第2話

 昴がプリースト教本に目を通していると、妹が鼻歌を歌いながら部屋に入ってきた。
 そうして背後で何やらごそごそと作業を始めたので、昴はつられてそちらを見た。
 彼女はベッドの上で、手にしたリュックサックに次から次へと物を詰め込んでいるようだった。
「……茜、何してるの?」
 問い掛けると、彼女は歌を中断して昴を見返した。
「ピクニックの準備をしているの~。」
 楽しげに応えて準備を再開する茜に、昴は苦笑した。
「随分早いね。ピクニックは週末だよ?」
「うんっ! 早く準備して、お父さんの荷物も作っておいてあげるの!」
 昴はその言葉に納得して頷く。
「……そっか。」
「あっ とっておきのおやつも入れなきゃ!」
 呟いた彼女は、すててて~っと軽やかに走って部屋から出ていった。
 それと入れ替わるように、兄・(かける)が入ってくる。
「……二人とも、あまり心配はしていないのだな。」
 その呟きに一瞬何のことかと思ったが、遅れて言わんとしていることに気づき、ぱたんと本を閉じる。
「父さんのことですか?」
 首を傾げる昴に、翔は頷く。
「そうだ。
 サビクがいなくなって三日経つが、あまり気にしていないように見える。
 親がいない時、子供は不安になるものだと思っていたが…。」
 それは、彼が『施設』で敵を揺さぶるための知識として教わったもののひとつ。
 けれど昴は、う~んと漏らして天井を仰いだ。
「…まぁ、あの父さんですしね…。ちょっとやそっとのことじゃ、微笑(わら)って切り抜けて来るでしょうし。」
「確かにサビクはそうだが。」
 妙にあっさりと納得する翔に、「それに」と昴が続ける。
「以前、母さんが言っていたんです。
 父さんと母さんはずっと一緒に過ごして来たので、互いのことは、離れていてもなんとなくわかるそうです。
 だから、母さんが大丈夫と言うのなら、きっと大丈夫なのでしょう。」
 さらりとそんなことを言われ、翔は少し驚き――表情を崩した。
「……信じているのだな、サビクのこと。」
「信じているのは、『母さんの言葉』ですよ。」
 対する昴は、何故かむすっと応えた。

――はぁ~い。」
 玄関の扉が叩かれ、セリーシアが玄関へと向かう。
「ハイハイどちらさま?」
 開け放った扉の向こうには、法衣を身に纏った娘が立っていた。
 彼女は丁寧に頭を下げてから話を切り出す。
「突然すみません。わたくしは紅主と申します。
 少々お訊ねしたいのですが、こちらに赤い髪の男性がいらっしゃると伺っ…」
 バシーン!
 セリーシアは勢いよく扉を閉めていた。
「……何やってんだ?」
 ドアを背に固まるセリーシアを見たシグが首を傾げる。
「あ、えぇと… そう、昨日話した、しつこい人が来て…」
「ならなんで俺を呼ばない。」
「ま、待ってちょうだい!」
 ずんずかと歩いてきてドアノブに手を掛けようとするシグを、セリーシアが慌てて押し留める。
「……なんだよ。」
「あ… その… あんまり事を荒立てたくはないのよ。
 あなたに出てもらうのは、向こうが暴力的な手段に出た時だけでいいから。
 ね?」
「……わかった。」
 シグはどこか不服そうにしながらも頷き、手近な飾り窓から外を窺う。
 そこには、門の前に佇む娘の姿があった。
「……てっきり男かと思っていたが。」
 付きまとわれていると聞いて自然と男を連想していたシグは、意外そうに呟く。
「それは、あれよ… 私の美貌を妬んで嫌がらせしにくるのよ。」
 視線を外さずに言うシグに、長く伸びる髪をさらりと流しながら言うセリーシア。
「…………」
「…………」
 一時の沈黙。
「……もとい、近所の男の元カノが、私と彼がデキてると勘違いして逆恨みしてるの。」
「ああ…そっちの方がまだそれっぽいな。」
 外を向いたまま、納得したように呟くシグ。
「どういう意味よそれぇ!」
 セリーシアは思わず頬を膨らませて抗議の声を上げていた。

