め、小さく呼吸を吐きながら一閃。寂玖は足捌きでこれをよける。
 兵はそこから更に踏み込み刀を返すが、これもよけられる。
 そのまま後退して距離を取る寂玖に追い縋り、追撃。
 それを受け止めた寂玖は、一瞬の鍔迫り合いで弾き返す。
「っ!!」
 軸をずらされて慌てて体勢を立て直す兵に寂玖が刀を振るう。
 すんでのところでなんとかそれをかわし、距離を取ろうとするが――
 続く一太刀を鍔元に入れられ、兵の刀が手からこぼれた。
 そこから木刀の切っ先を喉元に突き付けられ、
「……参った。」
 兵は小さく両手を上げた。
「……ふん。」
 寂玖はそれに応じて刀を収める。
「基本は押さえられているようだが、間合いに慣れきれてない。圧倒的に刀を振り足りてない証拠だな。
 お前なら……そうだな、毎日素振り三千は振れ。」
「…流石は春曲先生、これだけでお見通しとは。ご指南痛み入る。」
 苦笑しながら木刀を拾っていると、寂玖がふいに背を向けて歩き出した。
 そして木製の長刀を壁から取り上げ、兵へと投げる。
「手応えがなくて肩慣らしにもならん。それでやれ。」
 兵は無愛想に言い放つ寂玖を見つめ返してから、ふっと小さく口元に笑みを浮かべ――
「それは申し訳なかった、春曲殿。次はこれでお相手致そう。」
 いつもの不敵な笑みでそう言った。

