刃には一輪の…

 天井が、見える――

 ひどくぼやけた視界いっぱいに広がっている、天井。
 焦点が合わせられず、視界はそこから動かない。
「…………」
 確か…俺は……
 刺客に襲われて――
 そこでまた思考が鈍くなる。
 それから、どうしたか。
 ……ああ、そうだ……お(こう)や長屋の住人達に助けられて……
 そこまで至ってふと、視界に現れた人影に気づく。
 色や輪郭が随分と曖昧ではあったが、それが誰かはすぐにわかった。
 ……お紅……
 先程よりも少しだけ、焦点が合う。
 お紅は泣いていた。
 泣きながら、何かを叫んでいるようだった。
「……! ……っ!」
 お紅……?
 彼女は見たことのない表情で必死に叫んでいる。その反動でまた、瞳からいくつかの滴がこぼれ落ちた。
「…ど…した…」
 寂玖(さびく)は石のように重い手を持ち上げ、
「…なく…な…」
 涙に濡れた頬に伸ばそうとする。
――さま…! 寂玖様…!!」
 やっとお紅の声が耳に届き始める。
 お紅は寂玖の手を両手で包み、自分の頬に寄せると漸く微笑んだ。
「……寂玖様……よかった……!」
 寂玖の体温を確認するようにぎゅっと握り締め、瞳を閉じる。
 そうして暫くしてからゆっくりと寂玖の手を布団の上まで下ろした。
 笑顔になったお紅に安堵し――漸く見えてくる全景。
 そこは見たことのない部屋だった。
 襖に囲まれた部屋の中央に敷かれた布団。そこに寂玖は横たわっていた。
「……ここ…は……?」
 まだかすれの残る声を絞り出す。
「…ここは霧月(むつき)家別邸の一室にございます。」
 答えながらお紅は布団を掛け直してくれる。
「霧月…?」
 長屋ではないのか、と寂玖は思う。
――お紅? 何かあったか?」
 寂玖が頭に疑問符を浮かべていると、足音と共に声がして襖のひとつがすっと開いた。
 現れたのは、長身で派手な着物に身を包み、頭のそこかしこから鳥の羽根を生やした男だった。
 お紅はその時初めて自分が泣いていたことに気づいたらしく、着物の袖先で慌てて涙を拭ってから彼を振り仰ぐ。
「…兄上様、寂玖様がお目覚めに。」
「おぉ。」
 言われて彼はこちらまでやってきて、お紅の隣に腰を下ろす。
「気がついたか春曲(はるくま)殿。
 お紅の懸命な看病のお陰でなんとか一命をとりとめたはいいが、あまりに目を覚まさないから心配していたんだ。」
「兵…衛……?」
 寂玖は小首を傾げる。
「血まみれの貴殿を見つけた時は本当に驚いたぞ。
 …叔父上の話によれば、春曲殿を襲った奴は標的が必ずひとりで外を出歩いている時しか現れないらしい。
 この屋敷の警備も強化しているし、奴のことは気にせず、傷を治すことに専念するといい。もう少ししたら外出している真珠殿も戻って来るはずだ。」
「……?」
 話がいまいち飲み込めず、眉間に小さくシワを寄せる。
 何故お紅が静の息子と並んで座っている?
 何故俺はここに担ぎ込まれた?
 何故真珠がここに戻ってくる?
