花には一振りの剣を(後編)

――お待たせ致し申した。」
 遅れて部屋に入ってきたのは、人好きのする笑みを湛えた初老の男だった。
 彼は向かいに腰掛けると銚子を手に取ったので、合わせて盃を手に取り酒を受ける。
 互いに酒を酌み交わすと、空気が少し緩んだ気がした。
「やぁやぁ…まさかこうしてまた盃を交わす日が来るとは思っておりませなんだ。お会いすること自体随分久方振りではありませぬか?」
「…ああ…親父が逝く前だから、五年くらい経つ。」
 無表情に言いながら盃を傾ける姿に気を悪くした風もなく、好々爺は笑う。
「貴殿が片っ端から門弟を追い出し我々の前に姿を見せなくなってから、もうそんなに経つのですなぁ。
 …おっと失礼。他意はないのですぞ。」
 睨む視線に気づいて彼は軽く手を振る。
「……そんな貴殿が諸星家の若君の指南役になったと聞いた時も驚き申したが……
 再三に渡る各家からの話を断り続けていた貴殿がこの度急に我が家の申し出を受けてお越し下さったのは、さてはて、一体どのような心変わりがあったのですかな?寂玖(さびく)殿。」
「…別に。ただ気が向いただけだ。」
 寂玖は声にも表情にも抑揚なく無関心に言いながら、また盃を傾ける。
「ならばそういうことにしておきましょう。」
 老いを感じさせない笑みを浮かべ、この屋敷の主――(あかつき)家の現当主・暁藍堂(らんどう)は頷いた。
 この狸め…と、心の中で毒づく。
 暁の当主と言えば、武家の間では策士と高名な人物であった。
「しかしまぁ、理由はどうであれ、こうしてまた顔を合わせることができてようございました。立派な剣客になられて、父君もさぞ喜んでいらっしゃることでしょう。」
 彼は盃を置いて改めて寂玖に向き直る。
「…噂はお聞き及びでしょうが、情けない話、うちの倅は随分と根性のひん曲がった人間に育ってしまいましてなぁ。」
 苦笑ながらに暁が言う。
「ここはどうか、寂玖殿がこってりと絞ってやってはくれまいか。」
 そこにあったのは、策士でも名家の当主でもない、ただの子育てに苦労する親の顔。
「…任せてもらおう。」
 寂玖も盃を置くと、刀を手に立ち上がった。

 道着に着替えた寂玖は暁家の道場に足を踏み入れた。
 そこで待っていたのは、立派なのは名前だけと陰で称される暁家の嫡男・暁義満であった。
 年の頃は寂玖よりも少し若いくらいだろうか。
「…よぉ、あんたが一騎当千と名高い名門・春曲(はるくま)流の当主か? 随分若いな。」
 歩み寄ってきて上から下まで不躾にじろじろと見回してくる。
 その目つきは長狭(ながさ)以上に悪く鋭く、どこか歪んだ印象を受ける。
「父上はあんたに剣術の手解きを受けて鍛え直してもらえと仰っていたが… 本当に噂ほどの腕なのか?」
「…………」
 挑発的な視線を投げてくる義満を、寂玖は静かに見返す。
「俺は剣の腕にそれなりの自信がある。そこで、どうだ? まず本気で手合わせしてみるってのは。
 それでもし俺が勝ったら免許皆伝ってことで、とっととお帰り願いたい。」
 義満の口の端がにぃっと笑みの形に伸びた。要は寂玖の教えなど、乞う気はさらさらないというわけだ。
「…いいだろう。」
「話の解るご当主でありがたい。」
 義満は壁に掛けられていた木刀を二本取り上げ、片方を寂玖に投げる。
「勝負はどちらかが参ったと言うまでだ。」
 寂玖はそれに頷き返しながら、中央まで進み、義満に向かい合う形で木刀を構えた。
――いくぞ!!」
 開始の掛け声と共に一気に間合いを詰めた義満が振り被る。
 肩口目掛けて振り下ろしてくるその一撃を、斜め後方に身を退いてかわす。
 義満はそのまま切っ先を返して掬い上げる。寂玖は木刀を正眼に構えたまま更に一歩退いてそれもかわす。
 確かに自信があると自ら豪語するだけあり、なかなか鋭く速い刀捌きだった。
 だが、その自信故か、多少大振り過ぎる。
 一撃目をかわされれば、そこに大きな隙ができる。
――今日、新しい奉公人が来ただろう。」
 立て続けに繰り出される攻撃をよけながら、寂玖が口を開く。
「…あ?」
 急に脈略の無い話題を振られ、義満は一瞬眉を顰める。
「…なんだ、丁度鉢合わせでもしたか?
