花には一振りの剣を(前編)

「姉上! おはようございます!」
 どたどたと元気な足音で床を鳴らしながら入ってきた少年に、その場にいた腰元達は一斉に頭を下げた。
 その中心にいた姫は、傍に腰を下ろしてくる弟に向き直る。
「おはよう獅子。今日は一段と溌剌としてますね。」
 漲る活力を隠そうともしない弟に微笑むと、彼は更に嬉しそうな顔をする。
「そりゃあもう! 今日は稽古の日ですから!」
 拳を握りしめて天井を仰ぐ姿にまた小さく笑みを漏らす。
「…そういえば、今日はあなたの大好きな"師匠(せんせい)"がお越しになる日でしたね。」
「はい!」
 師匠と言う単語を出され、彼がとびきりの笑顔で頷いていると、遠くから彼の名を呼ぶ声が近づいてくる。
――さま~! 獅子若丸様~!」
「…真珠殿?」
 駆け込んで来たのは若い娘だった。腰元達に囲まれている二人の姿を見つけ、方向転換して部屋へと入ってくる。
「獅子若丸様! 麗奈様!」
「真珠様、どうなさいました?」
 慌てながら二人の前に腰を下ろす真珠に、麗奈と獅子若丸が首を傾げる。
 問われた真珠は、何度か息を整え、困った顔を持ち上げた。
「じ、実は……」

 娘が一人、戸を開けて現れた。
 彼女は清々しい空を見上げて深呼吸してから、足元に置いていた桶を手に家を出る。
「小春さん、おはようございます。」
「おはよう。今日はいい日和だね。」
「ええ、とても。
 …あ、茂吉さん。この間は屋根の修繕ありがとうございました。」
「おお、お紅ちゃん。なぁに、あれくらいなら朝飯前さね。いくらでも修理してやるさぁ。何かあったら、また声かけてくんな。」
 隣接する長屋と長屋の間を歩きながら、行き交う面々と会話を弾ませる。
 そうして目的の井戸まで行き着き、備え付けてある縄を引いて汲み桶を引き上げる。
「よい、しょ。」
 汲んだ水を持参した桶に汲み換え、よろよろとしながら来た道を戻り始めた、その途中。
「あっ! お(こう)~~~!」
「お紅姉~~~!」
 自分を呼ぶ声に引き留められ、彼女は手桶を土の上に置いて振り向いた。
(あける)瑞菜(みずな)、どうしたのですか?」
 男女二人の子供が必死の形相で走ってきて、彼女の着物の手近な場所をそれぞれ掴む。
「大変だよお紅!」
「人がね、血まみれなの!」
「血まみれ…?」
「と、ともかく、早くぅ~!」
「こっちこっち!」
 馴染みのない単語に顔を顰めている間に、彼女は子供二人に手を引かれていった。

 子供の言うことだ。てっきり大袈裟に言っているものだと思っていたが、それは確かに寸分違わず血まみれだった。
「うわ、こいつはひでぇな…。」
「やだ…最近横行しているっていう辻斬にやられたのかしら…!」
 騒動に何事かとついてきた長屋の面々は、その光景に顔を強張らせた。
 長屋の裏で、壁を背に座り込んでいた一人の男。
 彼の手は腹に添えられており、その周辺一帯は毒々しいほどに赤い。
「…ね、ねぇ…、このおじちゃん、死んじゃったの…?」
 お紅の影に隠れるようにしながら瑞菜が訊ねてくる。
 呆然としていたお紅がその問いに震える唇を動かすより早く、男の体がゆらりと動いた。
「…っ 見せもんじゃねえ…、失せろ…っ!!」
 なんとか壁伝いに立ち上がり、野次馬を一蹴すべく長い手を大きく振ったが、男はそのまま力尽きて地面の上に倒れた。
「…………あ…」
 そうして今度こそぴくりとも動かなくなって漸く、お紅は正気を取り戻す。
「た、大変…!! 茂吉さん、小春さん、この方を運びます! 手伝って下さい!!」
「え…、それはいいけど…どうする気だい!?こんなの…!!」
「と、ともかく手当てするしかありません!」
「手当てって…! こんな状態じゃあ…っ!
 それに、顔に古傷もあるし、ひょっとしたらヤクザ者かもしれないよ!?」
「お願いします! 私が担ぎますから、一緒に支えて下さい!」
 お紅は周囲の返事を待たずに気を失った男の腕を肩に回した。男の体は大きく重く、押し潰されそうになるのを必死で耐える。
「し、仕方ねえ! 小春さんはそっち頼む!」
「わ、わかったよ…!」
「瑞菜はお湯を沸かして! 朱はできるだけ綺麗な布を集めてきて!」
「う、うん、お湯だね!」
「しょ、しょーがねーな、後で遊べよ!」
 斯くして、平和な長屋は一気に騒然とした空気に包まれたのだった。