 霧に覆われているように記憶が曖昧で、前後がなかなか繋がらない。
 横になったままでは頭も回らないと思い、寂玖は片肘をついて起き上がろうとした。
「うぐ…っ!?」
「寂玖様!!」
 突如走った激しい痛みに動きを止められ、脇腹を押さえる。
 前からはお紅に、後ろからは(ひょう)に支えてもらってやっと、なんとか上体を起こすことができた。
「…まだ起き上がらない方がいいぞ、春曲殿。」
「あまり無理をなさらぬよう…。」
「……ああ……。」
 お紅は抱き抱えるようにしながら寂玖を支え続けてくれた。そうして辛うじてこの体勢を保っていられるという状態だった。
 なんという醜態か。
「……もう…大丈夫だ。」
 そう促すと、お紅はまだ心配そうにしながらも、そっと身を引いた。
 その横で兵が小さく息をついた。
「何はともあれ、春曲殿が目覚めてよかった。な、お紅。」
「はい。」
 二人はそう言うと意味ありげな視線を交わす。
「……お紅、そろそろ支度を。」
 言われてお紅はそれに頷き――ゆっくりと、寂玖に向き直る。
 その眼差しがひどく静かすぎて。
 寂玖は思わず顔を顰めた。
「……最後にお話できてよかったです。」
「最後…?」
 呟くようにそう言うと、お紅は指先を前に突き、
「寂玖様。今までお世話になりました。」
 一部の乱れもない所作で頭を下げ――そして微笑んだ。
 全身にぞくりとした感覚が走る。
 お紅の笑顔の中に潜む、違和感。
 それに呼び戻される記憶。
 お紅が長屋を離れて霧月の家の女中として奉公し始めたこと。
 家と道場を失って旅に出たこと。
 その先でお紅に会ったこと。
 お紅が暁家の養女となる身であること。
 お紅を追っている途中で影時に襲われたこと。
 ばらばらに散らばっていた記憶が急速に繋がっていく。
 そして、そこで初めて、この違和感の正体に気づく。

 お紅は無理して微笑ってるんだ…。

 きっと兵衛はこのことに気づいてない。
 気づいていながら養女話を進める男ではないはずだ。
 いや――
 恐らくお紅自身ですら、それに気づいてない。
 変わらぬ笑顔の裏に潜むそんなほんの些細な変化に、寂玖は気づいた。
 お紅はこれから養女となるべく暁家へと身を移そうとしているのだろう。
 そしたら、お紅はずっと、この笑顔のまま――
 身の毛が弥立つ。

 そんなのは嫌だ。
 そんなことは、させない。

――寂玖様は完治されるまでこちらでごゆるりと静養なさって下さいませ。」
 お紅はそれだけ言い足すと、では、と立ち上がろうとする。
 引き留める言葉を探す間すら惜しみ、痛みが走るのも構わずに――寂玖はお紅の腕を掴んだ。
「あっ…」
 無理矢理引き寄せられ、お紅は勢いよく寂玖に体当たりする形となった。
「も、申し訳ございません。今どきますので――
 突然のことに何をされたのかわからないまま、怪我人である寂玖を気遣い反射的に立ち上がろうとし――
「……あの……、寂玖…様……?」
 動かない体に漸く自分の状況を理解したのだろう。
 お紅は頬を染めながらか細い声でなんとかそう呟いた。
 寂玖の腕の中で。
「…………」
「…………」
 沈黙が落ちる。
「……さびく…さま……?」
 いつまで経っても微動だにしない寂玖にお紅がもう一度困惑の声を上げると、それまで黙って事を見守っていた兵が仕方なさそうに動いた。
「…春曲殿、お紅が困っているぞ。そろそろ放してやってはくれまいか。」
 肩に手を載せて促してくる兵に、寂玖はお紅を放すどころか、更に強くお紅を抱き締める。
「…っ!?」
 お紅は更に頬を赤く染め、緊張に身を固くする。
 そんな様子に兵は小さくため息を漏らしてから、
「…春曲殿。」
 少し語調を強めて寂玖の肩に置いていた手に力を込めてくる。
――嫌だね。」
 それに寂玖は動かないままきっぱりと言い切った。
「春曲殿。」
 諫めるようにもう一度名を呼ぶ兵に、寂玖は鋭い視線だけをよこす。
「嫌だね。お前達にお紅は渡さない。」
 そう言い放ち、眼光で牽制した。
 それに兵が肩を竦めながら身を引いたことを横目で確認し、寂玖は腕の中の少女に視線を戻した。
「……お紅。」