 他家の奉公人に目をつけるたぁ、あんたもなかなかいい趣味してるな。」
 次の一手を繰り出しながら、義満はまた笑みを浮かべる。
「新しく飯炊きの女が来たと言うから俺も覗きに行ってみたが… ありゃダメだ、やめた方がいい。鈍臭そうな上にイモ娘ときてる。」
 胴を狙って薙いでくる一閃をよける。
「ま、いつものようにさっさと適当に理由つけて追い返してやるさァ!」
 更なる攻撃を避け、また一歩と退がった寂玖の踵が壁に当たった。
「…さぁさぁどうした春曲さんよぉ! 打って来ないのかよ!」
 壁際で鍔迫り合いになりながら義満が捲し立ててくる。
 だが軽口を叩きながらも、その声には最初程の余裕はなくなっていた。
 義満の全力に近い剣撃を、寂玖は全て身を退くだけでかわしていた。
 それも、壁際に追い詰められるまで正眼の構えをまるで崩さず、下半身の動作だけでそれをやってのけている。
 寂玖は苛立ちとも焦りとも取れる表情の義満を見据えてから、ふいに木刀を押し出した。
「お、わっ…!?」
 それだけで義満は弾き飛ばされたが、よろめきながらもなんとか踏み留まり体勢を立て直す。
 だが、遅い。
 この時既に、寂玖の木刀が義満の二の腕を捉えていた。
「うぐ…っ!?」
――脇を開きすぎだ。」
「うがっ!?」
 今度は右の手首を打ち据えられ、手から木刀がこぼれ落ちる。
――握りが甘い。」
「…ぐっ…!」
 続く一振りで脚を打たれて義満はがくりと膝を突いた。
――踏み込みが浅い。
 ……基本がまるでなってないな。一度初心にかえって心身の鍛練に励むといい。」
「……っ!」
 苦痛に歪む顔を上げた先で、無言で見下ろす寂玖の視線が威圧する。
「く、くそ…!」
 義満はぎりりと奥歯を噛み締め、
「調子に乗るなぁぁぁぁ!!」
 床を蹴り木刀を拾い上げながら、そのまま寂玖の喉元目掛けて突きを繰り出してくる。
 いくら木刀とはいえ首に食らえば死に至る。
 だが寂玖は正眼の構えから少し刀を立てて傾けるだけでその軌道を反らし、突撃してくる義満の体を柄で受け止め、その反動を利用してまた突き飛ばした。
 壁に背中を強かに打ちつけて息を詰まらせた義満の喉元を、追った寂玖の木刀の腹がギリギリと締め上げる。
「ぐ……、かは…っ!」
「……今日来た娘に危害を加えてみろ。次は真剣でこうしてやる。」
 目の前で、獣が唸るような低い声が義満を脅す。
「お、お前…! 俺にこんなことして、ただで済むと思っているのか…っ!
