花には一振りの剣を(中編)

 親を亡くして天涯孤独となり、追い討ちを掛けるように武家の若殿・長狭(ながさ)に借金を吹っ掛けられたお(こう)であったが、仕事に恵まれ、なんとか一年半の歳月をかけて完済することができた。
 だがそれが気にくわなかったのか、長狭は仕事場に嫌がらせをしに来るようになった。
 奉公先の店主は良くできた人物で気にせず働き続けて欲しいと言ってくれたが、お紅はこれ以上迷惑を掛けられないとその店を去った。
――だからお紅ちゃんは今、奉公先を探している最中なのさ…。」
 大工の仕事がなかったこの日、話し相手を求めてやってきた茂吉は寂玖(さびく)にそう語った。
「新しい奉公先の候補がないわけじゃないらしいんだが、こいつがまた――
「…あ、茂吉さん、こんにちは。」
 そこへ戻ってきたお紅は、居座っていた茂吉に気づいて会釈する。
「おう、お紅ちゃん、お邪魔してるよ。今日もじいさんの世話、ご苦労様。」
 労いの言葉に微笑んで返したお紅は、今お茶を淹れますねと竈に向かっていった。
――なぁ、お紅ちゃん…。」
「はい?」
 手にした湯飲みから立ち上る湯気を見つめていた茂吉が顔を上げる。
「次の奉公先、本当にあそこにするのかい?」
 心配そうな顔をした茂吉に、お紅は明るい笑みを浮かべ、声を弾ませる。
「そうですね。あそこなら長狭様よりもご身分が上ですから、長狭様が何か悪さをしにくることもないでしょう。」
「そりゃあそうかもしれないが…」
「そこは何が問題なんだ?」
 言い澱む様子に、今までずっと黙って話を聞いていた寂玖が口を挟む。
「それは――
「大丈夫ですよ。それに、武家のお屋敷にご奉公に行ける話なんてそう戴けるものじゃありませんから、有り難く頂戴しようと思っています。」
 言葉を遮ってまでお紅がそう微笑うので、茂吉の口からふ、と小さく息が漏れた。
「……そうか。ならもう何も言うめぇ。」
 苦笑した後、茂吉は改めてお紅と寂玖に顔を向ける。
「邪魔したな。茶ぁご馳走様。あんちゃんも話し相手してくれてありがとよ。またよろしく頼まぁ。」
「またな。」
「いつでもいらして下さい。」
 お紅は小さく頭を下げ、寂玖は小さく手を上げてその後ろ姿を見送った。

 お紅はこの日も針仕事に勤しんでいたので、寂玖はそれをぼんやりと遠巻きに眺めながら過ごした。

 昼間のお紅は、長屋の隣に住む末吉じいさんの世話をしている。
 だからその時間帯はいつも退屈だ。
 寂玖は立ち上がり、腕を回したりして体を動かしてみる。
 全身に力を込めたりしない限り、痛むこともなくなってきた。
 この調子なら、もうすぐ――
 そう思いながら首を動かしていたところ、ふと衝立の中が視野に入った。
「…………ん?」
 寂玖は変化に気づいて首を傾げた。
 数日前には確かにそこにあったはずの桐の箱が、いつの間にか無くなっている。
 お紅が出掛ける時はいつもの着物だったから、どこかに着て行ったということもないはずだ。
 寂玖の目が、無意識に箱を探して周囲を見回し――
「……?」
 隣から物音が聞こえてくる。
 壁を叩く音。
 それが止むと、微かな話し声のようなものが聞こえる。
 そしてまた壁を叩く音。
 今度はその音と同時に声が聞こえてくる。
 嗄れていて随分と聞き取りづらかったが、一単語だけははっきりと聞き取れた。
――"お紅"!?」
 その瞬間ひどく嫌な予感がして、寂玖は部屋を飛び出していた。
 隣の戸を払い除けるように開けると、そこには布団に寝ている老人、そして――
「お紅…!? お紅っ!!」
 老人の脇に倒れていたお紅を抱き起こして名を叫ぶ。
 しかし、彼女は苦しそうな表情のまま反応しない。
「くそ…っ!」
 寂玖はお紅を抱えて立ち上がる。
 同時に腹に鈍い痛みが走るが、そんなことは大した問題ではなかった。
 辛うじて視線だけをこちらに向けている老人に目配せだけして、その部屋を出る。
「誰か! 誰かいないか!」
「…あんた、どうし――お紅ちゃん!?」
 真っ先に顔を出したのは、すぐ目の前に住んでいる小春だった。
「ちょっと、一体何が…」
「話は後だ! 一番近い医者の所まで案内を頼む!」
「そ、それならこっちだよ!」
 二人は長屋を背に駆け出した。