 ぼやけた天井を見ていた。
 かなりゆっくりではあったものの、やがてそれは鮮明になっていく。
 その輪郭全てがしっかりとする頃になって漸く、意識が戻ってくる。
「…………」
 それでも暫く天井を眺めてから、彼はゆっくりと体を起こした。
 その際、彼の上にあった何かがずり落ちる感覚がして、反射的にそれを掴んだ。
「……?」
 それは随分と使い古された女物の着物だった。
 彼は周囲を見回す。
 狭い部屋。
 古びた畳。
 奥の方に衝立がひとつある程度で、卓すら見当たらない。
 唯一竈から立ち上る湯気だけが、そこに人が住んでいることを証明していた。
 この着物の主はどうやら不在のようだ。
 そう思った瞬間に戸が開き、娘がひとり入ってくる。
「…あ…」
 戸を閉めた彼女が振り返り、彼が身を起こしていることに気づく。
「目が覚めたんですね。よかった…。」
 胸を撫で下ろした彼女は彼の傍までやって来て腰を下ろした。
「私は(こう)って言います。あなたは?」
「…………」
 彼は答えずに目の前にいる娘を見る。
 彼の掴んでいるものと同様の鄙びた着物に襷掛けを施し、髪を木製の簪ひとつで留めた娘であった。歳の頃は十六、七くらいだろうか。
「……えっと…、ひょっとして、まだ意識が……?」
 押し黙ったままの様子に不安そうな顔をされ、首を振って見せると、彼女――お紅の顔が安堵に緩んだ。
 何気なく自分の顎に手を当ててみると、元々生えていた無精髭が随分と立派になっていることに気づく。
「…俺はどのくらい寝ていた?」
「え… あ、はい、今日で四日目です。」
「……四日……。」
 思った以上に、長い。
 その呟きにお紅が頷く。
「長屋の裏に倒れてたんです。憶えていますか?」
「……ああ。」
 そう答えながら、自分に掛けられていた着物を押し付けるように彼女に手渡す。
「世話になった。礼はする。」
 短くそれだけ言って立ち上がろうとする彼に驚き、お紅が慌てて止めに入る。
「ま、待って下さい! まだ傷も申し訳程度にしか塞がってないんです!」
 なんとか彼を押し止めて座らせ、彼女は優しく微笑む。
「狭くて何もないところですが… もう少しだけ我慢してここで養生して下さい。」
「…………」
 縋るように着物を掴む彼女を見下ろし――彼は仕方無しにその言葉に従うことにした。
 体を動かしてみて初めてわかったが、確かに今の状態では歩くことすらままならなさそうだった。

