純心には開かずの秘め事を

 (ひょう)はじっとお(こう)の反応を待っていた。
 春曲(はるくま)の歴史、寂玖(さびく)の立場。
 彼女はそれを知った上で、どんな反応を見せるのか。
「…………」
 暫くの後、ずっと黙って思案していたお紅が顔を上げた。
 そして、居住まいを正して膝の前で畳に両手を突く。
「お紅?」
「…兵様。折り入ってのお願いがございます。どうか紅のわがままをお聞き届け下さいませ。」
 凛とした眼差しを向けられて兵は頷く。
「お紅のわがままとは実に興味深いな。聞こう。」
 その言葉を受けて、お紅は一礼する。
「この紅を、霧月(むつき)家の養女にして戴きたいのです。」
「!……」
 瞠目する兵に構わずお紅は話を続ける。
「勿論、そのような器ではないことは百も承知致しております。必要な学や作法は全て身に付けます。ですから…何卒、殿のお耳に入れて戴きたく。」
「…………」
 兵は頭を垂れるお紅を静かに見下ろした。
「……お紅が何の考えも無しに言っているとは思わないが……
 やめた方がいい。お紅が霧月の一員となることに関しては、個人的には歓迎だが。
 武家の娘など、なって得するものでもない。いつ戦火に巻き込まれるかもわからないし、想う男と一緒になることも叶わないぞ。霧月のような小さな家ならなおさらだ。特にうちは姫がひとりもいないからな。」
「承知の上にございます。」
 思っていた以上にあっさりと返されて兵は瞬く。
――いえ、むしろ、紅の婚姻を利用して戴きたいのです。その代わり――というわけではありませんが、それに関しまして、要望がございます。」
「……聞こうじゃないか。」
「はい。」
 伏せられていた顔がすっと兵へ向けられる。
「相手の殿方は、できるだけ権力のある方、あるいは寂玖様を――春曲家を強く疎んでいる方、もしくはその両条件に該当する方にして戴きたいのです。」
 そこまで聞けば、お紅の真意も合点が行く。
 兵は自分の顎に手を掛けた。
「……なるほどな。春曲殿の助けになりたいと?」
「はい。」
 権力があれば、間接的に春曲家を支援することも可能になるだろう。
 春曲家を疎む一派に潜り込めれば、春曲に降りかかる災厄も軽減できるだろう。うまくすれば敵の数も減らせるかもしれない。
「ふむ…。だが、先程も述べた通り、権力のある家に嫁いでしまったら、春曲殿と言葉を交わすことはおろか、顔を合わせることも叶わなくなるかもしれないぞ。それでも?」
「はい。」
「…………。」
 迷いのない瞳を暫し見返した後、兵が口を開きかけ――
「霧月家の後ろ楯だけでよいのですかな?お紅殿。」
 声は全く別方向から聞こえてきた。
 二人は声の主へと――部屋の入口へと視線を向けた。
 そこに居たのは、お紅に霧月の奉公を薦めてくれた老人だった。
「お侍様……?」
「立ち聞きしてると、夜な夜な枕元で母上に小言を言われますよ、伯父上。」
「…えっ…」
 伯父と言う単語に兵を仰ぎ見たお紅は、改めてほんのりと笑みを浮かべている好々爺に視線を戻す。
「…あかつき…さま…!?」
 お紅はこの時初めて彼の正体に気付いた。
「春曲邸の前でお紅殿らしき姿をお見かけしたのでな。気になって訪ねてみただけのこと。静の小言だけは、切に勘弁願いたいものだ。」
 彼は是も否も言わずに部屋へと足を踏み入れ、兵のいた上座へと腰を下ろした。
「母上のお説教は長いですからね。」
 お紅の隣へと場所を移しながら兵が笑う。
 そして、さて…と呟いて、暁藍堂(らんどう)が改めてお紅に向いた。
「お紅殿。」
「は、はい。」
 きちんと居住まいを正して返事をするお紅に、藍堂はまたやんわりと微笑んだ。
「お紅殿の覚悟、しかと聞かせて戴き申した。そういうことであれば、この暁も協力致しましょう。」

