第5話

 子供達が目を覚ますと、既にキッチンには紅主が立っていた。
「あ、お母さんだ~!」
「おかえりなさい。」
 いつものように茜と昴が駆け寄ってくる。
「今回は随分早かったんだな。昨日もらった連絡では、帰るのは昼過ぎと言っていたのに。」
 (かける)もそう言いながら三人のもとまで歩いてきた。
「はい。」
 紅主は動かしていた手を止めて頷く。
「予定よりも早く仕事が片付きましたし、朝一番の船に空きがありましたので。
 他に仕事は入れてませんし、今日は家にいますからね。」
「やったぁ~!」
「ずっと留守にしていてすみませんでした。」
 飛び付いてくる茜の頭を、紅主の手が優しく撫でる。
「茜もごはん運ぶのお手伝いするっ!」
「まぁ、ありがとうございます。」
 こうして紅主と茜がキッチンの奥へと姿を消し…
「…………」
「…………」
 その場に一瞬の沈黙が流れる。
「……何かあったのか?」
 先に切り出したのは翔だ。
「…やはりそう思いましたか…。」
 二人はどうやら同じことを思っていたようだった。
「少し目が腫れているように見えたが。」
「仕事先で、何かあったのでしょうか…。」
 昴は顎に手を掛けて唸る。
 そんな昴をじっと見つめる翔。
「……昴。」
「はい?」
 ふと声を掛けられ、昴が顔を上げる。
「教えてほしい。こういう時、俺はどうすればいい。どうすれば俺は、紅主の役に立てる?」
 真剣に訊ねてくる兄に、昴は少し驚いた顔をした。
 今まで、一緒に住んでいても、隣にいても、どこか一歩退いているような隔たりを、無意識に感じていた。
 しかし、それは違ったのだと気づいた。
 この人は真剣に、母さんのことを――僕達のことを、ちゃんと家族として、共に悩み、考えてくれようとしているんだ…。
「…………」
 そんなことを思い、昴はふっと微笑()みをこぼす。
「あなたは今まで通り、母さんのそばにいて下さい。」
「…わかった。それで少しでも紅主の役に立てるなら。」
 翔は、やはり真剣な顔つきで大きく頷いた。
 それに昴も頷き返す。
「では、家の事はお任せするとして、僕は…
 そうですね… 午前中にプリ―スト協会に行く用事もありますし、色々話を聞いてみます。」
「わかった。そっちは頼む。」

 朝食を食べ終わった昴は、宣言通りプリースト協会に向かった。
 自分の用事を済ませた後、協会に所属する者達が仕事を求めてやってくる受付へと足を運ぶ。
――あら、昴君じゃない。」
「今日はどうしたの?」
 受付嬢達が声を掛けてくる。
「こんにちは。
 あの… 母の仕事の予定を確認したいのですが…」
「え? 紅主様の?
 …う~ん… 本当はこういうの、他人(ひと)に見せちゃいけないんだけど…」
「まぁ、息子さんだし、問題ないでしょ。
 はい、これが紅主様の直近の日程よ。」
「ありがとうございます。」
 昴は差し出された台帳に目を通し――
「……こ、これは……!?」
 思わずそう呟いていた。

――では、紅主はもうサビクを探しに行くつもりがないと?」
 帰宅後。
 昴の報告内容に、翔はそう問い返した。
「…そうとしか思えません…。」
 昴は先程見た台帳の内容を思い出し、目を伏せる。
 台帳には三ヶ月先までの仕事が記されていたが、紅主はそのほぼ全日に仕事を入れていた。これではサビクを探す余裕はないだろう。
 いや、それどころか、休む暇さえあるかどうか…。
「…やはり、昨日今日で何かあったのかと…。」
 弱々しく語る昴に、視線を向ける翔。
「……どうする。」
 問われた昴は顎に手を掛けた。
「……僕はこれから、昨日母さんが行った町に向かおうと思います。もしかしたら、何か事情がわかるかもしれないですし。」
「……そうか。ではそちらは任せるとして……
 昴。すまないが、ひとつ案内を頼みたい。」
「案内…ですか?」
 意外な申し出に、昴は首を捻った。
「そうだ。」
 頷き返す翔の口元には、僅かばかりだが笑みが浮いていた。