「う……」
 小さく声を漏らしてから、お紅は目を開けた。
「お紅…気づいたか。…起きられそうか?」
 寂玖は彼女の顔を覗き込むように見下ろす。
「…寂玖様…?」
 お紅は虚ろな声で名を呼ぶだけで、起き上がる力はないようだった。寂玖は背に腕を回してそれを助けてやる。
「…ほら、これ食え。小春が作ってくれた粥だ。ちょっと冷めちまったけどな。」
 小さくだがこくりと頷いたお紅は、寂玖に支えられながら彼が差し伸べてくれた匙に口をつけた。
 そうして何度か粥を与えてからお紅を休ませた。
 寂玖自身もまた人ひとり抱えて走り回ったことにより、回復しきっていなかった体力を消耗していた。
 だから、お紅の寝顔が穏やかだったことに安堵した後、寂玖も壁に背を預けて目を閉じた。
――…………。」
 先に目を覚ましたのはお紅だった。
 傍で寝ている寂玖を起こさないように気を配りながら、掛けられていた布団代わりの着物の中から抜け出す。
 障子戸を開けて外の様子を確認すると、時は既に夕刻になっていた。
 お紅は踵を返して土間に向かう。
 竈の脇に置いてある小さな(かめ)の蓋を開けて覗き込むと、そこには少量の梅干が入っていた。
 …父上と漬けたこの梅干も、あと僅か…。
 その一粒を取り出して見つめると、完成を楽しみにしながら父と一緒にこの甕に詰めた日のことが昨日のことのように蘇る。
 お紅はそれを懐かしみながら、手にした梅干を口に入れた。

――寂玖様、ご飯できましたよ。」
 そう言って普段となんら変わらぬ調子でお紅は寂玖を起こした。
「…体はもういいのか?」
「はい。小春さんの美味しいお粥のお陰ですね。
 今日はご迷惑をお掛けしました。明日、小春さんにもお礼をしたいと思います。」
 ぺこりと頭を下げてから脇に置いていた膳を手に取る。
「…さ、どうぞ召し上がれ。」
 寂玖の視線は差し出された箱膳を一瞥しただけで、すぐにお紅へと戻ってくる。
「……お紅は食べないのか?」
 幾度目かの質問を口にすると、お紅はやはりいつものように答える。
「寂玖様が寝ている間に先に戴いてしまいましたので。」
「梅干一粒をか?」
「…………」
 寂玖の切り返しに沈黙こそしたが、その笑みは崩れない。
「……梅干は体にいいんですよ。」
 そう言った途端に寂玖の顔が般若になる。
「毎食毎食梅干一粒と水だけで体がもつわけないだろうが!」
 お紅が倒れた原因。それは他ならぬ飢えであった。
 寂玖は手にしていた箸をお紅に押し付ける。
「今日からは半分ずつだ。いいな。」
 一方的に言う寂玖に、お紅は首を振る。
「私は結構です。今は寂玖様が早くよくなることが先決…で……?」
「…わかった。」
 言葉半ばでお紅の背後に回り込んだ寂玖は、目の前の華奢な体を全身でがっちりと固定し、お紅の手にあった箸を構える。
「…え? あ、あの…?」
「自分で食べるのがそんなに嫌なら、俺が食べさせてやる。」
「えっ… えっ…!?」
 お紅は漸く自分の置かれた状況を理解する。流石にこの時ばかりは笑みが消えた。
「お、お待ち下さ…」
 お紅を抱えたまま、寂玖は器用に箸を操り、煮物の蕪を取り上げる。
「わ、わかりました! わかりましたから…っ!」
 お紅が悲鳴のような声を上げて漸く、寂玖の動きが止まった。
「…じゃあ分けるぞ。」
 一旦箸を置いた寂玖は、使われていないもうひとつの箱膳を長い腕で引き寄せる。
 窮地から脱したお紅は、頬を赤らめながら眉をつり上げた。
「…もうっ。あのようにおなごに食事を食べさせるなど、お侍様のすることではありません!」
「残念ながら俺はただの浪人だ。お侍なんて偉そうなもんじゃねえよ。」
 母親のような説教し始めるお紅に言い返しながら、寂玖はテキパキと膳を二等分していく。
「……ほら。」
 今度は寂玖がお紅に膳を差し出した。
 お紅はそれを不安げに眺める。
「随分少ないですよ? これでは寂玖様が…」
「食わせてやろうか?」
「……慎んで戴きます。」
 睨むように言われ、お紅は大人しく手を合わせるしかなかった。

