揺らぎには懐旧の音色を

「そうか… 静が……」
 寂玖(さびく)は視線を伏せる。
「ああ。いつものように体調を崩したかと思えば、流行病にかかって…そこからはあっという間だった。」
 肩を竦めながら語る(ひょう)の落ち着いた声が宿屋の一室に響く。
「まぁお陰であまり苦しまずに逝けたようだから、それがせめてもの救いだ。」
「……そうか……。」
 そう呟き、寂玖は視線を僅かに移動させた。
「…それは静の着物だな。」
 言われて兵の横に控えていたお(こう)は頷く。
「はい。母上様も共に旅できればと思いまして。」
 お紅はそう言って少し淋しそうにしながら、化粧で綺麗に整えられた顔で微笑んだ。

 母上様。
 兄上様。

 お紅の口から発せられるその響きにはなんら遜色がなかった。
 まるで、ずっと前からそう呼んでいたかのように。
「…………」
 霧月(むつき)の養女となったと聞いた時は確かに驚きもした。
 だが、親・親戚は既に亡く、静とも母娘のように親しかったから、霧月の姓に下りたいと願うのも理解できる話であった。
 しかし、暁家の養女ともなると勝手が異なる。
 中流武家とはいえ、当主の手腕は名高く、将軍家にも一目置かれるような家だ。その暁が養女を迎えるとなれば、良くも悪くも何かしらの波紋があるだろう。
 お紅はそんなことがわからないような娘ではないはずだ。
 拒否できないような条件を突き付けられたか、あるいは――
 何にせよ、都に戻ったらそのまま藍堂(らんどう)を問い詰めに行って然るべき対応を取るまで。

 そう思っていた。

 けれど、この完璧なまでの態度を見ていると、何も言えなくなってしまった。
 加えて思いもよらない静の訃報。
 兵に文句のひとつやふたつも言ってやろうと出向いたはずの寂玖は、結局そのことについて何も触れられないまま部屋を後にすることとなった。

――とりあえず宿を取るぞ。」
 つい先程まで険悪な雰囲気で詰め寄っていた兵にあっさりと背を向けて獅子達のもとまで戻ってきた寂玖は、不機嫌にそう言いながら、足元の自分の荷を背に担いだ。
「お紅、我々もついていくぞ。」
「……はい。」
 一足遅れて戻ってきた兵の言葉に頷いたお紅は、まだ少し心配そうにしながらも寂玖達一行の後について歩き始めた。
――あなたが真珠殿?」
「は、はいっ!」
 後ろから覗き込むように話しかけられ、真珠は慌てて返事する。
「挨拶が遅れた。俺は霧月家が次男・霧月兵衛門之助と言う。」
 大人の微笑みを向けてくる兵に、真珠は素早く両手を前で合わせる。
「は、初めまして。春曲(はるくま)真珠です。」
 名乗ると共にぺこりと頭を下げてから、彼女は改めて兵を仰ぎ見た。
 兄上以外にこんなに身の丈がある男の人、初めて見た…。
 寂玖は予てより彼のことを「奇人で軽い、信用ならない奴」と言っていた。
 確かに奇抜な風体ではあるが、派手な女物の着物も、髪を飾るいくつもの色鮮やかな羽も簪も、目鼻立ちのくっきりとした彼には、むしろそれが様になっていた。
 先程の挨拶からも、少し軟派な感じはあるものの、礼儀正しく男らしい印象を受けた。
「…………」
 ずっと自分を見上げている真珠の視線に気づいたのか、兵が小さく笑みを作って返してくる。
「…しかし驚いたな。」
「え?」
「風の噂では、春曲殿の妹御は春曲殿に顔も性格も瓜二つと有名だったからな。」
「あ…。」
 その噂は寂玖が虫除けのためにと流したものだった。
「所詮は噂と話半分で聞いてはいたものの、実際がこれほどまでにしとやかな器量良しとは… 正直驚いた。」
 微笑みかけられて、真珠は頬を染めて俯く。
 そ、そんなこと、初めて言われたかも…!
 今まで真珠の接してきた男達は、彼女のことを、まず春曲の血統ありきで話す。本当の真珠自身はなかなか見てくれない。
「なるほど、春曲殿が縁談避けのためにあらぬ噂を流したくなるわけだ。」
 ……兄上、ばれてます……。
 反射的に視線を逸らして心の中で呟く真珠。
 その横で苦笑していた兵が、改めて真珠の方を向く。
「真珠殿。紅共々、これからも懇意にして戴けると嬉しい。」
「は、はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
 言われて差し出された手を握り返す。
 寂玖が口ではなんだかんだ言いながらもお紅を託すだけあり、信用に足る人物だと真珠は思った。