 紅主には適当な理由を告げ、昴は見知らぬ港町を訪れていた。
 昨日ここに降り立った母は、町外れの宿屋に荷を置き、依頼主である町長宅へ、そこから遺跡へと向かったはずである。
「…まず宿に向かうか…。」
 とりあえずは同じルートを辿ってみるしかない。
 昴は宿の一室を借り、一息ついてから部屋を出た。
 この宿は一階が食堂兼飲食店となっており、この時間帯は宿泊客以外も利用できるらしい。
「母さんの情報と… あと、父さんのことも訊かないと…。」
 どうやって聞き込みをしようかと思案しながら、階段を降りて食堂へと向かう。
「…っと…、結構混んでるな…。」
 そこは思った以上に盛況していた。しかし、これだけ人がいれば、情報も集めやすい。
「ええと… 空いている席は…」
 店内を見回す昴の視界に、それは飛び込んできた。
 隅のテーブルを陣取り、ひとり淡々と酒を呷っている赤毛の男。
 特徴的な、頬に刻まれた傷跡。
「と、父さん…!?」
 それはどこからどう見ても、紛れもなく彼の父親であった。
「っ…」
 ギッと奥歯を噛み締めた昴は、つかつかとそのテーブルに歩み寄った。
 そして仁王立ちで父――サビクを見下ろし、バンッとテーブルを叩く。
「何やってるんですかあなたは! こんなところで!!」
 すると、彼はジョッキを持つ手を止めて昴を仰ぎ見た。
「……誰だ?お前。」
「!?」
 予想外の切り返しに、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「お前、俺のこと知ってんのか?」
 立ち尽くす昴に彼が言う。が、冗談を言っているようには見えない。
「な… 何…言って……」
 記憶喪失…!?
 …いや、まさか、そんな…
 でも、今の反応は…
「…………」
 昴は混乱する頭で必死に考えを巡らせ……ともかく事の真偽を確かめようと、意を決して顔を上げた。
「…あ… あのっ… 先程は突然失礼しました…。
 ぼ、僕… 名前を『サビク』と言うのですが……」
 彼自身を名乗る昴に、しかし彼はふぅんと小さく漏らす。
「…それで、その『サビク』が、俺に一体何の用だ?」
「……っ!」
 やはり、冗談を言っているようには見えなかった。
 では、母はこのことを知って……?
「どうした?『サビク』。具合でも悪いのか?」
「…あ…、ああ… あの…」
 次の言葉を探そうとしたが、何を言っていいのかわからなくなっていた。
「おい… 大丈夫か? 顔が真っ青だぞ。」
 まるで通りすがりの人に話し掛けるような口調。
「とりあえずここに座れよ。今、水をもらってやる。」
「……っ……」
 姿、声、言い回し、そして気遣いの仕方。
 やはり、間違いなく彼は父。
 …でも、父さんにとっては… 今の僕は、ただの他人…。
「…い、いえ… 大丈夫です…」
 そうだ。ともかく、一旦ここから離れて落ち着こう…。早く、離れなきゃ……
 昴はなんとか浮かべた笑みを彼へと向け、
「ど…どうやら人違いだったようです。失礼しました…っ!!」
 一方的に踵を返した。
「おい、待てよ『サビク』――
 背後で彼が何かを言っていたようだが、昴はただひたすらに食堂の出口へと足早に歩いた。
 途中、向かいからやってきた女性と接触してよろめくが、なんとか持ち直し、逃げるようにその場から立ち去った。

――ちょっとシグ! まだこんな所にいるの!? ごはん作って家で待ってるって言ったじゃない! いい加減戻ってきなさいよ~!」
「…お前…少しは周りを見ろよな…。」
 呆れて言うシグに、セリーシアが口を尖らせる。
「何よ、周りって。」
「今子供を吹っ飛ばして来ただろうが。」
「子供? そんなのどうだっていいわよ。
 わざわざお金払って宿に泊らなくても、うちに泊ればいいって言ってるじゃない。
 ほら、早く帰ってきなさいよ~!!!」
「公共の場で騒がないでくれ…。
 もうお前の家で世話になる理由はないと言っただろう。遅くならないうちに大人しく帰れ。」
 彼はげんなりとそう呟いてから視線を戻したが、既に少年の姿は見えなくなっていた。

「まさか、僕がわからないなんて…。」
 昴は部屋に戻り、ベッドの上で項垂れていた。
 自分の存在を忘れられる。そのことがこれほどショックなことだとは思わなかった。
「確かにこんな状況、僕達には言えない…か…。」
 母のことを思うと、心が痛む。
「……っ!」
 昴は顔を上げ、帰り支度を始める。
 せめて自分だけでも、少しでも多く母を支えなくては。
 そう思った。