「寂玖様、寂玖様。」
「……ん?」
 朝餉(あさげ)の後。
 また針仕事を始めたお紅の邪魔をしまいと部屋の隅で壁に向かって寝転がっていた寂玖は、呼ばれてそちらに顔を向けた。
「立ち上がって戴けます?」
「?」
 言われるままに立ち上がる寂玖の腕を軽く持ち上げ、お紅は持っていた着物を当ててみる。
「…寸法は良さそうですね。では、袖を通してみて下さい。」
 差し出された着物は、柄から見てお紅が今までちくちくと縫っていたものだ。
 着替えてみると、確かに長身の寂玖にもぴたりと合った。
「…ささ、寂玖様、こちらへ。」
 今度は場所を移動して座らせられる。
 お紅は櫛を片手に、寂玖のぼさぼさだった長い髪を梳かし始めた。
 適度な櫛当たりが心地よく、寂玖は目を閉じて大人しくしていた。
 一通り櫛通りがよくなると、今度は髪を掬い始める。彼女の細い指が耳や首に当たる度に少しこそばゆい。
 そうして寂玖の髪は高くひとつに結い上げられた。
「…はい、終わりました。なかなかの男前ですよ。」
 微笑みながらお紅が鏡を向ける。
 そこに映る自分の姿は、確かに先程とは見違える。着物の色も柄も、寂玖によく合っていた。
「…わざわざ作ってくれたのか?」
「はい。父の着物では丈も全く足りておりませんでしたし。」
 寂玖は立ち上がり、改めて着物を眺めてみる。
 よく見れば質の良さそうな布だ。
 自分の分を削ってまで寂玖に食べさせていたお紅に、果たしてこんな反物を買える金があったのだろうか。
 ふと、行方のわからなかった桐の箱が脳裏をよぎる。
「……まさか……」
 突然がしっと肩を掴まれ険しい表情で見下ろしてくる寂玖を、お紅は驚きの表情で見つめ返す。
「な、なんです?」
「まさか、売ったのか!?あの着物!」
 肩を揺すりながら問いかけてくる寂玖にきょとんとしてから、またいつものように微笑むお紅。
「…ああ、ご存じだったのですね。
 はい、あの着物は質に出しました。主のいない着物をいつまでも置いておいても仕方ありませんから。」
「…主の、いない…?」
 間近にある寂玖の眉が寄せられる。
「はい。あの着物は私のではなく、母のです。」
 微笑んでさらりと言い放ったお紅の言葉に、寂玖は脱力して頭を抱えた。
「……あの……?」
 しゃがみこんだままの寂玖を心配そうに見下ろし、お紅はおずおずと声をかける。
「…………」
 寂玖はふらりと立ち上がり、もう一度彼女の肩を掴んだ。
「…それはつまり、アレか? 俺の着物を作るために、母親の形見を手放したってことか?」
「え? ええ、まあそうですね。」
 首を傾げながら答えるお紅に、寂玖はもう一度蹲って頭を抱えた。
「……あの…寂玖様……?」
 また心配そうに声をかけてくるお紅に、今度は勢いよく立ち上がる。
「見ず知らずの奴のために親の形見まで手放す奴があるかーーーーー!!!!」
 人差し指を突きつけられ、お紅は瞬きを数回してから、柔らかい表情でにこりと微笑んだ。
「先程も申し上げた通り、あの着物はもう使う当てのないものです。ただ置いておいてもなんの肥やしにもなりません。寂玖様のために使った方が、母も着物も喜んでくれるでしょう。」
 曇りのない笑顔に、目眩さえ覚える。
「自分が着るって発想はないのか!」
 思わず叫んだが、お紅の表情は変わらない。
「あのような着物、着ていく場所もありませんもの。」
「だ、だからって……」
「それに、寂玖様には待っている方がいらっしゃるのでしょう?」
 そう言って彼女は懐から取り出したものを寂玖に丁寧に手渡した。
 半分血に染まって黒くなってはいるものの、それは寂玖が持っていた御守だった。
「お返しするのが遅くなってしまいましたが……それを下さった方が、きっと、待っていらっしゃるのでしょう?
 それなのに、みっともないお姿でお帰しするわけにはいきませんもの。」
「…………。」
 優しく微笑むお紅に、寂玖は長い長いため息をついた。
「……少し外に出るぞ。」
「え?」
 それだけ呟いて一方的に彼女の手を引く。
「ど、どちらに?
 お体の方は…」
「無理はしない。慣らしの散歩だ。
 ずっと家に籠ってたからな。いい加減体を動かさないと腐っちまう。
 …行くぞ。」