「遅くなりました。ご飯ですよ。」
 そう言って起こされたのは、日が暮れて少し経った頃だった。
「起きられますか?」
「…ああ。」
 大きな肩を支えてもらいながら、彼は体を起こす。
「えっと…少なくてごめんなさい。あなた様の体に見合うだけの量があればよかったんですが……味もお口に合うかどうか…。」
 申し訳なさそうに微笑みながら、箱膳が差し出される。
 玄米飯、二種類の漬物に、青菜の味噌汁。
 彼の手が箸を取る。
 そこからはあっという間だった。
 元々かなり少量だった上に、四日間分の空腹だ。目にも留まらぬ速さで皿から料理が消えていく。
 次は椀を手に取り口に流し込みながら、視線を感じてお紅の方を見る。
 彼女は彼の食べる姿を微笑ましげに見守っているだけだった。
「……お前は食べないのか?」
 もごもごと口を動かしながら問うと、彼女はまた微笑む。
「先に戴いてしまいましたので。」
「……そうか。」
 きっと寝ている間に食べていたのだろう。
 そう心の中で納得して再び流し込み作業を始めたが、すぐに全ての器が空になった。

――お紅、居るんだろ。」
 無作法にどんどんと戸が叩かれたのは、夜も更け始めた頃であった。
 その音にか、はたまたその声にか驚いたお紅は、彼が掛けていた着物を一方的に頭の方にまで掛け直してから戸口に向かった。
長狭(ながさ)様? どうされたのです?」
 彼女は素早く外へと出ると、後ろ手で障子戸を閉めた。
 来客はいい年をしたが男三人。
 お紅の目の前にいる一番体の大きな男が、武家の若き殿様・長狭。その後ろに控えている二人は長狭の腰巾着。控えめに見ても、揃いも揃って人相が良いとは言い難かった。
「お借りした分はもう全額お支払いしたはずでございますが…。」
 お紅が訊ねると、長狭は口の端の笑みを吊り上げる。
「か~、つれないねぇ。会いに行っただけで煙たがられるとはよぉ。お前の父親にはあんなに目を掛けてやったってぇのに。」
「…お言葉ではございますが、目を掛けて下さったのは大殿様です。」
 にこりと言い放たれ、長狭は鼻を鳴らす。
「その『大殿様』が死んだらその息子は他人ってか。冷たい女もいたもんだなぁ。」
「…………」
 無言の微笑みで先を促すお紅に、長狭は肩を竦めて先を続ける。
「そう、残念ながら今日は借金の取り立てじゃねぇ。」
 そう言って長狭はお紅の肩に肘を置く。
「お紅… お前、最近この辺で浪人を見かけなかったか?」
「…浪人様…ですか?」
 耳元で呟かれ、お紅は首を捻る。
「そうだ。顎には無精髭、左頬から首にかけて傷痕があり、かなりの身の丈。無愛想でひねくれ者で甲斐性無しの浪人らしい。」
「……はぁ。」
 お紅は首を捻ったまま適当な相槌を打つ。
 人捜しに無愛想はまだしも、ひねくれているとか甲斐性の有り無しの情報が必要かどうかは甚だ謎だが。
「どうだ? 心当たりは。」
「そのような方は存じません。」
「…そうか、まぁいい。
 いいか、もし見掛けたらすぐに俺に教えろよ。必ずだぞ。少しくらいは分け前をくれてやる。わかったな?」
 そう念を押してから三人は去っていった。
「…………。」
 お紅はその後姿を見送り、ため息をついてから部屋に戻る。
 すると、男が物言いたげな顔を向けて待っていた。
「…なんで話さなかった。」
「? 何がですか?」
 問い返しながら彼の脇に腰を下ろす。
「今の連中、俺を探してたんだろ。どうして言わなかった。」
 何故か睨むように見上げながら言われて、お紅は瞬きを数回してからふんわりと微笑んだ。
「ああ、あれ、あなた様のことだったのですか? 気づきませんでした。」
 くすくすと笑われ、彼はむすっとした表情でお紅に背を向ける。
「…金子(きんす)が欲しけりゃ今すぐあいつらを追うことだな。」
「あなた様はそんなにあの方々に突き出して欲しかったのですか?」
 お紅は思わず苦笑する。
「こんな状態でもあんな奴等にひけを取るつもりはないから好きにすれば良いと言ってるんだ。」
 どこかひねくれたその後ろ姿に、お紅はまた小さく微笑う。
「長狭の殿様にあなた様の特徴を教えた方は、あなた様のことをよくご存じなのですね。」
「……どういう意味だ。」
 声に明らかな不機嫌さが混じる。それがまたお紅の笑いを誘う。
「…私は別に金子欲しさにあなた様を助けたわけではありませんから。」
「…………。」
 彼からの反応がなくなり、寝入ったものだと思ってお紅は立ち上がる。
「……寂玖(さびく)だ。」
「……はい?」
 唐突に発せられた言葉が何を指しているのかわからず、お紅は立ち止まって訊き返した。
 それに彼は同じ言葉を繰り返す。
「…寂玖だ。
 言い忘れていたが、それが俺の名だ。」