 暁家を敵に回したら… お前のところの道場なんて、簡単に、潰せる…!」
「そうだろうな。」
 息も絶え絶えに語る義満に、寂玖は退くどころか柄と切っ先を握る腕に更に力を込めた。
 義満の顔が余計に歪む。
「…だが、よく憶えておけ。道場が潰されようと、無一文で道端に放り出されようと、俺にとってはこの屋敷に押し入りお前ひとりの安い首を刎ねることなど造作もないということを。」
 義満は自分を見下ろす鬼のような瞳に頭から足先まで身の毛が弥立つのを感じた。恐怖に悲鳴を上げることすら忘れてしまうほどに。
 そんな様子を一瞥した寂玖が力を抜いたので、義満はずるりと崩れ落ちて喉元を押さえた。
 咳込みながらもまだ何か言ってこようとする義満に背を向けた寂玖は、構わず道場を後にした。

「……はぁ……。」
 見慣れた何もない長屋の一室で、お(こう)はため息をついていた。
 昨日、新しい奉公先に赴くと仕事は明日からでいいと言われ、かと思えばその夜には明朝に出ていけと言われ。
 気づけば決別したはずの我が家に一日で舞い戻ってきてしまっていた。
 長屋の面々はまた暖かく迎えてくれたが、内心は合わせる顔がなかった。
 何が悪かったのだろうかと思い返してみてもやはり何も思い当たらず、結局反省のしようもなくため息をつくしかなかった。
 だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 気持ちを切り替えようと立ち上がったその時、戸が叩かれた。
「…はい?」
 障子戸を開けると、そこにいたのは――
「さ、寂玖様?」
 大きな風呂敷包みを片手に下げた寂玖が立っていた。
「上がらせてもらうぞ。」
 彼はそう言いながら不思議そうな顔で立ち尽くすお紅の横を通り抜け、畳の上にどさりと荷を下ろす。
「さ、寂玖様、どうしたのです?」
 その姿を目で追いながらお紅が心配そうに訊ねてくる。
「罪滅ぼし……あ、いや…ちょっと頼み事があってだな…」
 お紅には顔を向けずに寂玖は持ってきた荷を開ける。
 風呂敷の中から現れたのは、沢山の野菜、根菜、山菜にきのこ類、米、それに魚の干物まであった。
 それを見て更に疑問符を浮かべるお紅。
 寂玖は風呂敷の上に並ぶ食材を視線で指してからお紅に向き直る。
「これで何か飯作ってくれないか? 一緒に食おうぜ。余ったものはやるから。」
「…え…?」
「頼む、腹減ってんだ。」
 お紅が何かを言う前にそう付け加えて畳み掛ける。
「は、はいっ!」
 応えたお紅は袂から取り出した紐で襷掛けを施し、いくつかの食材を抱えて土間に向かっていった。

「うまい…。」
 見慣れた箱膳にはいつもより豪華で量のある料理が盛られていた。
 それを食べ進めていた寂玖がふいに呟き、お紅は少し恥ずかしそうに彼を見上げる。
「ありがとうございます。お口に合ってよかったです。」
――なんかいい匂いがする~!」
「オレに内緒で何食べてるんだお紅ー!」
 二人が膳を付き合わせて静かに箸を進めていると、匂いにつられた瑞菜(みずな)(あける)が乱入してきた。
「お二人も食べますか?」
「食べた~い!」
「うむ、食ってやらんこともない!」
 瑞菜は身を乗り出して膳を覗き込み、ふんぞり返る朱の頭に寂玖の軽い拳骨が落ちる。それにくすくすと微笑みながら、お紅は寂玖を見上げた。
「張り切って作りすぎてしまいましたし、小春さん達も呼んでいいですか?」
「俺は構わない。」
 寂玖がそう答えるとお紅は顔を綻ばせ、子供達に少し待つように伝えて小春達を呼びに向かった。
 小春は足りない食器を、茂吉は酒を手にやってきて、その日の長屋の一間は飲めや歌えの宴会騒ぎとなった。
 あれだけ沢山あった料理も綺麗さっぱり空になった。
 お紅一人が一週間程度は食べていけるくらいの食料を持ってきたつもりだったが、これでは数日後にまた風呂敷を抱えて来なければなるまい。
 寂玖はいつも以上に楽しそうな表情で微笑むお紅の横顔を眺め、口の端に笑みを浮かべつつも小さく息を吐いた。