「……変な人に付きまとわれてる…ねえ……。」
 二階の窓から外にいる彼女を見つめ、シグは改めてそう呟いていた。
 あの法衣は、プリーストの中でも秀でている者がなれるというハイプリーストの証。
 年の頃はセリーシアより少し若い……二十代後半くらいだろうか。
 鮮やかに色放つ長く赤い髪は緩く片側で三つ編みにまとめられ、温和な表情で、姿勢正しく立っている。
 セリーシアが言ったことは十中八九その場凌ぎのデタラメだろうと思っていたが、彼女が門の前から動こうとしないのも事実だった。
「……どう見ても、悪いヤツには見えないが……」
 シグは暫く様子を眺めていたが、彼女がそこから離れる気配はなかった。

 シグがセリーシアに呼ばれてダイニングに赴くと、テーブルには既に香しい湯気の立ち上る料理の数々が並べられていた。
「お待たせ。お腹空いたでしょ? どうぞ召し上がれ~♪」
「ああ、すまない。」
 彼女の勧めに従って椅子に座り、早速ナイフとフォークを握る。
「……どう? 美味しい?」
 その様子を眺めていたセリーシアが、テーブルの向かいから訊ねてくる。
「ん… ああ、美味いよ。」
「ふふっ よかった。」
 彼女は嬉しそうにすると、自分もフォークとナイフを動かし始めた。
「…………」
 確かに彼女の料理は普通に美味かった。
 昼から肉どーんな豪快ステーキ料理で、少し濃いめの味付け。
 恐らくは世間一般的な男の好みに合わせてくれたのであろう。
 けれど、どうにも慣れなかった。
 自分の性格から、自炊していたようには思えない。
「……一体、誰のどんな料理を食べてたんだろうな……。」
 シグはセリーシアには聞こえない音量で呟いた。

 セリーシアが一通りの家事を終えて戻ると、ソファで寝ているシグの姿があった。
「あら… うふふっ…」
 彼女は足音を忍ばせてそっと近づく。
「ま~、かわいい寝顔しちゃって♪」
 彼の顔を覗き込みながら伸ばそうとした手を、突然ガッと掴まれる。
「えっ…!? きゃあっ!?」
 そのまま勢いよく手を引かれ、気づけばセリーシアはシグの腕の中にいた。
「…まぁ♪ 寝ている時は結構大胆ね、シグ♪」
 セリーシアは嬉しそうに呟く。
 が、
「……こう……しゅ……」
 続いて発せられた寝言に、眉を顰める。
「こーしゅうぅ~?」
 どこかで聞いたことのある単語である。
「ちょっとぉ! 目の前で別の女の名前を呼ぶとか、どういう――
 抗議すべくガバッと身を起こした瞬間、シグの目が見開いた。
――っ!?」
 かと思えば、今度は両腕を掴まれ、あっという間にソファの上に押さえつけられていた。
「…………っと……、セリーシアか……。」
 シグはそこに至って漸く覚醒したようで、彼女を戒めていた手を放す。
「…悪い、殺気のようなものを感じた気がしたから…」
「……殺気じゃなくて怒気よ。」
 頬を膨らませて言うセリーシア。
「は? 怒気?
 なんでだ?」
「さ~、なんででしょうね~?」
「……身構えたことは謝る。」
 なおも不機嫌に言われ、シグは少し困った表情で手を差し伸べた。
「…………」
「……セリーシア?」
 だが、それを一瞥しただけで、その手を取ろうとしない。
「……続きは?」
 ぽつりと、不満げにセリーシアが言う。
「続き? 何の。」
「…まさか、人を押し倒すだけ押し倒しておいて、何もしないつもり?」
「何もってなんだ。何もって。」
 シグが半眼で問い返すと、彼女は目を伏せて頬を赤らめる。
「そんなこと……女の口から言わせるつもり……?」
「……あのな……」
「ねぇ…、シグ……」
 シグが何かを言うより早く、セリーシアがするりと両腕をシグの首に回す。
「もっと素直になっていいのよ…?」
「…………」
 目の前で誘惑的な視線を向けられ、シグはため息をついて、彼女の腕を優しく解いた。
「……親切にしてくれていることには本当に感謝している。
 だが、悪いが俺にそういう気持ちはない。
 だから、俺はもう――
「し、失礼しちゃうわねっ!」
 シグが言わんとしていることを察し、セリーシアは慌ててぷいと横を向く。
「それだけを目当てににあなたをここに置いていると思われているのなら心外だわ。」
「……そうか……すまない。今のは忘れてくれ。」
 シグは言葉通りに申し訳なさそうに微笑んだ。
 セリーシアはその様子をちらりと見て、肩の力を抜く。
 功を焦って取り逃がしては元も子もない。ともかくここに留まらせれば、彼を手中に収める機会はいくらでもあるのだから。
「……わかってくれればいいの。
 あなたは何も気にせず、居たいだけいていいから。
 淋しい女の話し相手をするとでも思って……ね?」
「……ああ、わかった。助かるよ。」
 二人は見つめ合い、微笑んだ。
「……というわけで、続きをどーぞ。」
「……いや、だから、なんの続きだ。」
 シグは笑みをひきつらせる。
「だって、今思ったでしょ?
 この女、かわい~い♪しおらし~い♪抱きた~い♪って。」
「悪い、思わなかった。」
 体をくねらせて言うセリーシアに、彼はげんなりとそう言った。