「それにしても、意外でした!」
 自分達に割り当てられた部屋に入り、荷を整理し始めた麗奈は巡らせた首を傾ける。
「…何が意外だったのですか?」
「部屋割りですよ!」
 獅子は興味深そうに笑う。
「まさか師匠(せんせい)が、この部屋割りに文句のひとつも言わないとは思っていませんでした!」
 宿の空き三部屋を取った一行は、兵の提案により家族同士の相部屋となった。
 即ち、寂玖と真珠、麗奈と獅子、兵とお紅という組み合わせだ。
「いくら霧月家の養女になったとはいえ、血の繋がらない兵衛門之助殿とお紅さんの同室を師匠が許すなんて、意外過ぎますよ!」
「いえ、それはそうですよ獅子。」
「え?」
 獅子は心底不思議そうに首を傾げた。
 その本当にわからないといった表情に、麗奈は苦笑する。
「お忘れですか? 寂玖様と真珠様も血の繋がらない兄妹ですよ。」
「あ…!」
 言われて思わず声が漏れる。
 麗奈の言う通りすっかり忘れていたが、寂玖には兵に「お紅と寝食を共にするなど不届き千万」などと文句を言えるはずもなかったのだ。
 それを言ってしまったら、自分と真珠の兄妹の絆まで疑うことになる。
 しかしながら、あの時の不服そうな顔と言ったら。
 凄い迫力でした、師匠…!!
 妙なところで感心して自分の師を尊敬し直す獅子であった。
「あ、獅子。」
 呼ばれて彼は、思わず握り締めていた両手を解いて振り向く。
「? なんでしょう姉上。」
「実はお願いがあるのですが――

 兵が部屋に戻るべく歩いていると、見知った顔がこちらに向かってきていることに気づいた。
「おや、どちらへ?姫様。……いや、今は麗奈様とお呼びした方がよろしかったかな。」
 訊かれて麗奈は微笑む。
「そうですね。一応お忍びの旅のようですから。」
 その返答に、兵の口元にも笑みが浮く。
 彼等を探して行く先々で情報を聞いて回ったが、その大体が簡単に足取りを掴むことができた。
 お忍びと言うには随分と派手に行動していたようだが、「一応」とわざわざ含めるあたり、その辺の自覚はあるようだった。
「丁度良かった。兵衛門之助殿、少々時間を戴いてよろしいですか?」
「私ですか?」
 訊き返すと彼女は微笑んで踵を返したので、兵は黙ってその先導に従った。
 麗奈の向かった先は、彼女と獅子に割り当てられた部屋だった。
「…………」
 室内は麗奈の立てる衣擦れの音が響いて聞こえるくらい、しんと静かだった。
 どうやら獅子はいないようだ。
――獅子には少しの間席を外すようにお願いしました。」
 兵が考えていたことを汲んだのか、麗奈が言う。
「……しかし、姫君が閉め切った部屋で男と二人きりというのは、少々軽率なのでは?」
「そうですね。ですが、相手が良識を持ち合わせておられる兵衛門之助殿ですもの、その点は信頼致しておりますわ。」
 含んだ笑みで言ってみても変わらぬ笑みで返され、小さく肩を竦めて麗奈の向かいに腰を下ろした。
「して、私に話とは?」
 先を促すと麗奈は頷き、
「はい。お紅さんのことです。」
 にこっと微笑む。
「お紅さんを霧月家に迎え入れるに至った経緯について、差し支えなければお教え戴きたいのです。」
「差し支えなどあろうはずもありません。お話し致しましょう。」
 それに倣って兵も微笑んだ。
「お紅は既に親兄弟はおろか親類もなく、身寄りのない身。将来(さき)の不安もありましょう。
 ですから、亡き母の意向も汲み、当家の養女に向かい入れた次第にございます。」
「…なるほど、そういう建前なのですね。」
 にこやかに微笑むその台詞に、僅かだが兵の眉が振れる。
「しかし、それならば、お紅さんが想う方のもとに嫁げば問題ないのではありませんか?」
「姫の仰ることはごもっともです。」
 兵は頷く。
「けれど、相手にその気がないとあれば話は別です。
 夫婦(めおと)になるということは、苦楽を共にするということ。
 互いにその覚悟がなければ幸福は望めないでしょう。
 その覚悟もないような男にお気に入りの娘を託すほど、私はお気楽な性格ではありません。」
「…………」
 張り付かせたままの笑みをじっと麗奈が見返してくる。
 暫くの後、紅で美しく彩られた唇が動いて小さく息が漏れた。
「……確かにその通りかもしれませんね……。わかりました。ありがとうございました。」
「ご理解戴き恐縮です。」
 兵は折り目正しく一礼し、その部屋を後にした。
 廊下を歩きながら、以前藍堂が言っていた言葉が蘇る。
 麗奈は諸星らしからぬ一面があるから扱いを違えぬようにと。
 確かにその通りだと思いながら、兵はお紅の待つ部屋の扉に手を掛けた。