 子供達の元気はまだまだ底を尽きる様子もなく、狭い部屋の中を駆け巡っている。
 茂吉も小春も酒が入って陽気に語らっている。
 寂玖とお紅は肩を並べながら和やかな時を過ごした。

 小春達が帰り、片付けを手伝い終えた寂玖は、戸口で振り返る。
「飯、ありがとな。また頼みに来てもいいか?」
「はい。私なんかの料理でよければ、いつでもお越し下さいませ。」
 お紅と別れの挨拶を済ませて戸を閉めた寂玖は踵を返して歩き出した。が、その歩みはすぐに止まった。行く道を塞ぐように人が立っていたからだ。
 歳はお紅と同じくらいだろうか。ひとつに結った長い髪に、袴姿。腰には刀が二本。
 どこからどう見ても武士の出で立ちだが、顔はどこをどう見ても娘であった。
 彼女は寂玖と目が合うと、凛とした顔つきを笑みに変えた。
「……無愛想のひねくれ者の甲斐性無しで悪かったな。」
 彼女が何かを言うより早く再び歩き出した寂玖は、すれ違い様に言葉通り無愛想に言い放つ。
「あ、あれは……!」
 彼女はぎくりと身を震わせ、ひきつり笑いを浮かべながら弁明しようとするが、歩を止める様子のない寂玖を見て慌てて追いかける。
「…しかし、甲斐性無しは訂正しないといけませんね。まさか兄上がおなごの家に通っているなんて夢にも思っていませんでした。」
 すたすたと歩く寂玖の横につきながら、彼女――真珠はニヤニヤと意味ありげな視線で寂玖の顔を覗き込む。
「私とお揃いですね、その髪。先程の長屋の方が結ってくれたんですか?
 兄上が私達以外にあんな表情を見せるの、初めて見ました。
 誰なんです?あの方。紹介して下さいよ。」
 珍しく突っ込んだ質問をしてくる真珠に、寂玖は眉を顰める。
「……お前には関係ない。」
 冷淡に言い捨てられ、真珠の足が止まった。
「関係ない……?」
「……真珠?」
 遅れてそれに気づいた寂玖は、振り向いてぎょっとする。
「……関係ないって、なんですか、それ……!」
 俯く真珠の肩が小刻みに震えている。
「……何日経っても帰って来ないから、心配してたのに……」
 ふらりと突然出掛けるのはいつものことだった。
 だが、こんなに何日も家を空けたことはなかったし、ましてや約束のある日をすっぽかしてまで外出したこともない。
「ひょっとしたら、どこかで怪我して動けなくなってるんじゃないかって、凄く心配してたのに……っ!」
「…真珠…。」
 寂玖は妹に歩み寄る。
「やっと居場所を突き止めて迎えに行こうと思っていたら、医者から診療費の請求が来るし…!
 そうしているうちにいきなり帰ってきたかと思えば、『出かけてくる』の一言だけで、着替えてまたすぐに出てっちゃうし…っ!」
「…真珠。」
 寂玖は大きな手で妹の頭を撫でる。
「…悪かった。後でちゃんと話すから。」
「…本当ですか?」
「あ、ああ。」
 思いの外晴れやかな表情で見上げられ、寂玖は拍子抜けした声を出しながら頷いた。
――それで、今回は何しに出たんです?」
 並んで歩きながら真珠が訊いてくる。
「兄上のことだから、きっと巷で噂になっている辻斬を調べに行ったんだと思っていたのですが…。」
 流石に長い付き合いなだけあり、彼女の推測は当たっていた。
「最初はそのつもりだったんだが、邪魔が入ってな。」
「…また刺客…ですか?」
 政権をも左右しかねない程の剣の腕を誇る寂玖は、よく命を狙われた。
 鳴かぬなら殺してしまえ、ということなのだろう。
 以前はたまに刺客を差し向けられる程度のものだったが、諸星家の指南役を引き受けてからはそれが激化していた。
「…兄上に『邪魔』と言わせるなんて、今回の刺客は大層な腕の持ち主だったんですね…。」
「ああ。大層な腕を持った忍だった。」
「忍……。」
 真珠が眉を寄せる。
 暗殺術を操る忍は、腕の立つ侍よりも厄介なことが多い。
 それも、一騎当千、希代の名剣客、その強さ鬼神が如しと謳われる寂玖が「腕が立つ」と言い切る程だ。想像しただけでも逃げたくなってくる。
「案ずるな真珠。」
 どうやら顔に出ていたらしく、寂玖が言う。
「ちゃんと仕留めてきた。」