 翌日の朝は実に賑やかだった。
「おぉー!動いてるぞこいつー!」
「動いてる~動いてる~!」
 朱と瑞菜が片肘を突いて横たわる寂玖の上に登ろうとしては落とされ、登ろうとしては落とされを繰り返している。
「…でもまさか、本当に助かるとはねぇ。正直、あの時点でもうダメだと思ってたよぉ。」
「だなぁ。
 オメーさん、お紅ちゃんに感謝せにゃいかんぞ。寝る間も惜しんで看病しとったんだからな。」
「…………。」
 空いている方の手で子供達を適当に払い落としつつ、寂玖は大人二人の会話に耳を傾けていた。
 確か小春と茂吉という名だったか。
 それと、寂玖を砂山か何かと勘違いしているこの子供二人を含めたこの場にいる全員が、寂玖救出に関わった者達なのだとお紅に紹介された。
 彼等は寂玖が目を覚ましたことを聞いて様子を見に来たのだという。
 どちらかというと好奇の目を感じながら、寂玖はふとひとり足りないことに気づく。
「……そのお紅はどうした。」
 寂玖の言葉に茶を啜っていた小春が顔を上げる。
「お紅ちゃん? お紅ちゃんなら隣の末吉じいさんの所に行ったよ。」
「じいさん…?」
「…ああ、違う違う。」
 呟いた寂玖の意図を察し、湯飲みを置いてパタパタと手を振る。
「血の繋がったじっさまじゃないよ。」
「誰に言われたわけでもないのに、ボケ老人の世話まで焼いて… 本当に良い娘さんだよ。」
 そう言って二人はうんうんと頷き合った。
「…家族はいないのか?」
 少し迷った末にずっと気になっていたことを口にする。
 誰かが帰ってくる様子もなければ、誰かを待っている様子もない。
 すると、二人の表情が分かれた。
「一昨年おとっつぁんを亡くしてしまってね…。元々父娘(おやこ)二人だけの家だったから…」
「…それなのに…あの長狭の馬鹿様の野郎…!」
 茂吉が吐き捨てた聞き憶えのある名前に、寂玖の眉が跳ねる。
 昨夜やってきた男達のうちのひとりを、お紅はそう呼んでいたはずだ。
「……確か借金がどうとか……」
「そうそう、それだよ!」
「さてはあんにゃろ、またお紅ちゃんをイビりにきやがったか!?」
 思い出しながら呟いた寂玖の言葉に、小春と茂吉の表情が一変する。
「あいつ、おやじさんが借金してたっつって返済を迫ってきやがったんだよ!」
「しかもお葬式の最中にだよ!? 信じられるかい!?」
「…借金してたってのは本当だったのか?」
「んなわけあるか!」
 寂玖の質問に茂吉が激昂する。
「凄い誠実な人だったんだよ。借金なんてとんでもない! 奉公先を失ってからは、お紅ちゃんにお金の苦労だけはさせまいと、それはもう一生懸命に働いてたんだよ。」
「…だがお紅ちゃんはおやじさんの名を出されたら払わない訳には行かねぇ…。」
「おとっつぁんの面目を潰すまいと、身を削るように必死に働いて返したんだよ…。」
 小春は俯いて唇を噛み、茂吉は膝に置いていた拳をきつく握りしめていた。
「…それも漸く終わったと思って喜んでいたのに…」
 そこで二人の表情が曇り、寂玖は顔を顰めた。
 だが寂玖が何かを言うより早く、お紅が戻ってきた。
「只今戻りました。」
「お、おう、お帰りお紅ちゃん。」
「……どうかしましたか?」
 どことなく暗い空気を察したのか、お紅が心配そうに訊ねてくるので、二人は慌てて笑顔を繕う。
「いんや、なんでもねぇよ。」
「そ、そう! この人が元気になってよかったねって話をしてたところだよ!」
 無理矢理話を振られ、寂玖はどうしていいのかわからずにとりあえず鼻先に突き付けられた小春の人差し指を見つめてみる。
「でも……」
 お紅は苦笑しながら……視線で彼等とは違う方を示した。
 その先にいたのは――
「お、おごおぉぉ~~! ぐろうじでだんだなぁぁぁぁ~~!」
「おごおねえ~~~~!! しゃっきんがんばったねえぇぇぇぇ~~!」
「…お前ら、本当に意味わかって言ってんのか…?」
 滝のように涙と鼻水を垂れ流しながら号泣している朱と瑞菜に、寂玖は思わず呆れ顔で突っ込んだ。

