序章
サビクが薄暗い廊下を歩いていると、長く続くその先に、ひとりの少年の姿が見えた。
彼は向かい来るサビクを睨むようにしながら佇んでいた。
「――どうしたんだ?カガフ。こんな所で。」
サビクは彼の前で足を止め、そう語り掛けた。
「…それはこっちの台詞だ。こんな所で何をしていた?」
彼がそう訊ねてくるのも理解できる。この通路は『検体』と呼ばれている彼等には、普段縁のない場所だったからだ。
サビクは小さく肩を竦める。
「ちょっとした散歩だ。」
けれど、その答が気に食わなかったか、カガフは顔を顰めた。
「この時間、俺達が立ち入れないはずの実験棟の裏門から招き入れてもらって散歩か。」
「…………」
それにサビクはカガフを見返し――
ふっと表情を崩す。
「…バレてちゃしょうがねえな…。
ま、俺にも人目を忍んで会いたい相手がいるってことだ。
みんなには内緒だぜ?」
人差し指を口元に寄せるサビクに、カガフの眉がつり上がる。
「そんな理由で騙せると思っているのなら殴り飛ばす。」
「……まあ、子供にはまだ理解できねえか。」
それにサビクは小さく息を吐いて微笑い――
「いつまでも子供扱いするな!」
ぐしゃぐしゃと頭を撫でていた手を、カガフが鋭く叩き払った。
「……おいおい、何をそんなに怒ってんだよ。」
いつもより殺気立った様子に、サビクは苦笑する。
対するカガフは、はぁ…と苛ついたため息をつき、再びサビクを睨む。
「……また誰かの尻拭いをしているのか?
上層部の連中がお前のことを、役立たずだ邪魔者だと囁いていること、知らないわけじゃないだろう。」
「…お前、本人を目の前にして… 傷つくぞ…。」
「茶化すなよ。」
「…………」
真剣な眼差しを向けられ、サビクは微笑みを消した。
それに満足したのか、彼は誰にともなく頷き先を続ける。
「……十日後、お偉方や主要な研究者達が皆、出払うらしい。」
「!
お前、どこからそんな情報を――」
「その時に逃げろ、サビク。」
「!!!」
その一言に、サビクは一際瞠目する。
「…俺達全員が本気を出せば、お前ひとりくらい逃がすことはできる。
追手が掛かっても、お前ひとりならなんとかなるだろう。」
「……おいおい……正気か? もしそんなことをしたら、お前達だってタダじゃ済まないんだぜ?」
「役立たず扱いされているお前と一緒にするな。それくらい自分達でなんとかできる。
あと、勘違いするなよ。別にお前を助けたくて言っているわけじゃない。最強だのなんだのともてはやされていた過去の栄光にいつまでもしがみついている老兵に居座られ続けても邪魔だからだ。」
「老兵って、お前……」
サビクは悲しげに呟き……また表情を崩した。
「……一応、こう見えても、役立たずは役立たずなりに影で色々頑張ってるんだぜ?
俺だって消されたくはないからな。できるだけそうならないようには足掻くさ。
それに…
お前達がいるのに、俺がここを離れるわけにはいかねえよ。」
サビクはまたカガフの髪をわしゃわしゃと撫で、
「俺はお前達と一緒にいる。……最期までな。」
今一度穏やかに微笑むと、片手をひらひらと振りながら去っていった。
「……っ……!」
カガフはその背中に何か言おうとしたが――
結局、サビクを止める言葉を見つけることはできなかった。
「――本当にいいの?サビク。」
掛けられた声に振り向けば、カガフとはまた別の少年が、こちらに向かって歩いてきていた。
「…今回はまたとない機会なんだ。これを逃したら、こんなチャンスはもう二度とないかもしれないよ。」
サビクは体もそちらへ向けると、苦笑混じりのため息をついた。
「…やっぱり主導はお前か、ホリマ。」
すると、彼は小さく肩を竦める。
「確かに、僕が中心になって動いていたけどね。
でも、言い出したのはカガフだよ。」
「……カガフが……?」
呟いたサビクは、驚き――
「……そうか…。」
少し嬉しそうに微笑んだ。
けれど、すぐに真剣な表情をホリマに向け直す。
「…お前達の気持ちは嬉しい。
だが、今すぐ手を引いてくれ。……頼む。」
「…………」
同様にサビクを見返したホリマは……
短い沈黙の後、ふぅと息を吐いた。
「……わかった。」
そして、今度は申し訳なさそうに微笑む。
「……ごめん、サビク。
正直、今ちょっとホッとしちゃったんだ…。」
自嘲を帯びた呟き。
「君を助けたいのは勿論本心だ。
…でも、本当は、怖くて仕方なかった…。
サビクがいなくなってしまったらと思うと、僕は不安でたまらなくて…。
……ごめん。いつも君にばかり背負わせて……。」
それにサビクは微笑み、彼の肩にポンと手を置く。
「ああ…それでいい。
俺は、お前達に頼ってもらえるのが嬉しい。
ならお互い、それでいいだろ?」
「……ありがとう、サビク……。」
ホリマは、サビクの手に自分の手を重ねてそう声を絞り出した。
*
「――……」
サビクは身を起こした。
そこは、先程まで見ていた、薄暗く無機質な建物の廊下ではなく、温かな朝日の満ちる部屋のベッドの上だった。
何かが伝う感覚。
「…………」
反射的に頬に触れた手のひらは、濡れていた。