第1話

 玄関で鞄を手にすると、彼女は三人の娘息子を振り返る。
「…お父さんは強い人だから大丈夫。
 でも、やむを得ない事情で帰れなくなってしまっているのかもしれません。
 だから、私がお父さんを探してきますね。」
 今日もまた、そう三人の顔を見渡し、彼女は微笑む。
「では、少しの間家を空けますが、よろしくお願いします。」
「はい。お気をつけて。」
「いってらっしゃ~い。」
「留守は任せてくれ。」
 子供達はドアの向こうへと消える母を笑顔で見送った。

 彼等の父親が消息を絶ってから三日が経った日の朝のことだった。

 ある女がひとり、酒場で酒を呷っていた。
「……はぁ……」
 ため息をつきながら見慣れた店内を見渡すと、同じカウンターの一席に座る男の姿が目に留まる。
 体格が良く、荒々しく伸びる赤い髪、顔に古傷、腰には短剣と、いかにも強者といった風貌。
 けれど、ひとり淡々と飲み続けるその瞳にはどこか憂いがあり、ただの荒くれ者とはまたひと味違う雰囲気を醸していた。
「あら、良いオ・ト・コ♪」
 思わずそんな呟きが漏れる。
 顔といい体格といい、好みドンピシャであった。
 彼女はグラスを手に席を移動する。
「…………」
 男は隣に移ってきた彼女に僅かな視線を向けただけで、然して気に留める風もなく飲み進めている。
「…………」
 暫く横から意味ありげに彼を見つめていた彼女であったが、痺れを切らして表情を切り換えた。
「…ねぇ、あなた、この街の人じゃないわよね?」
「…………」
 男は視線さえ合わせずに変わらぬペースで飲み続けている。
「ねぇ、どこから来たの?」
「…………」
「この店は初めて?」
「…………」
「……つれない人。」
 頑ななその態度に気を悪くした風もなく微笑(わら)うと、彼女も倣うように彼の隣で淡々と酒を飲んだ。

 次の日も酒場に足を運ぶと、昨夜と同じ席に彼はいた。
「…また会ったわね。」
 声を掛けながら隣に座るが、やはり男からの反応はなく、ただただ自分のペースで酒を飲む。
「……ホント、つれない人ねぇ。」
 呟き、彼に倣って酒を飲む。
「……ねぇ。」
 暫く経ったところで、彼女はまた声を掛けた。
「私はセリーシア。あなたは?」
「…………」
「名前くらいいいじゃない?」
「…………」
「……んもぅ。」
 嘆息した彼女は、一緒に酒を呷った。

「…セリーシア。もう閉店だぞ。
 おい、セリーシア!」
 店主がカウンターに突っ伏している彼女の肩を揺するが、小さく呻くだけで、それ以上の反応はなかった。
「…はぁ、やれやれ…。
 なぁ、アンタ。」
 急に声を掛けられ、セリーシアの隣の席にいた男は飲む手を止めずに視線だけで応える。
「悪いんだが、この子を家まで送り届けてやってくれないか。向かいの通りの一番端の家なんだ。」
「……なんで俺が。」
 そんな依頼に、彼はグラスを置いて不機嫌に言う。
 けれど店主は、がらんとした店内を見渡し、視線を戻す。
「俺はまだ店のことがある。だがこの通り、もう頼めるのはアンタしかいない。」
「…………」
 釈然としない表情で再び酒を呷る彼に、店主は仕方なしに最後の切札を言い添える。
「今日のアンタのお代、半額にするからよ。」
「引き受けよう。」
「……気持ちがいいくらいの即答だな。」
 こうしてセリーシアを彼に託した店主は、その二人の背中を見送りながら深く嘆息した。
「…まったく…また変な癖が出たな。セリーシアには困ったもんだ…。」

