第6話

 宿を出たシグは港を歩いていた。
 海に漂っているところを通りがかった船に救助されたのが数日前のこと。
 その時は既に記憶を失っていたわけだが、海に近いこの場所なら、何か記憶の手がかりが得られるかもしれない。
 そう思ったからだ。
 しかし、ただダラダラと海岸線を歩いてみても、何かを思い出すようなキッカケも、シグの顔を見て反応を見せる人物と遭遇することもなかった。
「…まあ、そんなに簡単に手掛かりが掴めたら苦労しないよな…。」
 足を止め、海を眺めて苦笑する。
 ここ数日この町で過ごしていたにも関わらず何もなかったのだから、ここに来たからといって急に何かが進展する……なんてことは、そうそうないだろう。
「…何か知っているとすれば、昨日の――確か『サビク』とかいう子供くらいか…。」
 セリーシアとゴタゴタやっている間にいなくなってしまった少年のことを思い出す。
 唯一、真っ直ぐ自分に向かってきたのが『サビク』なのだ。
 けれどその『サビク』がどこの誰かもわからないのだから、結局、なんの手掛かりも無いに等しかった。
「……これから、どうすっか……。」
 海を見ながら頭を掻く。
――それで、その綺麗なハイプリースト様が助けて下さったんだよ。」
 ふとそんな会話がどこからか聞こえてきた。
 背後を振り向くと、船乗りとおぼしき数人が立ち話をしていた。
「ハイプリースト様?」
 シグは思わずそう訊き返していた。
 それに話していたうちのひとりが気付き、頷く。
「ああ。海に出ていた時に体調を崩してしまってな。丁度通りがかった船に乗っていたハイプリースト様が介抱して下さったんだよ。」
「コイツ、漁師のクセに船酔いしたんだぜ。」
「あ、あのな! 普段はならないんだよ!
 あの時は体調が悪かったから…!」
 からかわれた漁師は顔を赤くして言い返した。
「…そのハイプリースト様って、もしかして、明るい赤い髪の?」
 ついつい紅主のことを思い浮かべてしまう。
 彼女であってほしいという、ただの願望だったのかもしれない。
 しかし、シグの問いに漁師は頷いた。
「そうそう!
 長く赤い髪で、ここで三つ編みしている人だよ。
 なんだ、ひょってして、兄ちゃんも介抱され仲間か?」
 まさかの肯定。
 本当に紅主なのだろうか。
 シグはその船乗りに歩み寄る。
「…まあそんなもんだ。
 ちなみに、そのハイプリースト様がどこに向かったか、わかるか?」
 訊いてどうするつもりだ。
 遅れて自問するが、気づいた時には口を突いて出ていた。
「…さぁ…流石にそこまでは…」
 それはそうだろう。
 心のどこかで、落胆と少しの安堵。
 やはり彼女とは、もう会うことは――
 自分自身にそう言い聞かせていた時。
――ああ、そのハイプリースト様の降りた先なら、わかるぜ。」
 また別のところから声が掛かる。傍にいた船員のひとりがこちらの会話を聞いていたようだ。
「その人、俺たちの船に乗っていたからな。」
 彼はそう言って、背後に停泊している船を親指で示した。

――だからって、向かってどうする……。」
 甲板で船に寄りかかりながら、シグの口からまた苦笑混じりの呟きが漏れた。
 しかし、記憶も未だ戻らず、なんの手掛かりもなく行く当てもないのが現状だ。
「…まあ折角だし、着いたら街を軽くうろついて、次の行先でも考えるか…。」
 そんな風にふわっと方針を決めて船を降りたシグであったが、なんの因果か、目に入ってきてしまった。
 赤い髪の娘の姿が。
「……!」
 シグの知るハイプリーストの法衣姿ではなかったが、あれは紛れもなく紅主。
「…だから、追ってどうする…!」
 シグはまた自身に向けて呟きながら、吸い寄せられるかのように彼女を追った。
 声を掛けようとも思ったが、彼女には連れがいた。
 深紅の長い髪を後ろで編み束ねている男。
「…あいつが紅主の旦那か…?」
 少し若すぎる気もするが、夫婦でもおかしくはない年頃ではある。
 二人はどこかへ向かっているようだった。
 旦那の方は口数が少なく表情の変化もあまりなかったが、紅主は楽しそうに話し掛けている。
 きっと幸せな家庭なのだろうことが窺えた。
 少し淋しい気持ちになったが、紅主のそんな表情を見れば、シグの口元にも自然と微笑()みが浮いた。
「…………」
 シグが足を止めて踵を返そうとした時。
 それは現れた。
 紅主と旦那のもとに走り寄ってきた影――
 あの『サビク』と名乗った少年だった。
「…な…!?」
 反射的に、すぐ傍の木々の影に隠れる。
「…どうして、あいつが紅主達と一緒に…?」
 シグは驚くが、三人が和気藹々と会話し始めたところを見ると、知り合い以上であることは間違いなさそうだった。
「紅主達の子供か…?