 長屋から暫く歩くと商いで賑わう通りに出た。
 寂玖は特に宛もなく歩を進めていたが、お紅は文句も言わずについてきてくれた。
 が、その肩に向かい来た男の体が当たってよろめく。
「…大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます。」
 彼女を支えた寂玖の腕から顔を起こしながら、お紅は周囲を見渡した。
「随分人が多いのですね。私、この辺には来ることがなくて。」
 そう言いながら、随分と大きく見えるようになった城を仰ぐ。
「…そうか。」
 我ながらもう少し気の利いた返事はできないものかと思いながら、寂玖はお紅の手を取る。
「はぐれないように気を付けろよ。」
「はい。ありがとうございます。」
 そうして二人が歩くこと暫し。
「…っとすまん。…おっとっと、ごめんよ。」
 人の流れを無理矢理掻き分けながら逆流してくる男がいた。
 その男が寂玖達の目の前までやってきた頃、少し離れた人混みから悲鳴が上がる。
「ああ!? 財布がねぇ!」
「きゃああ!私のもっ!」
 次々と広がっていく悲鳴の輪に往来の足が止まる。
「…掏摸(すり)でしょうか。」
「物騒な世の中で嫌になりますなぁ。」
 気の毒そうに言うお紅に応えたのは寂玖ではなく、逆流してきた男だった。
「…………。」
 二人の会話を黙って見ていた寂玖は、騒然とする人の群れに向かって一歩歩み出る。
「掏摸を捕まえてやると言ったらいくら出す?」
 冷静な寂玖の低い声に、被害者一同のみならずその場にいた通行人全員が一斉に顔を向けてくる。
「あ、あんた、できんのか?」
「わ、私のお財布を取り戻してくれるなら、中に入っている額の一割をあげてもいいわ!」
「じゃあ儂もじゃっ!」
「二百文で手を打ってくれ!」
 被害者各人が報酬を提示したところで、寂玖はお紅の隣にいる男の襟をむんずと掴んだ。
「…え? えええ? な、何をするんですか旦那…」
 突然向いた矛先に抵抗しようとする男の言葉が終わるより速く、寂玖は彼の襟元をこじ開けた。
 一同が瞠目する中で曝け出されたその懐からぼとぼととこぼれ落ちる、色も形も大小も様々な財布。
『…………』
 一瞬の沈黙の後、
「お、俺の財布ぅぅぅぅ!!」
「私のもあったわぁ!」
「おめっ よくも!!」
「観念しやがれ!」
「ひぃぃぃぃ!?」
 怒号と悲鳴が通りを飛び交った。
 こうして他人事を装い退散しようとしていた掏摸は捕らえられ、寂玖は礼金を得た。
――よくわかりましたね、あの方が掏摸で、懐に隠し持っているんだって。」
 お紅から感心の眼差しを向けられ、どんな表情をしていいのかわからずに寂玖が頬を掻く。
「ん… まあ大したことじゃない。掏るところが見えたし、懐も不自然に起伏してたしな。」
「寂玖様は目がいいのですね。」
「…………。」
 更に尊敬の眼差しをも向けられ、寂玖は再び頬を掻いた。
 今二人は往来の比較的少ない落ち着いた通りを歩いていた。
 しかし、その空気を壊すように、パタパタと忙しない草履の音を響かせ、背後から二人の横を駆け抜けていく若い男。
 更にその後から走ってくる――というよりかは、よろよろと歩いてくる、裕福そうな身なりの老人。
「ま、待てぇ~! そやつを、と、止めてくれ~! 泥棒じぁぁぁぁ!! ひゃぁ!?」
 彼は足を縺れさせ、寂玖達の前で倒れ込む。
「大丈夫ですか!?」
「わ、儂より、店の売り上げをぉぉぉ~!」
 お紅が駆け寄るが、老人はもう届くはずのない距離にいる盗人に向けて必死に手を伸ばしている。
「は、はい!」
 急いで立ち上がろうとするお紅を寂玖が手で制した。
「…寂玖様…?」
「ご老人。その依頼、五百文で手を打つが、どうだ?」
「あ、ああ、ああ、わかったから、早くあやつを…っ!」
 息も絶え絶えに訴える老人にくるりと背を向けた寂玖は、
「店主、一本借り受ける。」
 目の前の金物屋の軒先に並んでいた小型の包丁を一本取り上げた。
 かと思うと、寂玖の手の中から包丁が姿を消す。
「……?」
 一瞬何が起こったのかわからずにお紅や金物屋の店主、そして老人が首を傾げていると、遠くから悲鳴が上がった。
「う、うわぁぁぁぁ!? 誰だ!? なんだぁぁ!?」
 一同がそちらを向けば、寂玖がつい先程まで持っていたはずの包丁が、遠くを走っていた盗人の着物を壁に縫い付けていた。
 結局、もがいている間に遅れてやってきた役人に包囲され、盗人はお縄についた。