 茂吉達が去った後は一転して静かになった。
 お紅も八百屋に買い物に出掛け、ひとりでただ寝ているのもいい加減飽きてくる。
 書物のひとつでも借りようかと思い立ち、寂玖は身を起こして周囲を見渡した。
 だがそこにはやはり箪笥ひとつなく、箱膳が二箱積み上げられているのみ。
 そういえば、お紅はいつも同じ着物を着ている。
「…………」
 寂玖は部屋の角に設けられた衝立の中を覗き込んだ。
 そこには本来あるはずの寝具すら見当たらない。
 裁縫道具といくつか物が置いてある程度だった。
 その中に桐の箱を見つけた。
 年季は入っているものの、大切そうに絹の紐で括られている。
 それが周囲に比べて場違いな感じがして――妙に寂玖の気を引き、失敬して蓋を開けてみた。
 中に入っていたのは小綺麗な絹の着物だった。
 親が遺した嫁入り道具だろうか。
 とにもかくにも、まだ他に着物があったことになんとなく安堵して、寂玖は桐の蓋を閉じた。

「寂玖様、ご飯ですよ。」
 夜も更け始めた頃、お紅は昨夜同様に寂玖を起こしてから箱膳を差し出した。
 だが、やはりお紅の分はない。
「……食べないのか?」
「はい、先に戴いてしまいましたので。」
 お紅は寂玖の食べる様をにこにこと見守っている。
「…………」
 それを横目に見ながら、寂玖は次々に料理を口に放り込んだ。
――お紅!!」
 唐突に戸が開け放たれ、二人の視線がそちらに向く。
 どかどかと不躾に入ってきたのは、言わずもがな、昨夜の長狭三人組だった。
 お紅は慌てて寂玖を背で隠す。
 だが時既に遅く、三人はいやらしい笑みを浮かべていた。
「見~ちゃった見~ちゃった~。」
「いけないんだ~お紅。長狭の旦那に嘘ついて~。」
 歳甲斐もない口調で取り巻き二人が囃し立てると、長狭がやれやれと首を振る。
「お紅… お前にはガッカリだぜぇ? 件の浪人を見かけたら教えてくれって頼んだのによぉ~。」
 お紅はへらへらと笑う三人にキッと眉尻を持ち上げ――
――お借りします!」
 後ろ手で寂玖の側に置いてあった刀を取り、慣れない手つきで抜き放った。
「そ、それ以上入ってこないで下さい! この方をお渡しするわけには参りません!」
 鋭く光る切っ先を長狭に向けてお紅が叫ぶ。
 だが彼等はそれを傑作とばかりに笑い飛ばした。
「果敢だなぁお紅ちゃん。」
「でも、震えてるのがバレバレだぜ~?」
「お、脅しじゃありません!」
 言葉とは裏腹に、その声は悲鳴に近かった。
「お~怖い怖い。」
 刀を構え直すお紅に、長狭は肩を竦めてそれを茶化す。
「だが、さっさと刀を下ろした方が懸命だぜぇ? 切っ先がひどくブレてるじゃねえか。どうせ持っているだけで精一杯なんだろうぉ? さぁ大人しくそれをこっちによこしなぁ!」