「…おい、家に着いたぞ。鍵はどこだ。」
 彼は背負った彼女に問い掛ける。
「…おい。」
 もう一度声を掛けるも無反応。
「…狸寝入りはそれくらいにして、とっとと鍵を出してくれ。いい加減重い。」
「……失礼しちゃうわねぇ。」
 むくっと顔を上げたセリーシアが口を尖らせる。
「どっちがだ。」
 彼の背から降りたセリーシアは、戸に鍵を挿したところで振り向いた。
「…あら、家まで送らせたこと、怒ってるの?」
「当たり前だ。」
「でも、そのお陰で半額になったんだもの、よかったじゃない。
 あれだけ毎晩飲んでいたら、流石にお財布もお疲れでしょう?」
「…………。」
 図星だったのか、それには短いため息だけが返ってくる。
「…ともかく、ちゃんと送り届けたからな。」
「ああ、待ってよ。」
 さっさと踵を返そうとする彼を、セリーシアは慌てて引き留めた。
「お礼にお茶くらい飲んでいってよ。
 それとも、お酒の方がよかったかしら?」
「…………」
 それに彼は仕方なしに振り返り、
「茶だけでいい。」
 と短く告げた。

――で、いい加減名前を教えてよ。わからないと不便だわ。」
 ティーカップを置いたセリーシアは、向かいに座る男を上目遣いに見上げた。
「…これを飲み終わったらもう帰る。何の不便もないだろ。」
 茶を飲む手を休める気もなく言われ、セリーシアはまた頬を膨らます。
「…女にだけ名乗らせて、自分は名乗らないわけ?」
「そっちが勝手に名乗ったんだろうが。」
 彼はまた呆れたが、嘆息してからやれやれと口を開いた。
「……名前はない。」
「……はい?」
 予想外の返答に、きょとんと彼を見返す。
「憶えてない。」
「えっ… 憶えてない…?」
「どうやら記憶喪失ってヤツみたいだな。」
「みたいだなって… それって結構大事(おおごと)じゃない?」
 何食わぬ顔でまた茶を啜り始める彼に、セリーシアは苦笑する。
「治療してくれたプリーストの話では、頭を強く打ったことによる一時的なもので、数日もすれば治るそうだ。」
「そうなの。」
 では、その数日のうちに既成事実を作ってしまえば問題ない。
 セリーシアは心の中でほくそ笑む。
「あ、じゃあ、記憶が戻るまでうちに居なさいよ。」
「いや、遠慮しておく。」
「家もわからないんじゃ、宿代だってバカにならないでしょ?」
「野宿でもするさ。」
「野党に襲われちゃうわよ?」
「そこらへんにいる野党くらいならなんとかなる。」
「……う…、え~っと……」
 悉くを打ち返され、セリーシアは言葉に詰まる。
「…………」
 その間に茶を飲み終えた彼は、カップを置いて椅子から立った。
「馳走になった。じゃあな。」
「あ、待って… 待ってよ!」
 セリーシアは去り行く背中にしがみつく。
「……なんだ、まだ何かあるのか?」
 男は大きくため息をついて肩越しに振り向いた。
「その…っ 腕には自信があるってことよね!?
 じゃあ助けてもらえないかしら!」
 必死に服を掴まれながら訴えられ、彼は仕方なく体ごと向き直る。
「……それで?」
 興味を少しでも引けたことで口元に笑みが浮くも、すぐに困った表情を取り繕う。
「じ、実は…
 最近変な人に付きまとわれて困っているの。
 でも、強そうなあなたが私の傍にいるとわかれば、その人も諦めると思うのよ。
 だから、行く当てができるまででいいから、うちにいてくれないかしら…。
 勿論、ご飯も作るし、ベッドも提供するわ。
 ね? 用心棒を引き受けると思って。お願い。」
 きゅっと彼の服を掴み、心細さをアピールすることも忘れない。
「……はぁ……。
 仕方ねえな… じゃあ、そいつの被害がなくなるまでだぞ。」
 潤んだ瞳で懇願され、彼はまた大きくため息をつくのだった。