 このように行く先々で礼金を得、長屋に戻る頃には結構な金額が寂玖の手元にあった。
「……やる。」
 その金子の入った巾着をお紅の目の前に差し出した。
「…えぇ!?」
 お紅は驚き、慌てて手と首を振る。
「お金など戴けません!」
「どうしてだ。今までの飯代や着物代だ。」
 改めて巾着を差し出すが、お紅はなおも首を振り、控えめに微笑む。
「それは受け取れません。着物代などは私が勝手にしたことですし、お代など…。それに、このお金は寂玖様が助けてくれたことに対する皆の感謝の気持ちです。私が使うことなどできようはずもありません。どうか寂玖様がご自身のためにお使い下さい。」
 お紅の柔らかい手のひらが差し出された寂玖の手と巾着を包み込み、そっと押し戻す。
 寂玖は表情を不機嫌に歪めたが、なんと言おうと受け取る気がないことが伝わってきたので、その場は仕方なく退くことにした。
 受け取らせる方法は、まだある。
 寂玖には確かな勝算があった。
 "助けてくれたことへの感謝の気持ち"なら受け取るべき。
 お紅はそう言った。
 だが金は受け取れないと。
 ならば"感謝の気持ち"を別のものにすればいい。
――え? これを私に…?」
 末吉じいさんの所から戻ってきたお紅は、手渡された簪を見つめながら呟いた。
 緻密な細工の施された鼈甲の簪だ。
「あ、ああ……その…、なんだ… 助けてもらったりした礼にだな…」
 ひどく辿々しくではあったが、なんとか贈り物を渡すことに成功する。
 これで、金子に困った時にでも、あの絹の着物のように換金してくれればいい。
「…あの…寂玖様…?」
 一人満足げに頷く寂玖の袂をお紅がちょいちょいと引っ張ってくる。
「…ん? なんだ?」
「あの… 私、こういう贈り物を戴いたの初めてで…
 とても嬉しいです。ありがとうございます。」
 仄かに頬を染めながら微笑む姿に、一瞬鼓動が速まる。
「後生まで大事にしますね。」
「あ、ああ。」
 お紅につられるようにして寂玖もまた小さく笑い――その表情のまま固まる。
 ……後生まで大事に……?
 頭の中でお紅の言葉が静かに反響した。