 ふっと微かな息を吐き、静かに語り掛ける。
「俺は…お紅の笑顔が好きだ…。」
 あの心和む、柔らかく優しい微笑み。
 寂玖はそっとお紅の襟元に顔をうずめる。
「俺はお紅の笑顔をずっと隣で見ていたい。」
 こんな顔など、もうさせたりはしない。
 お紅の香がふんわりと寂玖の鼻腔を撫でていく。
 そして、その一言は自然と口を突いて出た。

「俺と夫婦(めおと)になってくれ。」

――佐介さん。」
 盆を手に歩いてきたお紅は、縁側まで出ると庭に向けて声を掛ける。すると、木の枝に跨がり剪定をしていた男が振り返った。
「そろそろ休憩になさいませんか。」
「それでは、お言葉に甘えて。」
 庭師は呼び掛けに応えて軽い身のこなしで木から降り、お紅のいる縁側に腰を掛けた。
「今日は豆大福を作ってみました。お口に合うと良いのですが。」
「紅様の作る菓子はどれもこれも美味ですよ。毎回これが楽しみで仕事をしているようなものです。」
「そう言って戴けると嬉しいです。」
 お紅は笑みをこぼしながら、佐介に手拭きと湯飲みと豆大福の載った盆を差し出した。
――あの桜……」
 お紅は豆大福を口に運ぶ佐介から庭に視線を移す。
「佐介さんが手入れをして下さるようになってから、この界隈でも一等見事な花をつけると近所の方々からも評判で、今では春の名物になっているのですよ。」
「それは嬉しゅうございます。では、次はあの桃の木を名物にしてみせましょう。」
 お紅に倣って葉桜を見上げていた佐介の視線が、先程彼が剪定していた木々を指し示す。
「まぁ、それは楽しみです。」
――おっと。」
 そんな会話を交わしているとふいに佐介が声を上げ、湯飲みをぐいっと飲み干す。
「どうやら旦那様がお戻りになられたようです。…では、某はこれにて。」
「もっとゆっくりなさっても…」
「いやいや、旦那様とのお時間の邪魔をするわけには参りませんから。豆大福、ご馳走様でした。」
 佐介は一礼してにこっと笑い、庭から門の方へと歩いていった。
 その姿が屋敷の陰に消えるのと入れ替わるように足音が近づいてくる。
「…今戻った。」
 声と共に寂玖が現れ、お紅は正座の向きを変える。
「お帰りなさいませ。都は如何でしたか?」
「平和なもんだ。いつものように酔っ払いがじゃれていたくらいだな。……今日は佐介が来ていたのか。」
 縁側にいるお紅と彼女が手にしている空の盆を目に留めてそう訊ねてくる。
「はい。桜が評判となっているとお伝えしたら、次は桃の木を名物にしてみせると仰っておりました。」
「…そうか。」
 寂玖はお紅の隣までやってきて腰を下ろす。
「じゃあ、見事な花をつけたらまた花見だな。」
「はい。真珠様や若様、姫様もお呼びしなくては。」
 お紅は両手を前で合わせて嬉しそうにする。
 ちなみに真珠は今、諸星城にて住み込みで花嫁修行をしていた。
 麗奈が良いお手本となってくれているようで、毎回寂玖の下に楽しげな文が届いている。
――その折りには美味しいお団子をお作り致しますね。」
「ああ、頼む。」
 そう言って二人は微笑んだ。
 庭から聞こえてくる鳥の囀りが静かな春曲邸に心地よく響く。
 淡い陽射しの降り注ぐ縁側で、二人は見つめ合っていた。
「……お紅……」
 寂玖がそっと手を伸ばし――かけたところで、外が騒がしくなる。
「……? 若様でしょうか。少々お早いようですが……」
「…………」
 門の方角を見つめて首を傾げるお紅の隣で、寂玖は不機嫌に眉を寄せた。
 二人が見つめる先から現れたのは、寂玖に負けず劣らずの身の丈を誇る男であった。
「兵様!」
「お紅、元気にしてたか。」
 軽い挨拶をしながら躊躇いなくお紅に向かってくる兵に寂玖が立ちはだかる。
「先も触れずに何しにきやがった。」
 行く手を阻まれて立ち止まった兵は、変わらぬ笑みだけでそれに応える。
 いつもはその睨み合い程度で一旦身を退く寂玖であったが、今日は退きもせず、更にそこから眉をつり上げた。
「……寂玖様……?」
 普段とは違う空気を纏う寂玖を、お紅は不思議そうに見上げた。
「駕籠の音、複数の従者の声… 一体誰を連れてきた。兵衛…何を考えている?」
 寂玖がこれでもかというほどの殺気を込めて睨むと、兵は肩を竦めた。