 その日の夜は、寂玖と真珠に割り当てられた部屋で一堂に会しての夕餉(ゆうげ)となった。
「霧月紅にございます。改めまして、よろしくお願い致します。」
 兵の紹介を受けてお紅がそう挨拶をしたところから始まり、旅の話題を中心に和気藹々と食事が進む。
 その中で唯一無言で箸を動かしている寂玖に気づいた獅子が、向かいから声を落として話し掛けてくる。
「師匠…? どうしたんですか? 折角お会いできたのに…。」
 ちらりと横目でお紅を指す。
 皆の暗な取り計らいにより、二列に並べられた膳の片側中央にお紅、その横手に寂玖という布陣となっていた。
 だが、お紅は専ら寂玖とは逆隣に座る麗奈と談笑していて、声を掛けるのは躊躇われた。
 それに、どことなく話し掛けにくい雰囲気を纏っている気がした。
「…あ、わかりました。お紅さんがあまりにも綺麗になってしまったので戸惑っているんですね。」
 にこにことしながら言われて寂玖も隣を盗み見る。
 …馬鹿、お紅は化粧なんかしなくても…
 心中でそうひとりごちながら、ふとあることが引っ掛かる。
 最初お紅を見てもそれがお紅だとすぐには気づけなかった。
 生来眼は人一倍優れていたし、お紅であればたとえ遠くの視界の端にいようともわかる自信があった。あの広い都の雑踏の中にあってさえ、寂玖の眼はお紅を的確に探し出したのだ。
 化粧をしていたから?
 いや、そんなことくらいで見間違えるとは……
「……寂玖様?」
 無精髭の生えた顎に手を掛けて考え込んでいた寂玖に気づき、お紅が声を掛けてくる。
「…ん? ああ…なんだ?お紅。」
「あまり食が進んでいないようでしたので…。もしお疲れなのでしたらお休みになられた方が良いのでは…?」
 心配そうに見上げてくる彼女に、小さく笑みを浮かべて返す。
「…ああ…大丈夫だ、心配ない。」
「…そうですか…。」
 お紅も微笑むと、再び麗奈と話し始めた。
「……?」
 その微笑みに。その談笑する横顔に。
 微かに――本当に微かにだが、違和感を覚える。
 自分でもよくはわからないが、お紅らしからぬ何かが……
 いや、今だけじゃない。思い起こせば、再会した時からずっと……?
 やはり綺麗な着物に化粧という見慣れぬ姿だからそう思えるのだろうか…?
 それとも単に久し振りに会ったからなんとなくそう感じるだけなのか…?
「…………。」
 首を捻ったところで答は出ず、だがまたお紅に心配はかけまいと、寂玖は仕方無しに止めていた箸を動かし始めた。