 昴が帰宅したのは、夕飯の時間もとうに過ぎた頃だった。
「お帰りなさい、昴。」
 普段となんら変わらぬ様子で紅主が出迎える。
「ご飯は食べましたか?」
「……あ……そういえば……」
 言われて腹に手を当てると、腹の虫が真っ先に空腹を訴えた。
「ふふ、おなかは空いているようですね。
 少しだけ待てますか? 急いで準備しますから。」
 やはりいつもと変わらない笑顔に、痛む胸を押さえる。
「…あ…あの…、母さん…」
 昴はキッチンへと向かおうとする彼女を呼び止めていた。
「? なんですか?」
「あっ いえ…」
 振り向き微笑む彼女に、ぐっと拳を握り……顔を上げた。
「あのっ… も、もし、何か悲しいことや辛いことがあったら… 僕に…
 僕が……っ!」
 けれど、それ以上言葉が続かなかった。
 父の記憶喪失のショックにも耐えられず、ただ逃げ帰ってくることしかできなかった自分に、一体何ができよう。
 そんな自分を、頼ってくれだなんて…。
「……っ……」
 何も言えなくなって俯いてしまった昴を、紅主が優しく抱き締める。
「…か、母さ…っ」
「ありがとうございます。昴は本当に優しい子ですね。」
「……母さん……。」
 どうやら昴の言いたかったことは伝わったらしい。
 回された腕。頭を撫でてくれる手のひら。そのすべてが、昴を温かく包み込み、心落ち着かせてくれる。
「……母さん……」
「なんですか?」
 向けられる微笑みすら温かい。
「…何があっても、僕が母さんを守るから…
 頑張って守るから…。
 だから、無理だけはしないで…。」
 母の腕に守られながら、そう伝えるのが今の昴の精一杯だった。
 父がいなくなった今、母まで失ったら…
 そんなことまで考えてしまい、怖くて仕方がなかった。
 自分の服を掴み必死の表情で言う昴に、紅主は幸せそうに微笑(わら)う。
「はい。ありがとうございます。」
 紅主は今一度ぎゅっと息子の細い体を抱き締めると、改めて昴と向き合う。
「…昴や…翔や茜達が居てくれるだけで… それだけで、母さんは凄く心強いですよ。」
 そう言って微笑み、紅主はゆっくりと離れた。
「…すぐにご飯の支度しますから、先に座っていて下さいね。」
「……はい。」
 それに頷き返し、紅主はキッチンへと消えていった。
「…………」
 去りゆく紅主の背中を眺めていた昴は、ふと引っかかる。
 優しい母さん…。その母さんが… いくらショックだったからといって、記憶喪失の父さんを放って帰ってくるだろうか…。
――その様子だと、何か情報は掴めたようだな。」
 唐突に耳元で声がする。
「わぁ!?」
 慌てて振り向けば、すぐ背後に翔が立っていた。
「び、びっくりするじゃないですか! 家の中で気配消して近づかないで下さい!」
「す、すまない…。」
 思わず声を荒げる昴に、申し訳なさそうな顔をする翔。
「…あ、謝っていただくほどのことでもないですけど…」
 と、そこまで言って、昴は口ごもる。
 得た情報は、翔にも共有しなければ…。
「あ、あの…
 と、父さんの件…ですが……」
 なんて伝えよう。
 昴は悩む。
 父は家庭のことはすっかり忘れてのうのうと酒に興じて過ごしている、なんて…
「そ、その…」
「…………」
 父を信頼して(ここ)に留まることを選んでくれた(このひと)に、そんなことを伝えられるはずがない。
 昴は俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……お前に任せる。」
「……え?」
 唐突にそんなことを言われ、昴は思わず間の抜けた声を出していた。
 首を傾げつつ見上げられ、翔も言葉が足りなかったと自覚する。
「…昴。
 お前は賢いし、何よりサビクや紅主のことは、お前が一番理解しているだろう。」
 なおもきょとんと見上げている昴に、言葉を探しながら、翔は続ける。
「だから、お前が言わない方がいいと判断したのなら、何も言わなくていい。
 お前が言うべきと判断したのなら、いつでも聴こう。
 俺は、お前に任せる。」
「…………!」
 昴は瞠目する。
 たどたどしくも真っ直ぐに見つめてくるその瞳には、自分を信頼してくれようとする意思が確かに感じられた。
「……わかりました。
 では、そのようにさせていただきます。」
「ああ。」
 兄の不器用さに苦笑を混じらせながら、昴は微笑んだ。
「…………」
 そうだ。母さんが頑張ってるんだ。
 だから、今は母さんを支えることに注力しよう。この兄と共に。
「……ああ、そうだ昴。」
 決意を新たにする昴に、翔が言う。
「昨日手続きしたアレ、無事認可が下りた。」
「本当ですか!?」
 そう聞いた途端、昴の表情がぱぁっと明るむ。
「では…!」
「ああ。これで俺も、少しは役に立てるだろう。」
 期待を込めて言う昴に、翔は大きく頷き返した。

――母さん。」
 キッチンに入ると、オーブンの前にいた紅主が振り向いた。
「昴、もうすぐですからね。
 翔もおなか空いてますか?
 今スイートポテトも一緒に焼いているのですが… いくつ食べます?」
 すると、昴の瞳が輝く。
「やった! 母さんのスイートポテト、僕大好きです!
 僕はみっつで…」
「…昴、本題。」
「あっ!」
 翔に促された昴は、顔を赤くして「失礼しました」と頬を掻き、表情を改めた。
「スイートポテトの前に、お話したいことがあります。
 実は… 母さんのお仕事について、なのですが…」
「仕事のこと、ですか?」
 言われて紅主は体ごと二人に向き直る。
「はい。僕でもできる依頼なら、僕にやらせて下さい。」
「紅主のパーティメンバーとして登録したから、俺も紅主の仕事を肩代わりできる。戦闘メインの仕事は、俺が引き受けよう。」
 静かに話に耳を傾けている紅主に、二人は微笑む。
「分担すれば、少ない負担で、より多くの仕事ができるはずです。」
「だから、俺達にも手伝わせてくれ。」
「母さんは、もっと茜と一緒にいてあげて下さい。」
「……昴……翔……」
 二人の意図を察した紅主は、力強く微笑む二人の息子を優しく抱き寄せる。
「……ありがとうございます……。」
 その声は少し震えていた。