――で、何をしているのかしら?」
 セリーシアは両手を腰に当てて彼を見下ろした。
「何って… 寝ようとしているようには見えないか?」
 言葉通りソファに寝転がりながら言う彼に、セリーシアは更に目尻を上げる。
「ちゃんとベッドで寝てよ。折角準備したのに。」
「あれはお前のベッドだろうが。」
「そうよ? だって我が家にベッドはひとつしかないんだもの。」
 さも当然のようにさらりと言い放つ。
「なら寝れるか!」
「一緒に寝ればいいだけでしょ!」
「あのなあ……って、おい、何してる。」
 言い合いをしながらも、セリーシアは彼の上に乗ろうとしてくる。
「見ての通りよ。仕方ないから、私もここに寝るの。」
「いや意味がわからないんだが。」
 何度目かのため息をついた彼は、迫ってきた彼女をするりとかわし、今度は床の上に寝転がる。
「あぁんっ そんなに私と寝るのが嫌なわけ!?」
「嫌も何も、そういう目的でここにいるんじゃねえ。俺はただの雇われ用心棒だ。」
「……んもぅ、素直じゃないわねぇ。」
 今度はセリーシアがため息をつき、彼の目の前に寝転がる。
「でも、そんな素直じゃないところも、す・き☆」
「……風邪引いても知らねえぞ。」
「ふふっ。じゃあ、風邪引かないように温めて?」
「…………」
 それに彼は無言で身を翻して背中を向けた。
「くすっ、照れ屋さんなんだから。
 …あ、そうそう。ここにいる間は、あなたのことは……そうねぇ…『シグ』って呼ぶことにするわ。名前が無いと、なんて呼んでいいのかわからないもの。」
「……勝手にしろ。」
「勝手にしま~す。」
 セリーシアは楽しそうに返して、彼の大きな背中にぴとりとくっついた。

 朝、目が覚めると、セリーシアは自分のベッドの中にいた。
 それを確認して、彼女の口元に妖艶な笑みが宿る。
「いいわ… ますます好み…♪」

「ご利用どうも。気を付けてな。」
「はい。ありがとうございました。」
 船員に頭を下げ、紅主は荷物を手に歩き出した。
 彼女が真っ先に向かったのは砂浜だった。
 眼前には、雄大な海。そして地平線。
「サビクさん… どうかご無事で…。」
 両手を組み、短く祈りを捧げる。
 サビクの乗っていた船がモンスターに襲われた。
 彼が囮となり引きつけてくれたお陰で船は守られたが、その日はかなりの時化で、彼自身の意向もあって、船は一旦その場から離れた。
 その後、捜索の船を出したが、彼の行方は掴めず仕舞いに終わった。
 その時の乗組員の話によれば、潮の流れから、流れ着くとすればこの海岸線である可能性が高いとのこと。
 故に彼女はここ三日間、その海岸線沿いにある町や港を訪れてはサビクを探した。
 今はまだ手掛かりはなかったが、残す当ても、あと僅か。
「……大怪我とか、してませんよね……?」
 彼の無事を願いつつ砂浜を歩いていると、何かが足元でキラリと光った。
「っ!」
 急ぎ砂を掻き分ければ、そこには見慣れた形状の首飾りが埋もれていた。
 ぱたぱたと丁寧に砂を払う。
 間違いなく、サビクがいつもしていたものだ。
「サビクさん……!」
 首飾りをぎゅっと握りしめ、瞳を閉じる。
 サビクは確かにこの近くにいる。
 そんな予感と想いを胸に、紅主は再び歩き始めた。

――赤い髪の男?」
「はい。これくらい背が高くて… 左の頬に傷跡があります。
 何かご存じないですか? ちょっとしたことでも構いません。」
 街にある酒場に立ち寄った紅主は、もう幾度目になるかもわからない質問を繰り返した。
「…ああ、そんな感じの男なら、昨日ウチに来てたよ。」
「ほ、本当ですか!?」
 店主の言葉を聞いた紅主は、弾かれたように顔を上げた。
「ああ。
 髪がこれくらいで、ここに傷がある男だろ?」
「はい! きっとその方ですっ!
 何か情報はわかりませんか!?
 どこに宿を取っているとか、どこへ向かったとか…!」
 カウンターから身を乗り出してくる紅主に、店主はう~んと唸る。
「…本人からは何も聞いてないが、その男が向かった先なら知ってるよ。」
「本当ですか!?
 お願いします、教えて下さいっ!」
 店主は縋るように言う紅主をじっと見返す。
 けれど、その真剣な眼差しを見て悪意はないと悟ったか、彼は話の先を続ける。
「…ここから出て向かいの通りの一番端の家に行ったよ。
 まぁ、何分昨日のことだからな。今もいるかどうかはわからんがね。」
「いえ、大変助かりました! ありがとうございました!!」
 紅主は深々と頭を下げて料金を支払うと、足早に店を出た。
 そんな必死な後ろ姿を見送った店主は嘆息する。
「……厄介な事にならなければいいが……。」
 完全に他人事スタンスの店主であった。