 自分の襟を掴み上げていた手を乱暴に離してお紅達の元へと向かう寂玖の背中を眺めながら、兵は小さく呟く。

「…お紅は春曲殿を守るために本気になった。
 春曲殿は、どうかな…?」

 兵とお紅は部屋に戻るべく宿の廊下を歩いていた。
「どうだった? 春曲殿は褒めてくれたか?」
 問うとお紅は心から嬉しそうな表情になる。
「はい。腕を上げたなと言って下さいました。」
 それに兵も小さく微笑んだ。
 お紅は気づかれずとも寂玖の耳に少しでも届けばいいと言っていたが、寂玖はちゃんとお紅を見つけてくれたようだった。
 こんなに嬉しそうな顔もこれで見納めかもしれない。
 そう思いながら、兵はその笑顔を目に焼き付けるように見つめた。
 自分も藍堂も、お紅を養女に迎えることは本懐ではなかった。
 だが、お紅が一心にそう願うのなら、力になりたいと思った。
 されどもう少し冷静に考える時間も必要であろうと、養女となる条件として、少々難しい課題をいくつか出した。
 それをこなす数ヵ月の間で、やはり養女など嫌だと、寂玖に会えないのは嫌だと思い直すかもしれない。
 それならそれでいいと思っていた。
 しかし、思い直したのは自分達の方だった。
 お紅はあれよあれよという間に課題を修得していった。
 お紅は誰よりも冷静で、誰よりも真剣だったのだ。
「……本当にもういいのか?」
 その問いにも、お紅は変わらぬ笑みで答えた。
「はい。」