 でも、あの二人の子供にしては、少し大きすぎる気が……」
 と呟き、気づく。
 いつの間にか旦那の姿がないと。
 けれど、それを探すより早く、シグは腰の短剣の柄に手を掛けた。
――動くな。」
 背後で声がすると同時にその手を押さえられ、首元に冷たいものが押し付けられる。
「…何者だ。
 さっきからコソコソと俺達の後をつけて、何が目的だ。」
――っ!」
「!?」
 答代わりにその両手を弾き払って距離を取り、『彼』と対峙する。
「…へえ…、なかなかやるじゃねえか。」
 シグは好戦的な笑みを浮かべてその男を見返した。
 それは、紅主の旦那と思しき人物だった。
 索敵能力の高さ、シグの背後をも取れる力量、即座に態勢を立て直す無駄のない身のこなし。かなりの手練れだ。
 けれど、相対するその男の顔に、驚愕の色が浮く。
「サビク…!?
 こんなところで何を……
 いや、そんなことより、いつ戻って……」
 その一言に、今度はシグが驚いた。
「…お前、俺のことを知っているのか?
 それに…」
 『サビク』はあの少年の名のはず――
 シグが言うが早いか、その『サビク』もこちらに駆けてくる。
――兄さん! ここにいたんですね。
 急にいなくなったから、探してしまいまし――
 けれど、彼もやはりシグを見ると驚いた顔になり、
「……父さん!? 記憶が戻ったのですか!?」
 嬉しそうにそう言った。
「記憶…!?」
「父さん…!?」
 今度は二人同時に声を上げていた。
「…あ…!?」
 その反応に『サビク』は慌てて口をつぐんだが、時既に遅かった。

「…なるほどな…。
 お前達二人は俺の息子で、もうひとり娘がいると…。」
「本当に何も憶えていないのですね…。」
 『サビク』と名乗っていた少年――正しくは昴――が、失望混じりのため息をついた。
 同じくシグ――もといサビク――の息子である(かける)は、何も語らず静かに状況を見守っている。
 あの後、昴と翔は、適当な理由をつけて紅主に先に帰ってもらい、サビクと三人でこの喫茶店に入ったのだった。
「悪いな…まだ何も思い出せてねえんだ。
 …しかし、まさか紅主が俺の嫁さんだったとはねえ…。」
 それにはとても驚いたが、言われてみれば、確かに納得する点も多い。
「…それにしても、お前達みたいな歳の子供がいるようには思えないんだが… 紅主は一体何歳なんだ?」
「確か今年で三十五と言っていたはずだ。」
 と、今度は翔。
「うあ、見えねえ…。」
 それより十以上年下だと言われても、疑う者はいないだろう。
 そんな苦笑混じりの呟きに、昴がキッと睨んでくる。
「何暢気なこと言ってるんですか! 本当に、いつもいつもいつもいつも、あなたって人は!!」
 そう吠えると、席から立ち上がってびしいっと人差し指を突きつける。
「今のあなたは僕達の父ではありません!