「…やはり春曲殿にはお見通しか。」
 そう言って下げていた片手を軽く持ち上げると、そこからひょこっと小さな子供の顔が覗いた。
 それに真っ先に驚きの声を上げたのはお紅だった。
「鶴千代丸様!?」
「お紅~っ!」
 兵の脚にしがみついていたその子供は、呼ばれてお紅に飛び付いた。
 そして必死の形相で彼女を見上げる。
「ひどいではないかひどいではないかっ! そなたに会いに兵衛門之助の家まで訪ねたら、よ、よりにもよって、この…っ! こんな野蛮な熊と一緒に住んでいると言われ…っ!! し、しかも、こやつの妻になど…っ!!!」
 金の糸が織り込まれた着物と袴に身を包んだ彼は、お紅の胸に顔を擦り付ける。
「その野蛮な熊をお紅は選んだわけですが。」
 兵がぽそりと一言添えると、鶴千代丸はお紅にしがみついたままキッと兵を睨む。
「そなたの伯父、暁も暁じゃ! 折角この野蛮な熊から奪い取ったこの屋敷を、この野蛮な熊に返してしまうなどっ!」
 叫びながら熊こと寂玖を、後ろ手で突くように何度も指し示す。
「お言葉ではございますが上様。この屋敷と道場は春曲殿に返還したわけではなくお紅に与えたのです。それに伯父からは、奪ったものは上様より褒美として与えるから好きにせよと賜ったものだと聞いております。」
「えぇい黙れ黙れ黙れ!!」
 鶴千代丸は声を荒げて立ち上がると、正座しているお紅の肩を両手で掴んだ。
「お紅! 今すぐ余のところに来るのじゃ! こんな熊共に囲まれて過ごさずとも、わしが養ってやる! わしの正室になるのじゃ!」
「くぉら小僧! お紅から離れろ!」
 痺れを切らせた寂玖が鶴千代丸を引き離す。
「何をするこの無礼者め! 手打ちに致すぞ!!」
 首根っこを捕まれて空中で手足をじたばたとさせる鶴千代丸にふんっと鼻を鳴らし、寂玖は手を放した。
「痛っ!? …や…野蛮な熊め…数々の無礼、もう許せん!! やはりそなたは死ぬまでわからぬようじゃな!
 今度こそ息の根を止めてくれようぞ! 次々と襲い来る刺客に怯えながら死ぬまで眠れぬ夜を過ごすがいいわ!」
 打った尻を擦りながら寂玖を睨み叫ぶ鶴千代丸の言葉に、兵は小さなため息を漏らす。
「それではお紅も眠れぬ夜を過ごすことになりますよ。」
 鶴千代丸はびしっと寂玖を指差した格好のまま、横手からの一言にうぐっと言葉を詰まらせる。
「それに、春曲殿にもしものことがあれば、悲しむのは妻であるお紅です。」
 更に畳み掛けられ、うぐぐぐと唇を噛んだ。
――鶴千代丸様。」
 そして、背後から掛けられた静かな声にびくりと小さな身を震わせ――恐る恐る振り向く。
「…お紅…?」
 彼女は珍しく険しい顔をしていた。
 鶴千代丸は打って変わって怯えた表情になる。
「…鶴千代丸様。上に立つ方がそのようなことを、冗談でも申してはなりません。寂玖様もあなた様の守るべき民なのですよ。」
 少し強い語調で言われて鶴千代丸の顔が歪む。
「じゃ、じゃが、こやつは…っ!」
 必死に訴えようとするが、お紅の表情は変わらない。
「う…、うぅ…。ごめん…なさいっ…。うぇ… うぇぇぇぇん!」
 鶴千代丸は暫く涙を溜めていたが、堪えきれずに泣き叫んだ。
「……鶴千代丸様。」
 お紅はその小さな体をそっと抱き寄せ、頭を撫でる。
「民を大事にしていれば、必ずや民もあなた様の期待に応えてくれるようになりましょう。ですから、そのような乱暴な考えは持ってはなりませんよ。」
「うっ、はい… うっ…、えっぐ…、お、お紅~っ。」
「男がめそめそ泣くな!」
 寂玖はお紅の胸に顔をうずめていた鶴千代丸の首根っこをひっ掴み、再びべりりと引き剥がす。
「う~! 放せ~!」
 鶴千代丸は宙吊りになりながら涙を振り撒いている。
「寂玖様、あまり手荒なことは…。」
「そうだぞ春曲殿。」
 苦笑しながら止めに入るお紅に、兵も歩み出てきてこっそりと耳打ちする。
「…どうやらお紅は亡き大御台所様に雰囲気が似ているらしいのだ。少しは大目に見てやってくれ。」
「…………」
 まだ不服そうにする寂玖に、それに、と兵が言葉を足してくる。
「春曲殿も同じような境遇だから少しは上様の気持ちも理解できよう?