 兵はすっと片足を引いて半身に構える。
 その姿にお紅は目を瞠る。
 素人の彼女でもわかるほど、先程とは雰囲気が違う。
 長刀を構える兵の方が"しっくりくる"といったところか。
「…ふん。」
 鼻を鳴らす寂玖の口元は、僅かに笑んで見えた。
「上等だ。どこからでもかかってこい、兵衛。」
「…ならばお言葉に甘えて。」
 長刀の切っ先がくんと上を向く。
「いざ、参る!」
 歓喜にも似た掛け声と共に、兵が床を蹴る。
 寂玖は第一刀をよけて攻撃に転ずるが、兵はこれを柄で受け、その反動を利用して先程よりも加速した攻撃を繰り出す。
 身を退く寂玖に向かって更に柄の方を振るうがそれは刀に止められ、続けて刃の側を繰り出すが同様に止められる。が、そこから刀の上を滑らせるようにして突きの攻撃に切り換える。
 寂玖は一旦刀を引き全身を回転させて一閃。
 カッという音を立ててふたつの得物が交錯する。
 だがそれも一瞬で、二人は同時に距離を取り、また同時に床を蹴った。
 先手を取ったのは寂玖だった。激しい連撃を多方向から縦横無尽に繰り出す。
 兵はそれを、柄を器用に使い、角度を変え、遠心力を利用して捌き切り、細く鋭く呼吸を吐きながら下から上へと掬い上げる。
 寂玖はその大きく弧を描く切っ先を紙一重でよけ、
「!?」
 兵の視界から寂玖が消える。
 瞬間、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
「くっ…そこか!?」
 咄嗟に振り向きながら構えた長刀に強烈な衝撃が伝う。
 寂玖はそこから更に一歩二歩と目にも止まらぬ足運びで回り込み、
「っ…」
 兵が長刀を振り上げた時には、既に喉笛に木刀の切っ先があった。
「……参った。」
 硬直を解いて肩を竦めると、寂玖も刀を引いた。
 そうして漸く、道場の張り詰めていた空気が溶けていく。
――お疲れ様でした。とても見応えのある素晴らしい手合わせでした。」
 二人の下にお紅がやってくる。
 兵はふぅと息を吐いてから顔をそちらに向ける。
「それはよかった。…ああ、お紅。」
「はい。」
「もう少し近くへ。」
「?」
 手招きした兵は、呼ばれて二人の間までやってきたお紅の両肩を掴み、くるりと寂玖の方に向かせる。
「おめでとう春曲殿。さぁ褒美だ、受け取ってくれ。」
 目の前にお紅を差し出され――寂玖が赤面する。
「…え? あの… 褒美とは…?」
 その様子に、経緯を知らないお紅は戸惑いの表情で肩越しに兵を振り返る。
「実は、春曲殿が勝利したら褒美にお紅の接吻をやるという約束だったんだ。」
「え…っ」
 その言葉に、今度はお紅が赤面する。
「最初は手合わせを拒んでいたのだが、そう言った途端に俄然やる気が出たようでな。」
「な…!? 何勝手なことをベラベラと…っ!」
 寂玖の抗議に、兵は一瞬にっと笑みを浮かべただけで言葉を続ける。
「とまぁそんなわけで、あんなに嫌がっていた手合わせをお紅のために頑張ったのだ。しっかり労ってあげるといい。」
 そう言って掴んでいた両手でぽんぽんとお紅の肩を叩き、兵はくるりと身を翻す。
「では、俺は先に母屋に戻っている。」
「ま、待てコラ兵衛…!」
 寂玖の声にも足を止めず片手をひらひらと振りながら、その後ろ姿は道場の外へと消えていった。
「…………」
「…………」
 赤面した顔を伏せた二人の間に沈黙が漂う。
 だがややあって、意を決した寂玖が顔を上げた。
「あっ、あのな、お紅。」
「は、はいっ。」
 視線が噛み合い、二人はまた同時に顔を伏せる。
「…わ、悪かったな、褒美だなんだと、物扱いするようなこと…。」
「い、いえ… 気にしていませんので…。」
「…………」
「…………」
 ゆっくりと、だが控えめに――寂玖は再び顔を上げる。
「…そ、その… さっき兵衛門之助が言ったことは気にしないでいいからな。ま、まったくあいつにはホント困ったもんだな。いつもいつもいい加減なことばかり言いやがって…。」
 それにお紅は上目使いに寂玖を見上げる。
「…あの…、そのことについてなのですが……」
 そう言いながらまた顔を伏せる。
 何やら呟いているようだが、よく聞こえない。
「ど、どうした?お紅。そんなに嫌だったのなら、俺があいつに文句言ってやるぞ!?」
 慌ててお紅の傍まで駆け寄り、耳を傾けようとして――
 頬に何かが触れた。
「……へ?」
 反射的にその場所に手を当てて間の抜けた声を出す。
 お紅はというと、頬を染めながら幸せそうに瞳を潤ませていた。
「…以前、兵様が教えて下さったのです。異国では、家族や友人間でも親しさを込めてこのように挨拶したりするのだと。」
 そして、少し恥ずかしそうにしながら微笑む。
「婚儀はまだですから、これでお許し下さいませ。」
 そう言うと、すぐにくるりと踵を返し、
「で、では、私は夕餉の支度に取りかかりますね。」
 足早に出ていってしまった。
「……お紅……」
 その光景を見守りながら、我知らず愛しい名を呟く。
 胸はずっと高鳴ったままだ。
「………」
 暫く頬に手を当てたまま彼女の去った方を眺め呆けていた寂玖だったが、ふと、先程のお紅の言葉が脳裏をよぎる。
――兵様が教えて下さったのです――
「……まさか……」
 瞬時にして我に返った寂玖は眉をつり上げ、
「兵衛ー!! きーさーまーあぁぁぁぁッ!! まさかまたお紅に妙な真似をーっ!!」
 母屋にいるはずの兵に向けて叫び、どすどすとけたたましい足音を鳴らしながら彼も道場を後にしたのだった。

 ひとり先に部屋に戻った兵は、腰を下ろすと長い脚を投げ出して畳の上に仰向けに寝転がった。
 そうして片腕で両の目を覆う。
「……参ったな……」
 唇からため息混じりの呟きがこぼれる。
 黒い視界に映し出される、先程の打ち合い風景。
 鮮烈に思い出す、あの胸踊るほど昂ぶる緊迫感。
「……春曲を敵に回したくなる気持ちが、少しわかってしまったよ……。」
 静かに呟くその口元には、いつもの笑みが浮かんでいた。

 それは、寂玖とお紅の婚儀を数日後に控えたある日の出来事であった。