 今後、僕達の周りをうろつくのは禁止します!
 でも、僕達との連絡が取れなくなる場所に行くのも禁止です!」
「…なんだかややこしいな…。」
「サビクを連れて帰る、ではダメなのか?」
 顔をひきつらせるサビクの向かいで、翔が訊ねる。
「……っ……」
 昴は突きつけていた指を力なく下ろすと、静かに席に着く。
「…父さんに会った後、冷静になってから思ったんです。
 母さんなら、いくらショックを受けても、記憶喪失である父さんを放って帰ってくるはずがないと…。」
 未だ鮮明に思い出す、泣き腫らした母の目。
「…だから、何か他にも理由があったんじゃないかって…。
 でも、それが何かもわからないのに、父さんを母さんの前に連れていくわけにはいきません…。」
「サビクを連れて帰れなかった、理由…?」
「……はい。
 僕にはそれが何かはわかりかねますが…
 父さんは、何か心当たりはないのですか?」
 翔の問いに、今度は昴がサビクを見た。
 同様に、翔の答を求める眼差しもサビクへと向く。
「……あ~……」
 それにサビクは頬を掻いた。
 恐らくはセリーシアのことではなかろうか。紅主は、サビクがセリーシアの家に居たことまで知っている。
「……心当たりがあるんですね……。
 ――っ!」
「…っと。」
 反射的に身を退いたサビクの目の前を、昴の手のひらが過ぎる。
「…ん? どうした?突然。」
「な、なんで避けるんですかっ! そこは甘んじて受けるところでしょう!!
 あなたのことです、どうせ母さんを失望させるようなことしたんでしょ!?」
 渾身の平手打ちをかわされ、顔を真っ赤にして抗議する昴。
「ああ…そういう…。
 悪い。つい、体が勝手に…」
 しかし、言い終わるより早く、今度はテーブルの下で翔の長い脚が繰り出され、咄嗟に両手で防ぐサビク。構わず脚に更なる力を込めてくる翔。ぐぐぐと互いの力が拮抗する。
「…おいおい、いきなり急所攻撃なんて、なかなかえげつない――
 けれど、そんなテーブル下の攻防を知らない昴はゆらりと立ち上がり、
――最低です……
 もう… 父さんなんて…」
 真っ赤を通り越し、炎を纏いながら何やら呟いている。
 それを見上げるサビクと翔。
「…お、おい…? ちょっと待て。落ち着いて話を…」
「もう父さんなんて、知りませんッ!!!」
 ばちこーーーーーーーーーんっ!!!!
 両手の塞がったサビクの頬に、恥ずかしさと怒りの頂点に達した昴のグーパンがクリーンヒットした。
「……状況はよくはわからないが、サビクが昴と紅主を失望させたということは理解した。」
「……こいつ……いけしゃあしゃあと……。」
 急所攻撃などまるでなかったかのように涼しい顔で言う翔に、サビクは口の端を引きつらせた。
「に、兄さん…!?
 か、勘違いしないで下さい!
 僕は別に、父さんがどこで何をしてようと、なんともないんですから!
 僕が許せないのは、母さんを傷つけたからで…っ!」
 昴がムキになって抗議する。
「ふっ…」
 すると、翔の口から、空気が漏れた。
「……?
 今、ひょっとして、笑いました?」
 不思議そうに瞬く昴に、翔はほんのりとだが、微笑む。
「ああ。昴が兄と呼んでくれるようになったからな。」
「!!!!」
 その一言に、昴は更に赤面し――ぷいと横を向く。
「べ、別におかしなことではないでしょう。あなたが僕の兄であることは、紛れもない事実なのですから。」
「…そうだな。…ふふっ。」
「だ、だから、何がそんなにおかしいんですかーーーー!!!」
 昴はまた赤い頬を膨らませ、両手をバタバタとさせて叫んだ。
「…仲がよろしいことで…。」
 別の意味で頬を膨らませたサビクは、じゃれる息子達のやり取りを、頬杖の上から微笑ましげに眺めて呟いた。

――ともかく、いいですか!?