 いつも我が邸に来ては、静、静と…」
「だっ…!? あ、あれはっ……!」
「?」
 会話の内容が聞こえなかったお紅の不思議そうな視線に気づき、叫びかけた寂玖は慌ててこほんと咳払いしてじたばたしていた鶴千代丸を降ろしてやった。
――師匠(せんせい)!」
 ふいに明るい声が響き、寂玖達の視線がその主に集まる。
 見れば、縁側から獅子が身を乗り出していた。
「師匠、皆揃いました!」
「…わかった。先に素振りを始めていてくれ。」
「はいっ!」
 寂玖の短い指示に元気よく応えた獅子は、素早く身を翻して道場の方へと消えていった。
 皆でその後ろ姿を見送り、
「……おい熊。」
「誰が熊だ。」
 呼ばれて寂玖は半眼で振り返る。
「今のは諸星の子息ではないか?」
「そうですよ。」
 鶴千代丸の問いには兵が答える。
「我が主・諸星家が嫡男・獅子若丸様にございます。」
 すると、彼は頬を膨らませて叫ぶ。
「道着姿で素振りがどうとか申しておったぞ!」
「ええ。お紅の提案で道場を再開することになったのです。」
 兵の言葉にお紅が頷く。
「寂玖様は大勢の方を指導するのに慣れておりませんし、まずは子供達限定での道場再開とさせて戴いたのです。」
「何ぃっ! どういうことじゃ熊! 門弟は取らぬと言っておったではないかっ!
 この余を…たった一言で…! 今門弟は取っていないから帰れと、その一言だけであしらったくせに…!!
 そのお陰で…わしは…わしは…大勢の家臣達の前で恥をかいたのじゃぞ!!」
 鶴千代丸の屈辱に歪む顔を面倒そうな顔で見返す寂玖。
「片っ端から門弟を破門している時にしゃしゃり出てくるからだろうが。あんなの断ってくれと言っているようなもんだろ。」
「まぁ断られない自信があったからしゃしゃり出て来たんだろうがな。」
「ムギーッ!」
 寂玖と兵の言葉に鶴千代丸が激昂して顔を赤くさせる。
「それなのに、また門弟を取り始めるとは何事じゃ! 余の断りもなく!」
「お前の兄貴には許可を取ったぞ。」
「む、むむむむ…っ!」
 鶴千代丸はなおも顔を赤くさせながら、しかしそれ以上言葉が出ずに唸る。そしてお紅の顔をちらりと見てから、表情を一転させて寂玖を見上げた。
「…わかった! ならば余も入門する! 今なら文句もなかろう!」
「はあ!? 入門も何も、そもそもお前には将軍家お抱えの指南役がいるだろうが! あいつに習え!」
 心底嫌そうな表情になる寂玖に鶴千代丸はふんと鼻を鳴らす。
「希望者には誰でも平等に剣術を教えるのが春曲流であろう? 折角余が門下に加わってやると言っているのじゃ。四の五の言わずにとっとと手続きの準備をせぬか。」
「いいからお前はおとなしく自分の指南役に習え。」
「な、なんじゃとぉ!?
