第7話

 夜の帷が下りた頃。
 サビクは草の上に腰を下ろした。
 この丘からは、一軒の家が臨める。
 明かりが灯っているのはリビングだった。
 そこでは三人の子供が、それぞれの時間を過ごしていた。
 少女は、すぐ傍らに控える青年に、大きな身振り手振りを交えながら楽しそうに話し掛けている。
 青年は、少女の話を、無表情ながらも真剣に聴き入り、相槌を打っている。
 少年は、ソファに座って大きく分厚い本に視線を落としている。立派な神官になるべく勉学に勤しんでいるのだろう。
「……あいつら、夜更かしする気満々じゃねえか……。」
 小さくため息をつきながら、その光景を眺める。
 二番目の息子である昴は、相変わらず勉強熱心だ。ちょっぴり心配性なところが玉に(きず)だが、真面目で面倒見が良い。
 長男である(かける)は最近家族として迎え入れたばかりではあるが、皆を理解しようと彼なりに努力してくれている。今まであまり人と関わってこなかったせいか感情を出すことが苦手のようだが、その戦闘技量の高さには驚くばかりだ。
 一番下の茜は誰とでも仲良くなれるから、翔が打ち解けるのにも一役買ってくれているし、彼女の笑顔は笑顔を作る。
「……親はなくとも子は育つ……か……。」
 彼等の様子を見守っていたサビクは、少し淋しさを含んだ微笑()みで呟いた。
 人扱いされず、兵器となるべく育てられてきたはずの自分が、今は三児の父である。
「綺麗な嫁さん貰って、かわいい娘息子に恵まれて……
 俺には十分過ぎる人生だったよな…。」
 微笑(わら)いながら立ち上がり、その場から去るべく踵を返そうとして――
 薄暗い寝室に紅主が入ってきたのが見え、ふとその足を止めた。

 扉を開けると、その音に彼等の視線が向く。
――父さん!?」
「サビク?」
 その姿を見留めた昴と翔が驚きの声を上げ、
「お父さんだ~!」
 茜に至っては、一直線にサビクの脚に抱きついてくる。
「父さん、何かあった――
 心配そうに口を開きかけた昴であったが、サビクが人差し指を口に当てたので、三人は揃って口をつぐんだ。
「……悪い、話は後だ。お前達はここにいてくれ。」
 サビクはもう片方の手で茜の頭を撫でると、短くそれだけを告げて、また扉の向こうへと消えていった。

 家事を終えた紅主は、寝室に入って一息ついた。
「…………」
 自分ひとりしかいないその空間は、静寂に満ちている。
「…………」
 紅主は、月明かりの差し込む部屋に鎮座する広いベッドに腰掛け、その中央にそっと手を置いた。
「……今日も一日が終わりましたよ。」
 語りかけるように、紅主が言う。
「今日は翔も昴達と一緒に料理をお手伝いしてくれたんですよ。
 でも、最初は包丁を持つ手つきがとても危なっかしくて…」
 その時のことを思い出し、くすくすと微笑(わら)う。
「…昴が翔に、丁寧に色々と教えてくれて、作り終える頃には、包丁を握る姿も結構様になっていたんですよ。」
 ベッドに触れている手のひらを見つめながら、紅主は続ける。
「……ああ、あと……
 茜がサビクさんの似顔絵を描いてくれましたよ。
 サビクさんの特徴がよく出てて… 上手に描けていたので、壁に飾っておきましたからね。」
 そう言うと、窓から煌々と輝く月を見上げる。
「……子供達は、強く、元気で、優しい子に育ってますよ。
 ……でも……」
 紅主はゆっくりと視線を手元へと戻す。
「……でも……私は……」
 ぽたり、とベッドに雫が落ちる。
「私は…… 弱くてダメですね……」
 微笑もうした瞳から、ぼろぼろと雫が零れていく。
 サビクが紅主を見ても無反応だったあの時、とてもショックだった。
 それでも、まだどこか信じられずにいた。
 だが、セリーシアと連れ立って去り行く後ろ姿を見た時、『シグ』は『サビク』ではないのだという現実を突き付けられた。
 そして、少しでもサビクの傍にいたいという想いを捨てきれずにいたせいで、セリーシアを傷つけてしまった自分の弱さを恥じた。
「…さびく、さんっ…」
 離れていても、サビクは幸せに過ごしている。ならば何も悲しむことはないと、何度自分に言い聞かせても、心が納得してくれない。
「…さびく…さっ…」
 最早止められないと悟り、ベッドに顔を伏せる。
「……っ……さび、く…さん…っ……会い、たいっ……会いたい、ですっ……」
 顔をうずめて必死に声を押し殺す。
「……っ……」
 遂には言葉にもならなくなり、紅主はベッドにしがみつき、泣きすがった。
「う…っく……っ…うぅっ…、う…っ」
――紅主。」
 静かな室内に、低く落ち着いた声が響く。
 聞き違えることない声。
「……っ……!」
 次いで温かく大きな手が、彼女の震える背中に触れる。
「…っ、さびく、さん…!」
 紅主はなんとか顔を上げて振り返り、背後にあったその胸に顔をうずめた。
 二本の長い腕が、紅主の体をしっかりと受け止める。
「…サビクさん……サビクさんっ…」
「辛い思いをさせて、すまなかった。」
「…っ… う… ぁ… ああああっ」
 紅主の瞳から、また大粒の涙がいくつも伝った。