「んも~~~~、シグってば、お堅いんだから!」
 ぶちぶちと文句を言いながら、セリーシアは玄関を出た。
「……まぁ、そのお堅いところがまた魅力でもあるんだけど。」
 と、頬に両手を当て、うっとりと呟く。
「まぁ、時間をかければ、そのうち……うふふっ。」
 ひとりほくそ笑み、植木の手入れをすべく門に向かって歩いていると、その先にある影に気づいた。
「……って、まだいたの?」
 そこにはあのハイプリーストがいた。
 彼女が来たのは昼前だったが、今は日も随分傾いている。どうやらずっとそこで待っていたらしい。
 呆れ顔で言うセリーシアに、彼女はまたぺこりと一礼した。
「…家の前でずっとそうされても迷惑なんだけど。」
 呟きながらも仕方なく彼女の前まで歩み寄り、「それで、なんだったかしら?」と、門越しに話の続きを促した。
「はい。
 赤い髪の男性を探しています。
 背が高くて… 左頬に傷跡があります。
 こちらに向かったと伺ったのですが…」
「……マスターね。余計なことを……。」
「?」
 セリーシアはそう吐き捨てると、首を傾げる彼女に向き直る。
「…ちなみに、あなたはその人とはどういう関係なわけ?」
 すると、彼女は心配そうな表情で――それでもなんとか微笑み、「夫です」と静かに告げた。
「……そう。」
 ある程度は予想していた答だったから、驚きはしなかった。
 けれど、ここで退く気など毛頭ない。
「……申し訳ないけど、お引き取りを。」
「……え?」
 唐突にそう言われ、彼女は瞬いた。
「確かに彼はうちにいるわ。」
 直後、彼女の表情に光が差すも、素早く「でも」と言い加える。
「今はここが彼の家なの。」
「……え……?」
 きっぱりと言い切るセリーシアに、彼女はきょとんと瞬き――
「……えぇと……それは、どういう……?」
「彼、記憶がないのよ。」
「……記憶…喪失……!?」
 途端に彼女の顔色が変わり、
「あのっ サビクさんは… サビクさんは無事なのですか!?
 どこか怪我とか…!」
 小さな門から身を乗り出して叫ぶ。どうやら『サビク』というのが彼の本当の名前らしかった。
 先程までの落ち着きが嘘のように彼女は取り乱した。
 そんな姿に内心驚くも、表には出さずに、極力平静を装い言葉を続ける。
「怪我はしてないわ。」
「……そ… そう… ですか……。」
 安堵した彼女に、微笑()みが戻る。
 が、
「……え…? ここが…家……?」
 漸く最初に言われた言葉が頭に浸透したらしく、彼女は呆然とセリーシアを見上げた。
「…そうよ。
 彼は記憶を失った。
 でも、今はもう別の人間として幸せに暮らしているの。うちでね。
 この意味、わかるわよね?」
「……!」
 その一言で、彼女はセリーシアの言わんとすることを察したようだった。
「…だから、あなたには申し訳ないけど… お引き取りを。
 今の彼の幸せな生活を、壊さないでちょうだい。」
 セリーシアは一方的にそう言い放って踵を返した。
「……あ……」
 背後で戸惑いの呟きが聞こえたが、構わず玄関の戸を閉めた。

 シグは二階からずっとその光景を眺めていた。
 どうやら二人の話し合いは終わったようだが、それでも彼女は……先程までとは異なり、どこか呆然とその場に立ち尽くしていた。
 けれど、暫くして悲しげな表情で顔を上げ――
 漸く二階のバルコニーから自分を見ているシグに気づいたようだった。
「……っ……」
「……?」
 彼女は何か言いたそうに口を開こうとしたが、シグの反応を見て、止まる。
「…………」
 そして肩を落とすように力を抜き――
 少し淋しげな微笑()みを浮かべたかと思えば、静かに頭を下げて去っていった。