 暫くは様子見期間とし、その間、父さんは必ず、僕が指定した隣町の宿を拠点にすること!
 そこから離れる時は必ず僕への伝言を残して行先がわかるようにしておくこと!
 この二つは絶対に守って下さい!
 母さんが父さんを許す気になるまで、我が家の敷居を跨ぐことは許しません!!!
 わかりましたね!?」
 店の軒先で、昴は腰に手を当ててそう言った。
「……まるで昴がサビクの女房みたいだな。」
 何故か感心したように言う翔。
「ああ。しかも、女房は女房でも、きっと押し掛け女房系だぜ?コレ。」
 それにサビクは頭を掻きながらやれやれと応える。
「……何か言いましたか?」
『いや?』
 昴に睨まれ、二人は同時に反対方向へと視線を反らした。

 昴達と別れたサビクは、とりあえず昴に指定された宿に向かって歩き始める。
「……ん?」
 けれどその途中で見知った顔を見掛けて足を止めた。
 ある家の庭先で、老婆が椅子に座ってのんびりと陽の光を浴びていた。
 そしてその隣に寄り添うのは、ハイプリーストの法衣に身を包んだ紅主であった。
 彼女は老婆と楽しげに会話を交わしている。
 いつもの優しく柔らかい微笑()みを浮かべて人に接するその姿からは、一片の憂いも窺えない。
「…………」
――お? サビクじゃねぇか!」
 掛けられた声に振り向けば、村人のひとりがサビクに気づいてこちらに歩いてきていた。
「……よお。」
「おう。
 どうしたんだ?こんな所で。」
 男は、適当に挨拶をするサビクの横に並ぶと、倣ってサビクの視線の先を見た。
「……ああ、紅主ちゃんの付き添いか。今日はケインちのお袋さんとこの世話してんだな。」
 二人がその様子を見守っていると、家の中から若い男が出てきて、紅主と老婆に飲み物を差し出した。
「……ああ…ケインのヤツ、あんなに嬉しそうにしちゃって……。
 お前はいいよな~。あんな若くてキレーな奥さんもらってさ。」
 彼は苦笑混じりに呟くと、悪戯めいた視線をサビクへと向ける。
「だが… そんな余裕そうな顔してて大丈夫かぁ?サビク。」
「ん…?」
「旦那だからって油断してっと、紅主ちゃん、他の男に取られちゃうかもしれないぜ?
 ケインのお袋さんなんか、紅主ちゃんが息子の嫁になってくれればって、口癖のように言ってるって話だ。
 最近は少しボケちまってるみたいだが、息子のことは忘れても、紅主ちゃんのことは忘れないらしいしな。」
「……へえ…。」
 視線を外さないまま、サビクは適当な相槌を打った。
「…しっかし、こうしてパッと見るとホント、幸せな一家庭って感じに見えるよな~。」
 そんなサビクの隣で、彼は妙に感慨深げにうんうんと頷いている。
「…………」
 確かに彼の言う通り、知らない者がこの光景を見れば、仲睦まじい若い夫婦とその母にしか見えないだろう。
「紅主ちゃんも、いつまでも身を危険に晒してモンスターと戦っていたくないだろうし…」
「…………」
 言われて、遺跡でアンデッド達に囲まれ絶望する紅主の姿が脳裏に浮かぶ。
「本当はああして、親御さんの世話をしたり、家事や子育てに専念したいのかもしれないな。
 それに、あの紅主ちゃんだって、やっぱり若い男の方が……ってオイ? どこ行くんだよサビク。」
 歩き出したサビクに気付いた彼は首を傾げる。
「散歩。」
「…まさか本気にしたのか?
 冗談だって。
 …ん? サビク?
 サビクってば。
 サビク~~~~~~~?」
 自分の名を呼ぶ声を背後に聞きながら、サビクはその場を後にした。