 翌日から、お紅の髪には寂玖が贈った簪があった。
 いつも以上に晴れやかな表情で水仕事をしているお紅の横顔を、寂玖は複雑な気持ちで眺めた。
 売られることを前提に簪を贈ったのに、大事にされては本末転倒ではないか。
 そもそもがそういうつもりだったから、極力値の張る簪を選んだに過ぎない。
 こんなことだったらもっと歳相応の愛らしく華やかな装飾の簪にするんだったとか、喜んでくれたのならまあいいかとか、いやいやそういう問題ではないだとか、混乱する頭を掻きむしる。
――あっはっはっはっ、あんたも苦労してるんだねぇ。」
 世間話をしにやってきた小春に相談したところ、腹を抱えて笑われた。
「笑い事じゃねえよ…。」
 口を尖らせながらため息をつく寂玖に、小春はひぃひぃと息を整えてから顔を上げた。
「じゃあ、野菜とかはどうだい? それなら直接生活の足しになるし、使わずにはいられないだろう?」
「食材、か…。」
 寂玖の指が無精髭をなぞる。
 確かにそれなら理に適う。
 だが、持続性がない。
 沢山買ってやったところで日持ちはしない。
 もっと、使いたい時にいつでも使えるものでなければ…。
 寂玖がこの長屋に居られるのも、あと僅かなのだから。
 そんな寂玖の心情を察してか、小春が口を開く。
「でもまぁ、簪くらいでよかったかもしれないよ。」
 それに寂玖は首を傾げる。
「…どういう意味だ。」
 問われて一瞬躊躇うような様子を見せた後、小春は言葉を続ける。
「…実はお紅ちゃん、次の奉公先が決まっているんだよ。」
 そういえば、前にそんなことを言っていたと思い出す。
「住み込みだから、もうすぐここを引き払うことになるそうだよ。布団を買い直さないのも、金銭面の理由だけじゃなかったんだろうねぇ。」
「…………。」
「だから、簪だけでいいんじゃないかい?
 あの子は別に、あんたに何かしてもらおうとは思ってないよ。あんたが元気になってくれるのが、あの子にとって一番の願いだったんだから。」
「…………。」
 沈黙の後、寂玖は顔を上げる。
「…ここはいつ引き払うと?」
「紹介者の大家さんの話では、もうとっくに引き払っていたはずらしいんだけどねぇ……」
 そこで小春の視線が寂玖に向き、小さく微笑む。
「あんたの看病をすることになって、今まで延期していたみたいなんだよ。」
 その言葉に寂玖は瞠目する。
「…だから、お紅ちゃんがここを出るのは、あんたが無事に帰った時だろうね。」
「……そうか……。」
「…でも、正直私は反対なんだよ…。」
 小春の浮かない声に、寂玖は伏せていた顔を上げる。
「次の奉公先っていうのが、これまた問題があってね…。
 ご当主の(あかつき)様は、そりゃあもう人情に厚く聡明でご立派な方って大層な評判なんだけど…
 その息子は血も涙もないって噂なんだよ。なんでも、お酒をこぼしただけで腰元を手打ちにしたっていう噂話もあるくらいさ。」
「暁……」
 呟く寂玖に、小春が頷く。
「そう、暁様。他所から来たあんたも流石に知ってるかい?
 …全く、暁様といい、長狭様といい、親が人格者だとその息子は人非人(ひとでなし)に育つものなのかしらねぇ…。」
 小春の話は途中から耳に入ってこなかった。
 暁。
 その名前に思うところがあったから。

――今まで世話になったな。」
 寂玖は一同を振り返る。
「全快おめでとう!」
「またいつでも来てくんねぇ。今度は一緒に飲もうや。」
 小春と茂吉も見送りに来てくれた。
「ああ。」
 寂玖はひとりひとりを見渡してから、最後にお紅を振り返る。
「そちらも達者で暮らせ。」
「…はい。」
 お紅は微笑む。
 それに寂玖も小さく微笑んで返し、長屋に背を向けて歩き始めた。

「行っちゃったねぇ。」
「静かになっちまうなぁ…。」
 小春と茂吉は呟いてからお紅の方を向く。
「…お紅ちゃんも行っちまうんだろ?」
「はい。明日こちらを出ます。長い間、本当にお世話になりました。」
 お紅は深々と頭を下げた。
「い、嫌だよぉ改まって。」
「おいおい湿っぽいのは無しにしようや。今生の別れってわけでもないわけだしな。たまには顔見せに来てくれよな。」
「はい。末吉さんのこと、よろしくお願いします。」
「ああ、任せとくれよ。」
「じいさんの世話は長屋のみんなでするからよ。」
「お紅ちゃんは安心してお勤めに専念しておいで。」
「…はい。」
 お紅はもう一度、深々と頭を下げた。

 小春・茂吉と別れたお紅は自宅へと戻る。
 寂玖にまた遊びに来て下さいねと言えなかったことを少し残念に思いながら。
「…………」
 ひとりしかいない空間とは、こんなにも静かだっただろうか。
 他所に比べたら、本当に何もない部屋。
 けれどそんな場所でも、彼女にとっては唯一のかけがえのない大切な場所だった。
 この長屋とも、明日でお別れ。
 お紅はこの部屋を目に焼き付けるかのように、暫く何もせずに眺めていた。

 続く!