「……紅主、落ち着いたか?」
 月を眺めながら紅主の髪を撫でていたサビクは、頃合いを見て声を掛けた。
「…………」
 すると、サビクの腕の中から紅主がおずおずと控えめに顔を覗かせ――
「……サビクさん……?」
「ん?」
「……本物のサビクさんだ……。」
 少し困惑したように呟く。
「ああ。幻とかじゃないぞ。」
「…………」
 すると、紅主の顔がまたサビクの胸に消え――
「…お、お恥ずかしいところを…」
 耳まで真っ赤に染めて、か細い声で呟いた。
 それにサビクはくすっと微笑(わら)う。
「まさか、本当に幻の類いだと思ってたのか?」
「いえ……それは……
 えっと… でも…その……
 さっきはちょっと…色々と混乱していて……
 ……うぅぅ……恥ずかしいです……。」
 紅主がサビクの服を掴んで更に顔を沈めてさせていくので、サビクはまたそっと彼女の髪を撫でた。
「……でも、正直嬉しかったよ。
 もう俺は、ここには必要ないのかと思った。」
 サビクの言葉に、紅主はぎゅっと身を寄せてくる。
「そんなこと、あるわけないじゃないですか…!」
「…ああ、悪かった…。」
 サビクも彼女を強く抱き締め返しながら、窓から見える夜空を仰ぐ。
 きらきらと瞬く星々。ほのかに光り輝く月。
 それらに見守られながら、二人だけの時が、静かに流れる。
「……おかえりなさい、サビクさん…。」
「……ただいま、紅主。」

 優しい月明かりが照らすベッドの中で、紅主は眠りについていた。
 彼女の手がつなぐ先には、その傍らに腰掛けるサビクの姿があった。
「…………」
 彼女の安らかな寝息を聞きながら、暫くその寝顔を眺め――
 そっと彼女の手を解くと、彼は部屋を出た。

 リビングに入ると、扉の前で子供達が待っていた。
「…父さん、母さんは…」
「ああ、先に休んだ。だから、あまり大きな声は出さないようにな。明日の朝までゆっくり寝かせてやりたい。」
 それに三人が揃って頷いたのを確認すると、サビクも「よし」と頷き、
――じゃあ、明日の朝食作りの補佐要員を募集する。」
 と、宣言した。
 それにいち早くぴっと手を上げたのは茜だ。
「はい! 手伝いますっ!」
「助かる、茜。」
 次いで控えめに手を上げたのは翔だ。
「俺も手伝う。包丁もそれなりに使えるようになったからな。」
「へえ… それは凄いな。」
 ほんの少しだけ得意気にする翔の隣で、ため息をつく昴。
「勿論、僕も手伝いますよ…。また完全無味の肉の丸焼きとかを出されても困りますしね…。」
 それにサビクはげんなりと言う。
「…お前、あのキャンプの時のこと、まだ憶えてたのか?」
「当たり前です。」
「あんまり過去のことばかりほじくり返す男は、いい嫁さん貰えないぜ?」
「あの味無し肉事件がそれだけ鮮烈だったってことです。」
 茶化され、むっと言い返す昴。
 ――が、その表情がふっと崩れる。
「…どうやら、本当にちゃんと『父さん』のようですね。」
「ああ。」
 それにサビクも微笑んで膝を折り、長い両腕で三人を抱き寄せた。
「…心配かけてすまなかった。
 だが、お前達が紅主の傍にいてくれてよかったよ。ありがとな。」
 面と向かってそんなことを言われ、昴が赤面する。
「な、何言ってるんですか。そんなの、わざわざお礼を言われることじゃありませんっ。」
 慌てて離れようともがくが、それを許すサビクではない。
「茜はお父さんとお母さんの子だもん! いつだって、一緒だよ!」
 そう言いながら、茜は自分の柔らかい頬をサビクの無精髭にジョリジョリと擦り付けている。
「……まぁ、どうやらそういうことらしい。」
 最後に翔が口元を微笑ませる。
「……そうか……。」
 サビクは三人の体温を感じながら、幸せそうに呟いた。