「そ、そうですか。」
「ああ、七人全員、取りこぼしなく、な。」
 淡々と言われた言葉に、真珠の目が点になる。
「……えぇと、それは……"腕の立つ"忍が七人ってこと……?」
「そうだ。」
「…………」
 真珠は見慣れた顔を呆然と見上げる。
 誰よりもそばで寂玖を見てきた彼女自身も剣客の端くれ。彼の腕の凄さは誰よりも知っているつもりだ。
 だが、この時ばかりは味方でよかったと心底思ってしまう。
「し、しちにん……。よくぞご無事で……。」
 七人の暗殺者に同時に襲われる自分を想像してひきつりながら言う真珠に、寂玖はため息をつく。
「無事なもんか。相手は手練れ七人。入念に訓練された連中だったんだろう。連携もかなりよかった。
 秘蔵の駒だったんだろうな。流石に骨が折れた。
 だが、これで暫くは大人しくなるだろう。」
 戦いの様子を珍しく苦笑しながら語る姿に、真珠の眉が八の字になる。
「ま、まさかどこか怪我を!?
 …あ、あれ? でも医者は欠食が原因だと…」
 それに寂玖は思わず小さな笑みを零す。
「あれは俺じゃない。
 …まあ、腹に数ヶ所穴が空いたりもしたが、もう完全に塞がった。だから心配するな。」
 不安げな表情で見上げる真珠の頭をぽんぽんと叩く。
 どんな怪我を被うとも、ひとりたりとも暗殺者達を逃がすわけにはいかなかったのだ。あんな連中に真珠達の周囲をうろつかれたらたまったものではない。
「は、腹に数ヶ所って…! 全然大丈夫じゃないじゃないですか!」
 昔から寂玖は自分の体をあまり省みない。真珠はそれが心配だった。
「…なんだよ、まだそんな顔して。この通りぴんぴんしてるだろ。」
「…………」
 確かにとても腹に穴が空いていたとは思えない兄の姿を暫く見つめてから、真珠はあっと声を漏らす。
「…ひょっとして、先程の長屋の(ひと)は…」
「俺の命の恩人だ。」
「そう…だったんですか…。」
 真珠が小さく息を吐いてから寂玖に微笑みを向ける。
「じゃあ、今度ちゃんとお礼をしに行かないといけませんね…。その時はちゃんと紹介して下さいよ?兄上。」
 それにはやれやれと苦笑する。
「…わかったよ。」
「私にも紹介して下さい!」
「わっ!? 獅子若丸様!?」
「獅子!?」
 二人の間からいきなりにゅっと顔を出した彼は、寂玖の姿を見てにこっと笑う。
 まだ成長しきっていない体躯に、それでも二本の刀を差し、真珠に劣らぬ武士然とした姿の少年であった。
「どうしてお前がこんなところに…!?」
 寂玖が批難の声を上げると、獅子は眉をつり上げる。
師匠(せんせい)の一大事と聞いては城で大人しくしているわけには行きません! でもご無事だったようで何よりです!」
 本当に嬉しそうな表情で獅子が笑う。
「それはともかく、護衛はどうした、護衛は。ちゃんと親に許可取ってきたんだろうな?」
「はい!心配要りません! 誰にも悟られないように出てきましたから!」
 力一杯握った拳を胸の前に作って清々しく言い放つ獅子に、寂玖は頭を抱えた。
 つまり、護衛もつけてなければ許可も得てないのだ。
「それで、師匠と親しいというその長屋の方とはいつお会いできるのでしょうか!」
「いつって… なんでお前に会わせなきゃならないんだ。」
――あら、わたくし達には紹介して下さらないのですか?」
 獅子の背後に控えていた女がそう言いながら笠を取って微笑む。
「……麗奈……お前まで……。」
 男なら誰もが見惚れてしまうような気品溢れるその微笑みに、しかし寂玖は再び頭を抱えた。
「わたくしもその方とお会いしとうございます。」
「私も是非!」
 並んでにこにこと言う姉弟に、寂玖は至極面倒くさそうに頭を掻いた。
「あ~もう! わかった! わかったからお前らはとっとと城に戻れ! 送ってやるから!」
「はいっ!師匠!!」
「約束でございますよ。」
 寂玖は心底げんなりとしながら、三人を連れて歩き始めた。

――なあ、真珠。」
 暫く行ったところで寂玖がぽつりと口を開く。
「なんですか?兄上。」
「家事とか一人で大変じゃないか?