 そう言いながらお紅に向かって手を伸ばし――
 長狭の動きが止まる。
「…………」
「……長狭の旦那?」
「…………」
 彼はなおも暫く固まった後、
「……興が削がれた。」
『へ?』
 小さく呟くと、急に身を翻す。
「……帰るぞ。」
 怪訝そうな顔をする取り巻き二人の間を抜けて、長狭はさっさと部屋から出ていってしまう。
「え? ちょ、待って下さいよぉ~!」
「旦那ぁ~!」
 腰巾着二人組も慌てて長狭を追って出ていった。
「…………」
 彼等の姿が見えなくなって漸く、
「……はぁ……。」
 お紅は脱力し、刀を握り締めたまま畳に座り込んだ。
「……ほら、危ねえからとっととよこせ。」
 後ろから寂玖が半ば奪い取るようにして刀を取り上げて鞘にしまう。
「…全く無茶しやがる。
 腹に穴が空いてようが、あいつらくらいどうってことないと言っただろうが。少しくらい信用しろ。」
「…ごめんなさい…。」
 彼は肩を落とす様子に小さく息をつき、しょげたお紅の頭をぽんぽんと叩く。
「……ありがとな。」
 微かに聞こえた礼にお紅が瞠目して振り向くと、寂玖は既にこちらに背を向けて横になっていた。

――旦那!」
「長狭の旦那っ!」
 幾度か名前を呼ばれてやっと、長狭は足を止めた。
「…旦那、よかったんですかい? 折角件の浪人を見つけたってぇのに。」
 追い付いてきた取り巻きの片方が不満げに訴える。
「……お前ら、あいつの殺気に気づいてなかったのか?」
 強張った表情で振り返った長狭に、二人はきょとんとした。
「…え、あんな小娘に睨まれても痛くも痒くも……なぁ?」
 隣に並んだ取り巻きが、同意を求める視線をもうひとりの取り巻きに投げる。
「あ、ああ。」
「馬鹿かお前ら! お紅なわけあるか! 浪人だよ!あの浪人!!」
 長狭は一通り怒鳴り散らすと、くるりと背を向けてわなわなと震える。
「あの野郎… 俺様があれ以上踏み込んでいたら確実に何か仕掛けてきただろう…。」
「ほ、ほんとっすか?」
「それじゃあどうすんすか、あの浪人。折角見つけたのに…。」
 長狭は震えていた肩を起こして二人を睨むように見返す。
「…いいんだよ。必要なのはあの野郎の居所だ。下手なちょっかいかけて怪我することもねぇだろ。」
 そう言ってそそくさと退散する後ろ姿に、二人はまた見つめ合う。
 身の程もわきまえず、誰彼構わずぎゃんぎゃん噛みつこうとする主がこんなにも素直に引き下がるなど、長い間腰巾着を勤めてきた彼等には到底信じられないことだった。
 二人は不安げな眼差しでどちらからともなく夜空に瞬く星を見上げる。
 彼等にとっては、長狭を恐れ戦かせたあの浪人よりも、これから起こるかもしれない天変地異の方が余程恐ろしかった。