「今日は晴れてよかったですね。」
「絶好の、ピクニック日和~♪」
 広げた敷物の上に座って言う紅主と、その周りで蝶を追いかけ回しながら歌うように言う茜。
 男性陣はというと、川縁で水を汲んだり、魚の様子を眺めたりして、食後のひとときを満喫していた。
――それにしても、いつ記憶が戻ったんですか?父さん。」
 と、満タンになった水筒の口を閉めながら昴。
「ん? ああ… それは、アレだな。息子達の愛の鉄槌のお陰だな。
 あの一撃を食らった辺りから、なんとなく記憶が戻り始めた。」
「…は? あ、愛…!?」
 水筒を鞄にしまおうとしていた昴の手が止まる。
「あの拳はなかなか効いたぜ?昴。もやしっ子だと思っていたが、お前も漸く力がついてきたみたいだな。
 しかし、まさかお前が迎えにきてくれるとは思ってなかったから、嬉しかっ――おおっとぉ!」
 言葉通り嬉しそうに微笑(わら)うサビクの顔前を、鋭く振るわれた大きな本の背が過ぎる。
「…って、昴…。こんな所にまでそんな重たいもん持ってきて…」
「べ、別にあれは、そんなつもりじゃないですからぁ!」
 ぶんぶんと本を振り回す昴だったが、サビクはひょいっひょいっと軽くよける。
「いい動きになったじゃねえか、昴。
 でも、まだまだだな。」
「ぼ、僕は別に、父さんみたいになりたいわけじゃありませんからっ!
 僕が目指しているのは、母さんのような立派なプリーストですからっ!」
「いやお前、完全にコレ殴りだよな?
 ――うぉ!?」
 突然横手から拳が飛来し、慌てて避けるサビク。
「手合わせなら俺も付き合おう。」
 間を置かず、蹴り、裏拳、回し蹴りと流れるような攻撃を仕掛けながら、翔が参戦してくる。
「ちょっ… いやいや待て待て。流石にお前ら二人がかりは…」
 そう言いながらも、次々と繰り出される攻撃の悉くを受け流していくサビク。
「こんのぉっ!」
「ふ、流石はサビク。」
「だから待てってば!
 今日はピクニックだぞ?
 これじゃあ家にいる時と変わらないだろ…。」
『問答無用!!』
 二人は更に本気になって食って掛かっていく。
「あははっ お父さん達、楽しそ~!」
 それを遠巻きに眺めていた茜が言う。
「そうですね。
 では、私達も勝手に楽しんじゃいましょうか。」
 そう言って紅主は傍らに置いていた鞄からそれを取り出した。
「クッキー焼いてきましたから、おやつにしましょう。」
「わぁ、茜食べる!」
 小鳥達と戯れていた茜がすたたっと戻ってくると、シートの上にちんまり座って行儀良くクッキーを食べ始める。
――お? なんか美味そうなもん食べてるな。」
 匂いにつられたか、組手をしながら徐々に近づいてきたサビクがそれに気づく。
「クッキーか?
 どれ、俺も。」
 息子達の攻撃をかわす片手間に、紅主の持つ箱からひょいひょいっとクッキーを抜き取り、素早く口へと運ぶ。
「ちょ… 父さん!!
 真剣勝負の最中に、何やってるんですかっ!
 それに、立ち食いなんて、はしたないですよ!!」
「なんだ、昴は食べないのか? それは残念だな。こんなに美味いのに。」
 もごもごしながらも、更にぶんぶんと勢い良く振り回される本をかわすサビク。
「そ、そうは言ってな…」
「そうか。
 ならば代わりに俺が食べておこう。」
 と、そんな言葉に振り向けば、いつの間にか茜と共に紅主の横に座り込んでいた翔が、箱ごと抱えてクッキーを頬張っている。
「あああああああ!!??」
 それにはたまらず悲鳴を上げ、昴はサビクそっちのけでクッキーへと駆け寄った。
 しかし、既に箱の中は空だった。
「ぼ… 僕のクッキー…!」
 がくりと項垂れる昴を見て、申し訳なさそうな顔をする翔。
「す、すまない。冗談のつもりだったんだが…。」
「本当に食べたらそれはもう冗談でもなんでもありませんよ…ううぅぅぅ…。」
「そ、そうか… それは悪いことをした…。
 口に入れた瞬間に広がるバターの香ばしさ。サクサクとした軽快な歯ごたえ。卵と小麦の風味を損ねない、ほんとりと優しい甘み…。
 凄く美味しかった。本当に申し訳ない。」
「紅主の料理はどれも美味いが、今日のこのクッキーはまた格別だったな~。
 残念だったな、昴。
 食べ物は、食べれる時に食べておいた方がいいぞ。」
「~~~~~~~っ」
 そんなことを言う翔とサビクに、昴は涙ぐみながらもキッと顔を上げ、
「やっぱり父さんも兄さんも嫌いだぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~~~~!!!」
 力の限り叫んだ。
 その声は遠くの山々まで反響したのだった。