「おはようございます師匠!!!」
「ああ…。」
 朝一番には少々厳しい獅子の挨拶に耳を塞ぎながら、寂玖は弱々しく応える。
「おはようございます寂玖様。……真珠様は?」
 次いでやってきた麗奈が部屋を見渡して首を傾げる。
「朝稽古後の湯浴みに行った。もう暫くしたら戻ってくるだろう。」
「そうでしたか。」
 麗奈は頷きながら適当な場所に腰を下ろした。
 獅子はというと、座布団の上に胡座をかいて座る寂玖の目の前に腰を下ろしてじっと見上げている。
 寂玖は鬱陶しそうに顔を顰めた。
「……なんだ、獅子。」
「師匠… なんか不機嫌じゃありませんか?」
 その一言に眉がぴくりと動く。
「……別に機嫌が悪いわけじゃない。眠いだけだ。」
 昨夜の出来事があって、あまり寝れなかったのだ。
 しかしそのお陰で冷静に考える時間が持てた。
 ともかく、まずはちゃんとお紅に話を聞こう。
 もし何かに困り、仕方なく養女になるというのであれば、相談に乗ろう。
 もし養女となることを兵や藍堂に強要されているのであれば、力ずくでも止めさせる。
 だから暁の養女などにはならないでほしいと伝えよう。
 寂玖が新たにした想いを噛み締めている間に真珠が戻ってくる。
 獅子達と改めて朝の挨拶を済ませて今日の予定などを話していると、襖の向こうで幾つかの足音や物音がしてすっと襖が開かれ、その先で四人の給仕達が膳を両手に控えていた。
朝餉(あさげ)をお持ち致しました。」
「…獅子、霧月殿も呼んで差し上げなさい。」
「はいっ!」
 出ていこうとする獅子と入れ換わるように部屋に入ってくる給仕を見て、ふとあることに気づく。
「…膳は六人分のはずだが…。」
「えっ…」
 ぽつりと呟いた寂玖の言葉に給仕達は顔を見合わせたが、誰よりも先にその疑問に応えたのは、意外にも真珠であった。
 室内の全員の視線が彼女に注がれる。
「えっと…、兵衛門之助さんとお紅さんなら、もういないよ…?」
「……なっ……」
 寂玖は小さく驚きの声を漏らして反射的に立ち上がる。
「え、あれ…?
 えぇと…、朝稽古に向かおうとしたら番台に二人がいて… 早朝だからちゃんと挨拶しにいけないが、用があるから先に行くって…。
 私、兄上はてっきりお紅さんから聞いているものだと……。」
 寂玖だけでなく麗奈や獅子からも同様の表情を向けられ、真珠の声は尻すぼみになっていった。
 自分達には関係なしと悟った給仕達がそそくさと去っていく中で、寂玖はその場に立ち尽くしていた。
 漸く再会できたと思ったのに…
 そこで寂玖は首を振る。
 別に今生の別れというわけではない。
 拳をきゅっと握りしめてからすとんと腰を下ろすと、寂玖は箸を手に取った。
「…俺達も今日中には発つぞ。」
「は、はい。」
「わかりました。」
 真珠、次いで獅子と、整然と並ぶ膳の前について箸を持つ。
 しかし、麗奈だけは、目の前の膳をじっと見下ろしていただけだった。
「麗奈?」
 それに気づいて声を掛けると、麗奈の視線が寂玖へと移る。
 その視線は少し厳しかった。
「寂玖様、よろしいのですか?」
「……?」
 麗奈が何を言わんとしているかわからず寂玖は僅かに眉を寄せる。
 彼女は言うか言うまいかを悩むように少し間を置いた後、再び顔を上げた。
「…実は、お紅さんが時折見せる表情がずっと気になっていたのです。
 …これは私の一方的な憶測に過ぎませんが… 私にはお紅さんが、もう寂玖様には会わない覚悟を持って接しているように感じました。」
 その一言に寂玖は瞠目し――しかし首を振る。
 いや、そんなはずはない。
 兵衛は慣れるまでは霧月の養女として過ごすと言っていた。
 霧月家は権力とはほぼ無縁の立場。寂玖も今まで通り忍んで会いに行ける。
 けれど、暁家の養女入りがいつとは言っていなかった。
 もし、霧月の養女になったのが、寂玖達が旅に出た直後だったら?
 既に三月(みつき)以上が経過している。慣れたと言っても十分な期間かもしれない。
 でもまさか、お紅達が戻ってすぐというわけでは――
 焦り始めた内心に言い聞かせようとしていた寂玖の脳裏に、ある日のお紅の姿が浮かぶ。
 それは、まだ静が健在だった頃。
 ――次にお聴かせする時はもっと良い音色が出せるよう頑張りますね――
 そう言って微笑んだあの日のお紅に、昨夜のお紅が重なる。
 澄んだ、迷いのない音。
 お紅は何のために自らここまでやってきた?
 まさか、あの日の何気ない約束を遂げるだけのために?
 もう、会えないから……?
――寂玖様。」
 静かな声色で呼ばれ、激しく不安に揺れる瞳をなんとか麗奈に向ける。
「ここで私達が考えを巡らせていても真偽のほどはわかりません。寂玖様おひとりなら今からでも追い付けましょう。」
「もうここからなら都まで一日二日の距離だし。獅子若丸様と麗奈姫は私がちゃんと送り届けますから。」
 麗奈の隣で真珠が微笑む。
「私も、極力大人しくしているよう心掛けますっ!」
 獅子にまでそんなことを言われて。
「…………。」
 いつの間にか止まったままだった箸を膳に置く。
「…悪い、先に戻らせてもらう。」
 そう言って立ち上がる寂玖に、三人は『はい』と微笑んだ。