――あら、お紅ちゃんは?」
 声を掛けながら入ってきたのは、いつも通りふくよかな体を割烹着で包んだ小春だった。
「隣に行ってる。」
 寂玖は肘を突いてない方で壁を指さしてみせる。その方角には、寝たきりで動けない老人・末吉の部屋があった。
「お紅ちゃんは本当に偉い娘さんだねぇ…。」
 頬に手のひらを当ててひとり頷き感心してから、小春は寂玖に向き直った。
「これ、少ないけど戴き物のお裾分け。お紅ちゃんに渡しておいてもらえるかい?」
「…ああ、わかった。」
 上体を起こして胡座をかいた寂玖は、小春から大きな蕪を受け取った。
「…でもほんと、元気になってよかったよ。私達が見つけた時は、あんた、もう今すぐにでも息がなくなるんじゃないかって状態だったんだから。」
 今ではそんな様子が微塵もない寂玖を見て、しみじみと語る。
「あんたも、あんたを担いで運んだお紅ちゃんも血だらけで… あんたを寝かせた途端に布団なんかあっという間に血の海になって…。」
「…………」
 小春の言葉に寂玖は沈黙する。
「……代わりに…というわけじゃないけど、回復するまでの間だけでも、お紅ちゃんの話し相手になってあげて頂戴ね。
 この長屋には歳近い子がいないし… あの子、顔には出さないけど、きっとずっとひとりで淋しかったでしょうから…。」
 最後にそう言って優しく微笑み、小春は出ていった。
「…………」
 障子戸を見つめていた視線がゆっくりと衝立の方に向く。
 つまり、この部屋に布団が無いのは、他ならぬ自分のせいだったわけで。
「……っ。」
 寂玖は自分のぼさぼさした長い髪を掻きむしった。
――只今戻りました。」
 そうしているうちに、いくつかの野菜と反物を抱えながらお紅が帰ってくる。
「……? なんですか?」
 それを物言いたげな目で迎えた寂玖に小首を傾げたが、無愛想はいつものことと思ったか、特に気にした風もなく微笑んでから竈に向かっていった。
 その日のお紅は、食事を作る以外はずっと針仕事をしており、寂玖は邪魔にならないように部屋の端で大人しく寝転がっていた。
 腹に風穴が空いたことにより、本人が思っている以上に体力が落ちていたのだろう。昼間にどれほど寝ようと、夜に目を覚ますことはなかった。
 だが、漸く体力が回復してきたのか、この日ここに来て初めて寂玖は夜中に目が覚めた。
 体を起こして見れば、彼を見守るかのように壁に背を預けながら座って寝ているお紅の姿があった。
 今まで先に寝て後に起きていた寂玖は、自分が寝ている間にお紅がどうしていたかをこの時初めて知った。
「…………。」
 寂玖は小さくため息をついた。

 その翌朝。
 やはり順調に快方に向かっているらしく、寂玖はお紅が小さく身動ぎする音だけで目が覚めた。
 お紅自身もそれで目を覚ましたようで、ゆっくりと半身を起こす。
 そして、
「え…?……これ……、あれ…?」
 寂玖が掛けていたはずの着物を掛け、寂玖が寝ていた場所に自分が寝ていたことに気づいて驚きの声を上げる。
 寂玖を捜し慌てて顔を上げると、彼は自分が寝ていたはずの場所で、肩に立て掛けた刀を抱えるようにしながら胡座をかいていた。
「さ、寂玖様!? ちゃんと横にならないとお体に触ります!」
 布団代わりの着物を寂玖に掛けようとするお紅の手を寂玖の手が押し戻す。
「それはお前が使え。」
「でも……!」
 お紅が渋っていると寂玖が不機嫌な表情になったので、お紅は仕方なしに手を引いた。
「……わかりました。」
 苦笑がいつもの微笑みに変わる。
「随分お元気になったようで何よりです。でも、完全に回復するまで、もう少し安静にしていて下さいね。」
 彼女特有の柔らかい表情。
「……ああ。」
 半ばそれにつられるように、寂玖は大人しくそう返していた。

 続く!