 ふ…、ふふ…、ふふふ… 一度ならず二度までも余に…
 ならば兄上に言いつけてやる! 春曲は平等の誓いを破ったとな!」
「おーおー好きにしな。」
「良いではありませんか、寂玖様。」
「お紅っ!」
「お紅!?」
 睨み合っていた二人は、それぞれ希望の眼差しと驚きの表情でお紅を見た。
「剣術を通じて礼節を学ぶ――それが春曲の目指すところのはず。そうですよね、寂玖様。」
「…………」
 微笑まれ、寂玖は頭を掻いた。
 鶴千代丸は現将軍の末の弟で、周囲からかなり甘やかされて育てられていると聞く。藍堂もその点は案じているようだった。
 道場再開当時は様々な武家から陰口を叩かれ、入門した一部の上流階級の子供達が親の権力を笠に着て他の子供達と揉めたりもした。
 だが、兄弟子たる獅子の大らかな性格と誰にでも分け隔てなく接する姿に感化されて、自ずとそれは消滅。加えてお紅の優しく時に厳しい面倒見の良さも手伝い、親達から子供達が礼儀正しくなったと評価も上々。
 今では自分達の手に負えない娘息子は春曲に預けるべしという風潮になりつつあるくらいだった。
 だがここで将軍家の血縁者が門弟に加わるとなると、また一悶着も二悶着もあるだろうが……
 先程のお紅の言葉を思い出す。
「…………」
 寂玖自身も春曲に出会っていなければ今頃はどうなっていたかわからない。
 …まあ悶着騒動はいつものことかと結論付け、寂玖は小さく息を吐いた。
「……仕方ねえな……。」
 そう呟いた途端、鶴千代丸が表情を輝かせたが、
「ただし!」
 寂玖はそれを容赦なく睨み付ける。
「門下に入るからには言うことはちゃんと聞けよ。特別扱いは一切しないからな。」
「ふん、上等じゃ!」
 そう鼻で笑い飛ばすと、くるりと向きを変えてお紅の袖を掴む。
「待っていろお紅! いずれこの熊を打ち負かし、余が代わりに守ってやるぞ!」
「誰がお前に負けるか。」
「じゃが流石のわしとて一朝一夕とはいかぬであろう。」
「無視かコラ。」
「しかし安心するがいい! それまでの間はわしの擁する優秀な家臣達にこの屋敷を守らせるからな!」
 お紅は息巻く鶴千代丸に申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、そのお気持ちだけで十分にございます。」
 それに純粋に首を捻ってくる鶴千代丸。
「何故じゃ? この家は昼夜問わず狙われておるのだろう?」
「まあお前のよこした刺客が大半だったけどな。」
「わわっ! 馬鹿者!お紅の前で…っ!」
 鶴千代丸は慌てて寂玖の袴を引っ張り――
 ひきつった表情でぎぎぎぎっとお紅を振り返る。
 お紅はいつもの笑顔を湛えていたが、その周囲には冷風が吹き荒れていた。
――まぁそれはともかく、」
 表情を戻し、
「警護の件につきましては、お心遣いだけありがたく頂戴致します。」
 そう言ってお紅は少し哀しげな表情で微笑む。
「な、何故じゃ! 何故じゃ!」
「上様、お忘れですか?」
 必死にお紅の腕を掴んで揺する鶴千代丸の背後から、兵が言う。
「ここは春曲家。どこの家の誰の手も借りることは許されないのです。」
「あ…」
 小さな口から落胆の声が漏れ――鶴千代丸は肩を落とした。
 項垂れるその頭に、すこんと軽い音と衝撃が響く。
「あたっ!? な、何するか無礼者っ!」
 鶴千代丸が涙を浮かべながら顔を上げると、つまらなさそうな表情の寂玖が片手にげんこつを作った格好のまま目の前に立っていた。
「何ぼさっとしてる。さっさとこれに着替えろ。」
 寂玖はお紅の持ってきた真新しい道着を掴み、投げる。
「え……?」
「今日は体験入門だ。ほら、さっさと行くぞ。」
「鶴千代丸様、頑張って下さいね。」
 きょとんとしていた彼は、両腕に抱えた道着と踵を返す寂玖を交互に見つめ――
「うんっ!」
 嬉しそうに応えて寂玖の後を追って走っていった。
「……というか、なんでお前まで来る。」
「今日は上様の送り迎えを任されている。お側を離れるわけにはいかないのだ。折角だから俺も拝見させてもらおう。」
「来るな。邪魔だ。」
「のぅのぅ熊! 他にわしの知っている者はおるかの!?」
「だーもううるさいっ!引っ張るな!」
「ふふん、そのように偉そうな態度を取っていられるのも今のうち! すぐにぎゃふんと言わせてくれよう!」
「あーはいはいぎゃふんぎゃふん。」
「ムギーッ!!」
 賑やかに去っていく男三人の後ろ姿を見えなくなるまで見守ったお紅は、自らも仕事をすべく踵を返した。
 袖に襷を掛け、水の入った手桶と柄杓、それに雑巾を携えて屋敷を出る。
 道場からは既に寂玖の怒声が響いてきていた。
 それに足を止めて道場を振り返っていたお紅は、目を細めてから再び歩き出した。
 暖かな陽射しの下、門の外で水を撒く。
 一通り水を打ち終えると門の脇に手桶と柄杓を置き、今度は片手に雑巾を握る。
 お紅が見上げた視線の先にあるのは一枚の看板。
 力強く、かつ流麗な文字で『春曲道場』と書かれているその看板を見つめ、

 お紅は微笑んだ。

 おわり