 昼前。
 兵はお紅と茶屋で休憩を摂っていた。ずっと歩き詰めだったお紅を慮ってのことだ。
 宿に泊まりはしたものの、久し振りの再会で色々思うところもあったことだろう、きっとちゃんと休めてはいまい。
「……それにしても……」
 兵は青空を仰ぐ。
 お紅には驚かされっぱなしだった。
 急に寂玖に会いに行くと言い出した時も驚いたが、この広い空の下で、まさかこうもすんなり寂玖達に会えるとは。
「……お紅の本気は恐ろしいな。」
「? 何か楽しいことでもございましたか?兄上様。」
 口の端に笑みを浮かべて呟いていた兵を見てそう思ったのだろう。微笑み訊ねてくるお紅の声に振り向き、戻り来る彼女を目で追いながら応える。
「無事に春曲殿達に会えてよかったと思ってな。」
 お紅は手に持っていた盆を兵との間に置きながら縁台に腰を下ろして頷いた。
「そうですね。皆様もお元気そうで何よりでした。」
「ああ。…よっと。」
 お紅が持ってきてくれた饅頭のひとつを早速掴んで頬張った。
 小さな茶屋の外に設けられた縁台からは行き交う人々の姿がよく見える。
 天候に恵まれていることも手伝って、人の数は多い。
「……春曲殿達も宿を出てる頃かな。」
 朝餉の時間もとうに過ぎている。寂玖達も兵達がいなくなったことには気づいていることだろう。
 その時、寂玖はどんな顔をしただろう。
 兵としては是非ともその場を拝みたかったが、こればかりは仕方ない。
「…それにしても、本当によかったのか?お紅。もっとゆっくりしていってもよかったんだが。なんなら今から戻ってもいいんだぞ。」
 更に一口と頬張り提案してみるが、お紅は首を左右に振った。
「いいえ。旅の邪魔をしてもいけませんし…。」
 お紅も饅頭の載った懐紙を手に取る。
「寂玖様の元気なお姿を拝見できただけで十分です。」
 そこまで言うと、切り分けようとしていた竹楊枝を持つ手が止まり、彼女の瞳が少し遠くに向く。そして饅頭を持ち上げていた左手と共に、彼女の両手はゆっくりと膝の上まで降りていった。
「…寂玖様は、やはり寂玖様でした。どんな逆境の中にあっても変わらない。…とても…強い方です。」
 お紅は目を閉じる。
 寂玖達の足取りを求めて得られた情報は、どれもこれも感謝の気持ちに満ちたものばかりだった。
 寂玖達が救った者達は老若男女問わず。
 そして話の最後には、彼等と知り合いならば是非改めて礼を伝えておいてほしいと頼まれた。
 押さえた胸が熱くなる。
「……寂玖様は、今まで誰に認められることがなくても皆を守り続けて下さいました。けれど、その寂玖様を守る者がいないというのなら――そんな寂玖様を疎む者がいるというのなら――
 開かれた瞼の下から現れたのは、強い想いの籠った瞳。
「この紅が寂玖様をお守り致します。」
「…………」
 決意に溢れるその姿に、兵はふっと笑みを漏らす。
「なんとも勇ましく頼もしいな、我が妹は。」
 そう言われてお紅の眉が緩む。
「それもこれも、兄上様のお力添えがあってこそです。」
 慕う笑顔を向けてくるお紅は、本当に実の妹のようであった。
 あれだけ兵様兵様と呼んでいたのに、養女となってからは一度も呼び違えたことがない。
 そんな些細なことからも、彼女の覚悟の強さが伝わってきた。
「あ…」
 ふと、お紅の視線が兵の湯飲みに落ちる。
「お茶のお代わりを戴いて参りますね。」
「お紅は座ってていいぞ。自分で行く。」
 そう言っている間にも、彼女は空の湯飲みを持って店内へと向かっていた。返事代わりの笑みだけ残して。
「……やれやれ。」
 兵は店内に消え行くその後ろ姿を眺めながら苦笑する。
 細々とよく気づき、よく動く。
「どうせ兄と慕ってくれるなら、もっと頼ってくれてもいいものだが……ん?」
「? どうかなさいましたか?兄上様。」
 並々と注がれた湯飲みを手に戻ってきたお紅は、通りの方を見据える兵を見て先程と同様に首を傾げた。
 問われても視線を動かさずに往来を凝視したまま、兵はぽつりと呟いた。
「……今のは……」