 …あ、いや… お前の奇抜な料理の味にも大分慣れて来たんだが、その……そろそろ奉公人を一人くらい雇ってもいいかなと思ってだな…」
「はぁ!?」
 寂玖の台詞に、真珠は批難を全面に押し出したような声を上げながら睨んでくる。
「勝手に奉公人達に暇を出したのは兄上じゃないですか!
 それに、兄上が片っ端から門下生を破門にしちゃったから、我が家にはもう奉公人を雇うお金なんてありませんっ!」
 諸星家からの収入のみとなった春曲家は、屋敷と道場の維持、そして兄妹二人が食べていくので精一杯だった。
「…そ、そうだよな…。」
 寂玖は迫力に圧されながら指先で頬を掻く。
 それに、あの屋敷にお紅を住まわせるのは、やはり危険すぎる。
 冷静さを取り戻した寂玖は、自分を取り巻く状況を改めて認識して考えを改めた。
「…悪かった。言ってみただけだ。今のは忘れてくれ。」
「…………。」
 少し気落ちしたような横顔を横目に、真珠が息をつく。
「…別にいいんですよ、私は。ちゃんと兄上が働いてくれさえすれば、奉公人の一人や二人。
 ――第一ッ!!」
 真珠は人差し指をびしぃっと寂玖に向け、
「俺は(まつりごと)の道具になるのは嫌だ~とか、誰とも関わり合いたくないんだ~とか、俗世のことなんて知るか~とか言ってるクセに、市中で何かあるとこそこそ出ていったりして、ほんっとお金にならないことばっかりするんだから!!」
 もう片方の手を腰に当てて覚醒したように捲くし立てる。
「そんな素直じゃないところが寂玖様らしいのですけどね。」
「はいっ! その通りです姉上!」
「姫…獅子若丸様…、兄上を甘やかさないで下さい。」
 背後でわいわい話していた姉弟がどさくさに紛れて参加してくる。
「あ、どうです?師匠。いっそのことお忍びで世直しの旅に出るというのは。」
「まぁ、いいですね。それなら寂玖様のご活躍を直に拝見できます。父上に打診してみましょう。」
「あーそれ名案かも。兄上は家にいてもお酒飲みながらごろごろしているだけだもの。そっちの方が余程生産的かも。」
 加えて暗殺者も撹乱しやすくなる。
 真珠は内心でそう言葉を追加する。
「何勝手に話を進めてやがる。しかもお前達までついてくる気満々じゃねえか…。
 俺は絶対にしないからな、そんな面倒なこと。」
 乗り気だったところに水を差され、三人――特に諸星姉弟は至極残念そうな顔をした。
 だがそれも次なる閃きと共にあっという間に晴れてしまう。
「…では、こういうのはどうでしょう。旅に長屋の方も誘ってみるというのは!」
「なるほど、それなら寂玖様も必然的についてくるという寸法ですね!」
「お・ま・え・らぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 肩を震わせながら獅子と麗奈の会話を聞いていた寂玖が勢いよく顔を上げ、
「堂々と他人を巻き込む算段を立てるなぁぁぁぁ!!」
 賑やかな昼の通りに怒号を響かせたのだった。

「…くしゅんっ。」
 洗濯物を干していたお紅が口を押さえる。

 彼女を巻き込んだ寂玖達の世直しの旅が、今、ここから始まる――

 ……かどうかは、まだ誰にもわからないのであった。

 めでたしめでたし……?