 夕餉を終えると各々が部屋へと戻っていった。
 真珠も麗奈と湯殿に向かってしまい、寂玖もふらりと部屋を出た。
 特に行く宛もなかったが、すぐに足の赴く先を変えた。
 聞こえたのだ、笛の音が。
 草履を履き、音色に導かれるまま旅籠(はたご)を出て裏手に回り込む。
 裏庭は丁寧に手入れをされていて、所々に吊るされている木灯籠の火が草木を見事に映し出していた。
 その風景の一角に彼女はいた。
「…………」
 灯籠のひとつにほんのりと照らされながら、縁台に腰かけたお紅が笛を吹いている。
 寂玖はその幻想的な景色を暫く眺めてから、また歩を進めた。
――寂玖様。」
 草を踏む音で気づいたのだろう。目を開けたお紅が嬉しそうにしながら自分の横に座るよう促してきた。
「…随分と腕を上げたな。」
 腰掛けながら言うと、彼女はまた嬉しそうになる。
「ありがとうございます。」
 そう言って微笑むお紅にはなんの違和感も感じなかった。
 寂玖のよく知る、お紅の笑顔だ。
 どうやらただの杞憂に過ぎなかったようだ。
 内心で安堵していると、にこにことしたお紅の視線に気づく。
「どうした?」
「いえ、こうして寂玖様とお話しするのも久し振りだと思いまして。」
「…そうだな…。」
 言われて感慨深く頷く。
 養女云々の話はあれど、思いのほか早くお紅に会えたことは手放しで嬉しかった。
「…もっと聴かせてくれ。」
「はい。」
 お紅は応えて膝の上の笛を再び手に取った。
 夜の澄んだ空気の中を、澄んだ音色が満たしていく。
 お紅は色々な調べを奏でてくれた。
 芸には疎い寂玖でも、音色が以前より格段に美しくなっていることがわかった。
 あれから随分練習したのだろう。
 そんなことを思いながら、何気なく空を見上げる。
 暗がりにぽっかり浮かぶ満月には、笛の音がよく似合った。
 お紅の演奏を堪能した寂玖は、旅先で起こった様々な出来事をお紅に語った。
――その先で、凛と言う娘に会った。その名の通り凛とした娘だ。」
 お紅はどんな話も興味深げに聴いてくれた。
「凛には親同士が勝手に決めた許嫁がいた。そいつと一緒になれば一生楽もできるだろうに、いつ帰るともわからない男をひとりで待ち続ける、強い娘だった。」
 そこまで言ってから、ふとある言葉を思い出す。
「……その凛が言っていた。楽な生活よりも、想う男と一緒になることが女の一番の幸せなのだと。」
 静も全く同じことを言っていた。
「…そういうものなのか…?」
 控えめに訊ねると、お紅は一瞬考えた後に頷いた。
「…そうですね。大部分のおなごは、そうかもしれません。」
 それはお紅も同じなのだろうか…。
 寂玖は月に向けていた顔をお紅に向け……そこから暫し視線をさ迷わせる。
「…あ~…」
 無意味にこほん、と咳払いひとつ。
「その… なんだ…、お紅は……どんな男と一緒になりたいと願う?」
 辿々しく訊くと、お紅はきょとんとしたが――
 どくん、と心の臓が一際大きく脈打つ。
「まぁ…。ひょっとして、寂玖様が好い方を紹介して下さるのでしょうか。」
 驚き、嬉しそうに微笑むお紅のその笑顔に、突如激しい動悸が走る。
 やはり気のせいなどではなかったのだ。
 今浮かべているお紅の微笑みは、寂玖の知るそれと同じだったが、何かが全く異なっていた。
 猛烈に襲い来る違和感に、寂玖の本能が、その先を聞いてはならぬ、耳を塞げと激しく警鐘を鳴らす。
――そうですね、私は――
 だが寂玖の体は石のように動かなかった。

「権力をお持ちの方でしょうか。」

 寂玖の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく。
 今なんと言った?
 権力…? お紅が……?
「……寂玖様……?」
 お紅が少し心配そうな顔で見上げてくる。
 そうだ。お紅は質問に答えてくれたのだ。
 何か応えなければ。何か……
「あ…、あ……いや……」
 頭の片隅で必死に次を促そうとするが、思考は真っ白のまま空回りするだけだった。
 そうこうしていると、遠くからお紅を呼ぶ声が聞こえてくる。
 お紅は一瞬そちらを振り返り――少し淋しそうに微笑んだ。
「…申し訳ありません、そろそろ戻らないと…。楽しいお話をありがとうございました。」
 立ち上がって礼をするお紅を、ぎこちなく見上げる。
「あ、ああ… おやすみ…。」
 なんとかそこまで言って彼女を見送り終えると、寂玖は両膝に両肘を突いて頭を抱えた。
 お紅の一言に衝撃を隠せなかった。
 まさか、お紅の口からあんな台詞が出てこようとは…。
 権力。
 その二文字は、春曲の人間が最も忌むべき単語。
 だが、それ以上に衝撃だったのは――
 お紅の一言で気づいてしまったのだ。自分の独り善がりな感情に。
 勝手に思い込んでいたのだ。お紅も凛と同じように、どんなに離れていても、どんなに時を置いても、自分をずっと想っていてくれていると。
 寂玖がお紅に会いたいと思っていた時間、お紅も同じように自分に想いを馳せていてくれていたと。
 お紅が微笑って幸せに過ごしていられるのなら、たとえお紅にとって兵や藍堂と変わらぬ立ち位置であろうとも構わないと思っていたはずなのに。
 一方的な思い込みの上に胡座をかき、気づけば寂玖の好きなあの微笑みも失いかけていて。
 お紅の幸せな生活を守っているつもりだったのに、醜い権力の渦の中に身を置こうとしていることさえ知らなかった。
「っ……」
 力なく項垂れる寂玖の頭上では、いつの間にか一点の光も見えなくなっていた。
 月は夜の黒い霧に覆われて、その光は寂玖に届かなかった。