 寂玖は一心不乱に駆けていた。
 泊まっていた旅籠から都に向かうのなら、道はもうひとつしかない。
 都まで続く整備された一本の街道がある。
 お紅もいるのにわざわざ回り道や道なき道を通ることもないはずだ。
 だから、寂玖はその通りをひたすら駆けていた。ただひとりの少女の姿を求めて。
 露店や小さい店の並ぶ場所は昼時の客入りで活気付いていたが、そこを過ぎると店もなくなり、往来も疎らとなり始める。
 そこから更に進み、人の通りも途切れた頃。
 単身の旅人を狙った賊だろう。道を塞ぐように三人、距離が縮むと更に左右の木陰から二人が躍り出て刃物をちらつかせてくる。
 何やら口上も垂れているようだが、そんなものを聞いている暇などありはしない。
 抜いた刀を返しながら、速度を緩めることなく彼等の間を駆け抜ける。
 背後で野党達がバタバタと倒れていくが、振り返りもせずそのまま走り去ろうとした、その時。
「そんなに慌ててどこ行くの?」
 ふいに近距離で発せられた声に、何よりも先に体が反応していた。
 地に着いていた方の脚を力の限り蹴り、体全体を捻りながら刀を持った右手を振るう。
 同時に伝う、鈍い衝撃。
「ぐ…っ!」
 無理な体勢から跳んだせいか、土の上に無様に全身で着地する。だが、そこから身を起こそうにも上手く体が動かない。
 見れば、脇腹から背中にかけて一筋の線が走り、そこからどくどくと鮮血が溢れ出ていた。
「どうしたの春曲寂玖。背後ががら空きだったよ。」
 ざっと砂を鳴らして寂玖の眼前に現れたのは――
 見上げずともわかる。
 その声。腕前。そして、眼前に見える白い着物の裾。
 有白影時(ありしらのかげとき)だ。
 寂玖はぎりりと奥歯を噛む。
 先へ先へと急ぐあまり、背後への注意が欠落していた。
「探しに探して漸く見つけたと思ったのに、これじゃあ興醒めだよ。」
 上から影時の声が降ってくる。
 頭では起き上がろうとしているのに、体はまるでいうことを聞いてくれない。
 傷は思っている以上に深いようだった。
「……と言いたいところだったけど、まさかあの隙だらけの状態から、致命を避けて反撃までしてくるなんてね……。」
 ぼやけ始めた視界の端で、ぽたり、ぽたりと何かが滴り落ちている。
「やっぱり春曲一族って凄いなぁ。……でも、」
 感嘆の声を上げたかと思うと、すぐに落胆の色が混じる。
「残念ながら、僕もお仕事なんだよね。本当はもっとちゃんと殺り合いたかったけど…… 本当に残念だよ。」
 心底がっかりした声色でそう言ってくる。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 隙だらけだと呆れられても。期待はずれだと落胆されても。
 そんなことどうでもよかった。
 今、彼にとって重要なのは、お紅に会うこと。
 会って、自分の想いを伝えること。
 だから――
 だから…動いてくれ……!
 寂玖は自分の体を幾度も叱咤する。
「……っ!」
 土を巻き込みながら拳を握り締め、僅かだが、前へと這い出る。
「……あれ?」
 早くしなければ。
 早くお紅に伝えなければ。
 また僅かばかり、前に進んでいく。
 そんな寂玖の頭上で影時が首を傾げる気配がする。
「…ねぇ、本当に何をそんなに急いでいるの? この先に何かあるの?」
 不思議そうな声。
 構わずまた手を伸ばして、ほんの少しずつ、前へ。
 影時は暫く思案していたようだったが、
「……まぁいいや。悪く思わないでよね。これもお仕事だから。」
 そう言って一歩踏み出してくる。
 白くなりゆく視界。影時が刀を振り上げる気配。
 とどめの一刀が来る。
「……っ……」
 その一刀を防がなければ。
 刀を持つ手に力を込めようとするが、指先は一本たりとも動かなくなっていた。
 いや、そもそもこの右手は刀を握っているのだろうか?
 その感覚さえも、最早なくなっていた。
「……じゃあね。」
 朦朧とする意識。
 ほとんどが白い光で埋め尽くされた視界。
「……あれ? 誰か来ちゃった。」
 そう言って小さく笑う影時の声が、ひどく遠い。
 ……お紅……
 前に進めているのかわからない。
 それでも、その先に向けて震える手を伸ばそうとする。
「……運……いね…春…………き…………」
 影時が何か言っているようだったが、もう聞き取れない。
 前へと伸ばそうとした手が、土の上に落ちる。
 脳裏に浮かぶのはひとりの少女。

 ああ… お紅の笑顔が見たい……

 いつの間にか視界は真っ黒に塗りつぶされていた。